ワイルドソウル

先週はヘビーだった。精神的にも疲れた。来週も引き続き精神的にきつい。

昼過ぎに起きて散髪に行く。その帰りに本屋で「ワイルドソウル」を購入。
ほんとは今日は仕事をしようと思っていたけど、どうもそんな気分になれず新進堂に行って「ワイルドソウル」を読み始める。半分ぐらい読んで店を出て、今度は出町柳のデルタに行く。やけに牧歌的な環境のなか、引き続き「ワイルドソウル」に引き込まれ読了まで。

ワイルド・ソウル
垣根 涼介



おすすめ平均ああ、現代のレ・ミゼラブル
期待以上の面白さ
祝・大藪春彦賞 受賞!

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大藪春彦賞、吉川英治賞のダブル受賞ってことだけれども噂に違わぬ面白さ。一度読み始めたら止められなくなる。緻密に練り上げられたストーリー、周到な伏線、どれをとっても一級のエンターテイメント。純文学の迷宮に彷徨いこんで逡巡するのも小説の楽しみの一つなら、圧倒的なスピードでその物語に溺れるのもまた楽しい。この小説は明らかに後者の楽しみ方を与えてくれるものだけれども、そのテーマは単なるエンターテイメント小説を越えてとてつもなく深い。
しかし、そのテーマの重さや問題の切り口と対比するかのようなブラジルの大地の明るさ、太陽を感じさせるケイの乾いたキャラクタが物語から悪い意味での「しみったれ感」を排除するのに成功していて、それがこの小説の成功のひとつなんだろう。「悔恨」とか「復讐」って言葉にはどうしてもジメジメした感じが付きまとうけど、この小説はむしろ爽快感さえ漂う。

1日楽しみたければ「ワイルドソウル」を読もう。

全然関係ないけど、
10年前の日記が出てきた。1994年4月24日(日)
「天皇賞。B田に買ってきてもらう。昼過ぎD.Aがやってくる。なか卯でめし」
「10時から麻雀。面子はB、H、T。+500円。AM5:00寝る。」

はて、天皇賞は勝ったのだったか。すっかり忘れてしまった。
前日土曜日も競馬だったようで2勝2敗 +7万円だったようだ。
映画「黄色い大地」「北京好日」を観ている。

こうやって十年前に何やってたかを見返してみるというのもなかなか面白い。休日の過ごし方はあまり変わってないなー。

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コメント

  1. 渡辺日出男 より:

    垣根涼介の真髄

    事前知識もなく、きっと何かあるに違いないという感だけで「ヒートアイランド」を読んだのが昨年11月。びっくり。
    続けて、ギャングスター・レッスン、サウダージを読む。うんっ?落胆。そして、2005年5月ワイルドソウルを読む。今度は仰天。
    読み方の順序が違っていただけ。発表時期から見ると以下の順となる。
    2001年7月 ヒートアイランド
    2003年8月 ワイルドソウル
    2004年6月 ギャングスター・レッスン
    2004年8月 サウダージ

    僕が読んだヒートアイランドは文春文庫版で、2004年6月初版のものであった。そして、今日2005年5月5日、大沢在昌の解説「完成へと向かう男たち」を読んだ。大沢は、「ワイルドソウル」を先に読み、さかのぼる形で「ヒートアイランド」を読んだいう。
    僕なりの垣根涼介論を大沢の解説との対比で書いてみたい。
    大沢は、「垣根涼介の中心軸は、巨大なエネルギーの、高熱を伴った噴出を描くことにある。」、「修羅場が男を磨くという信念を垣根は持っている」、「意思は強いが、その意思を支えるだけの戦闘能力を身につけていない完成に向かう男を、完成された男はそれを見抜き、パートナーに加え、鍛え方を教え、共に修羅場をくぐることで完成に近づく機会を与える。」と言う。そして、「こうしたパートナーシップに支えられた男たちの物語が、おもしろくないわけはなく、読者は安心してストーリー展開を楽しむことができる。」、「垣根涼介は、壮大な男たちの物語の第一章として、本書を書き上げたことになる。」、「男が男を見込み、完成された男を生み出す過程のエピソードは熱いだろう。その熱気に自ら包まれることを欲する読者の数は増えていくにちがいない。」、そして、最後に、「男が好むメカ、ことに銃器と車を愛し、その描写を飽きることなく書き込んだ大藪春彦の正統なる後継者たる資質を、誰よりももっている。男の叙事詩を書く可能性を、無駄にはすまい。それだけの才能を持った小説家である。」としている。

    二つの作品から読み取る小説家である大沢の垣根涼介像がこのようなものになるのは、ある意味で必然かもしれないが、この解説は優れたストーリーテラーである大沢の限界をも同時に示しているのではないかという興味が湧く。
    大沢の作品は小品も含めかなり読んだ。稀代のストーリーテラーであるとは思う。新宿鮫の第一作は凄かった。その興奮を更に期待してシリーズを7作までは読んだ。だんだんつまらなくなった。だんだんと言ったが、実は二作目からはさっぱり面白くなかった。読者は次こそ、次こそと期待して引っ張られる。面白くない理由にはっきりと思い当たったのは。「心には重すぎる」を読んだときである。テーマは社会性もあるもので、登場人物もかっこよい。しかし、病んでいる若者の心の描写になると、読んでいて歯がゆくなっていく。「花村満月なら、たった一行で書いてしまえるところを、どうしてこの人はくどくどと何行もかけて説明するのだろう」と思ったのだ。
    大沢は優れたストーリーテラーであるから、「男が完成に近づくエピソードの面白さ」に目が行くのだろうと思う。そして、銃器や車の記述から「大藪春彦の後継者」というような解説になってしまうのだと考える。書ききれない、しかし、大沢自身は決してもどかしいと思ってはいないのだろうが、人間を書くというもっとも根本の小説家の洞察と表現力に弱点を持つ大沢は、そのような次元で垣根の資質を評価しきれないのではないかと思う。だから、垣根の作品を男の本と断定してしまうのであろう。

    小説家は必ずしも哲学者ではないだろうから、しかめ面をして垣根の心の領域を探る必要はないのかもしれない。どんな風に思おうがそれは読者の勝手と書き手は思うかもしれない。しかし、垣根の社会性は決してそれだけでは済まない深さを持っているように思えるし、大沢の言うような見方をすることはそれこそ垣根の資質を無駄にすることに思える。
    抽象的なことを述べてもしようがないので、あえて結論から先に言おう。垣根の視点は、現在の日本が抱える、特に「権力にある者の想像力の欠如」と国民全般の風潮としての「考えることに対する責任の欠如」を告発するところにその真髄がある。今の日本が危機に瀕しているのではないかとは有識者誰もが口にすることである。しかし、どうすればよくなるかの具体策など誰も出せない。垣根は、日本人を愛しながら、その愛する日本人がつくる愛すべき日本を作れないもどかしさに解決を与えようと模索しているように思える。垣根は、日本と日本人に絶望を感じながらも希望を持っている。その希望が、大沢の言う完成されていない主人公たちである。希望をもっているから登場人物にエネルギーを吹き込める。言葉の魔術師、花村満月は人間の欲望と悲しさを描く。暴力がその昇華点である。希望はない。だから、内へ内へと篭る。大沢が何行要しても書ききれない心をたった一行で書ける満月であるが、社会性を提示できないのはそれが理由である。
    社会性を孕んでいてもストーリーは面白くなければならない。哲学書ではなく少説なのだから。
    しかし、ストーリーの面白さ、男を磨く友情や生き様の生き生きした描写、車や銃器など小道具をふんだんに盛り込んだ描写や分かりやすい表現力に惑わされてはならない。その一見軽く読み進むことができる文章のあちらこちらに垣根の思い入れが散りばめられ、垣根の本質を見ることはそれほど難しいことではない。
    二作品の軸は、垣根が繰り返し書く、日本の仕組みが持つ「想像力の欠如」と「それがもたらす無能」の暴露である。決して、大沢の言うような「完成された男によって磨かれる完成されていない男のストーリー」などではない。それは表現方法である。

    僕は、現在63歳である。ワイルドソウルで描かれるブラジル移民が1961年のことであるから、大学二年生の時のことである。
    1941年に今はメロンで有名になった炭鉱町夕張で生まれ育った。勉強も運動も田舎で目立つ存在であった。しかし、小学5年生のときに決してなりたくない職業として、役所勤め、医者、先生を挙げていた。未だに何故か分からない。家は、散髪屋で共産党員ではない。が、ワイルドソウルを読んで、突然贖罪という言葉が頭をよぎった。両親を幼くして失った、叔父に育てられた。戦後の貧困状態にあった時代である。朝の一番方から三番方まで、顔中真っ黒になって炭鉱夫が山から上がってくる姿を見て過ごした。厳寒の中、外便所まで行かなければならない長屋住まいの炭鉱夫の生活に矛盾を意識したわけでもない。それには幼すぎた。雑品集めの韓国人や中国人をはやす子供たちに決して同調しなかった自分が何時どのように形成されたのか分からない。経営者と底辺の炭鉱夫の格差。同じ貧困の中にあるにも関わらず韓国人や中国人に対する蔑視。その頃から、同胞としての日本人を恥じる心があったと思う。
    大学を卒業し、そこそこの企業に就職。会社勤めの中で、地位の高い者に擦り寄る物を嫌悪し、派閥争いに巻き込まれる擦り寄りには生理が拒否した。権力を拒否する一方、擦り寄ろうとする自分も居ることに気づき内心の葛藤を卑下する。幸せになってはいけない、なるのが恥ずかしいと考える自分が居る。幸せのひとつの形は経済力である。それは破壊した。そして63歳の今がある。自意識過剰。そうなのであろう。日本人を恥じてどうなる。自分もその一員ではないか。自分が日本人を代表している訳ではない。しかし、一員であることに強い自覚があるからこそ恥ずかしい。日本がバブル景気に浮かれた80年代。東南アジアで女を買う日本人。醜い。韓国のウォーカーヒルのコーヒーショップでそれと分かる韓国女性と朝食を取るブルゾンの日本人二人。無様だ。だから、目をそらす。「英国は終わった国。何も学ぶことなどない」とのたまったイギリスで出会った三菱商事社員。その傲慢さを嫌悪。大東亜共栄圏の名の下、大国日本を背負った兵士の大半が傲慢であったろうことは容易に察しがつく。何も変わっていない。垣根の書くブラジル移民政策と外務省。この根っこは同じ。権力に擦り寄る誘惑に勝てない日本人。権力の下で傲慢になる日本人。これが日本人の正体。垣根は、その若さでそれが分かっているのだ。しかし、垣根は希望を捨てない。権力の象徴の中に秋津、田川、岩村を登場させる。それは垣根の希望の証である。青木が原の知恵のゲーム。ケイは負けたことに潔い。それは、個人の「想像力」と「考えること」にあるとする垣根の信念のもたらす個人の潔さであり、混沌とした日本の進路への解決策の提示である。これが垣根の社会性である。垣根の真髄はここにある。
    ヒートアイランドでは、「考えることに、責任を負うことだよ。利害を抜きにしてじっくり考えれば、ある程度物事の先行きなんて見えてくる。イマジネーションの問題さ。ちゃんと先を読んで、物事を決める。そして実行する。それだけだ」がそれである。国会中継の意味不明の質疑や問題先送りに、悪態をつく合いの手をさんざんふりまく17歳の少年カオルの毒舌に、同居する主人公少年アキが、「じゃあ、いったいこいつら、どうすりゃいいんだ?」とたずねたことにカオルが答える件(くだり)にまったく同じ垣根の信念を見ることができる。
    ケイ、貴子、松尾の会話の軽妙さは、ヒートアイランドの桃井の軽妙さと同質である。真髄の深刻さをストーリテリングの余裕で読ませる。これが垣根が信じてやまない希望の社会への強烈な投げかけである。

    できるだけ多くの人に読んで欲しい。「想像力と考えることに責任を負う」この垣根の信念を広めることに少しでも役に立ちたい。希望の灯を絶やさないために。

    2005年5月7日
    chalaza.net 設立・運営人( http://www.chalaza.net
    渡辺日出男

  2. ワイルド・ソウル

    ISBN:434400373X 単行本 垣根 涼介 幻冬舎 2003/08 ¥1,995 今年一番の長編を読みきった。525ページ2段組。 読了後...

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