深い喪失感 「さよならクリストファー・ロビン」(高橋源一郎)

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さよならクリストファー・ロビン

なんでこんなに哀しく、寂しいんだろう。
それはこの小説に納められているすべての短編が「失われていくこと」や「損なわれていくこと」を扱っているからだろう。

大切なもの、偉大なもの、愛しいものは、みんな消えてしまった。壊れやすいものも、小さなものも、みんな。けれど、わたしたちには、まだ、するべきことが残っているわ。
(略)
さあ、わたしの仕事をしよう。何が起ころうと、いままでもそうして来たように。いつか、あのドアを、大きな帽子をかぶった男や、スーツを着たウサギや、トランプの女王さまがノックする時が来るまでは。(P.54 「峠の我が家」)


これらの短編は明らかに「3.11」や「フクシマ」以降の世界や物語というものを意識している。読み方次第では多分に政治的な意味レベルに還元してしまうこともできる。でも、そういう読み方が正しいのかどうかはボクにはわからない。むしろ、そういったある一方的な論理や認識から性急に答えを出そうとしてしまうことや、答えを導きだすことが重要だと勘違いしてしまうことの方への牽制としてそもそも文学の言葉があるのではないか。

ぼくは、「2分13秒」のあいだ、あることをかんがえた。でも、それは、その後では、もう、ぼくのところにない。でも、あの「2分13秒」があったことはたしかだと思う。それから、その「2分13秒」のあいだにかんがえたことも。なのに、もうない。あの「2分13秒」のあとの、もう一回分の「2分13秒」でも、ちょっとはかんがえた。パパがじゃましたから、あんまりかんがえられなかったけど、その「2分13秒」も、もうない。あったものが、なくなるのは、なんかへんだ。なくなったような気がしない。でも、あるような気もしない。
(P.93「お伽草子」)


たとえこの世界を虚無が飲み込んでしまっても、あるいはどうにもならないような絶望を前にしても、まずボクらはそれを受け入れるしかないのではないか。最終話の「アトム」の中の人々が、退行していく時間にあらがえず、それを受け入れ、知っていた世界から知らない世界へ引き戻されていくのと同じように。でも、だから足掻いたりもがいたりするのが無駄なのではない。それでも、ボクらは続きを読まなければいけないし、できるだけのことはやってみないといけないのだ。

世界がこんな風になったのは、向こうの世界で(どんな世界か知らないけど)、とんでもないことが起こったからだ、というやつがいた。だから、ぼくたちは、自分で自分のことを書かなきゃならなくなったのだと。そうなのかもしれない。でも、そんなことは、もうどうでもいいのだけれど。
(略)
ぼくが、最後に書くお話は、ぼくたちがいつも行った100エーカーの森のお話だ。一度、なくなったものは、戻って来ないというから、もしかしたら、ぼくたちは、あの森には行けないかもしれない。だったら、ごめんね、クリストファー・ロビン。
 でも、ぼくは、できるだけやってみるよ。
 そして、もう一度、ぼくたちが、あの100エーカーの森に行けたら、あの、森のはずれの大きな木の下に行けたら、あの、ほんとうの美しい夕暮れを見ることができたら、ほんとうに嬉しいのにね。(p.25-26 「さよならクリストファー・ロビン」)

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