2003年12月24日
神はダイスを遊ばない
年末も近いということで、20冊ほど、本を仕入れてきた。年末年始は比較的まとめた時間をとれるので本を読むにはちょうど良いのだ。で、そのなかの一冊がこれ。なぜかボクは年末になると阿佐田哲也の「麻雀放浪記」やらの「ギャンブル小説」が読みたくなる。年末年始には必ずといっていいほど麻雀かオイチョカブをやっていたから、なんとなく「年末年始=博打」という結びつきがボクんなかにできあがってしまってるんだろう。
森巣博のことをは全く知らなかったのだけれど、帯に踊る「阿佐田哲也を越える賭博文学の最高峰」なんていう言葉につられて買ってしまった。
帰りに喫茶店に寄って、手持ち無沙汰なので読み始めたら、とまらなくなって、結局最後まで読んでしまった。(年始用のギャンブル小説をまた買ってこなくては....)
この本を読んで驚いたのは、語り口がいわゆる「小説」してないことなのですね。確かに、これは「ジャンル超越」文学です。著者は、本書を「ファクション Faction」だと定義している。全部が全部「ファクト(fact=事実)」の羅列でもなく、かといって「フィクション(fiction=作り話)」でもない。「無境界」に位置すると。
ボクは「小説」だと思って読み始めたのだけれど、途端に「あれれれ」と肩透かしをくらった。(ということが、いかに「小説」ってものが「小説らしさ」みたいな制度に束縛されているのかといことをよくあらわしているなぁ...)
なるほど「ファクション」とは確かに。
物語は、著者自身と思われる主人公が美人ディーラーと出会って、美人ディーラーと共に、大博打に挑む、っていうような単純なものなのだけど、寄り道、回り道、脱線が繰り返されて、それが面白い。むしろ脱線こそが本書の魅力。(このあたりは、田中小実昌とか小島信夫にも通じるところがあるんじゃないかなぁと)
カシノ(森巣博は「カジノ」とは言わない)世界の話に始まり、博打とは何か、博打における心構えが語られるのは、「賭博文学」だから当たり前なのだろうけど、持って来る引用や喩えが、聖書から漢書、平家物語から西行、フロイト、ミシェル・フーコーとおろしく幅広く、それがまた面白い。絶妙なのだ。
そして、著者の興味、関心は博打のことに留まらず、オーストラリアの文化と日本文化の比較がでてきたり、資本主義とななんぞやと問いはじめたりと、その興味や関心の領域の広さと脱線の面白さに、読むことを中断することができなくなる。すごい筆力だ。
阿佐田哲也はギャンブルを通じて社会の縮図を描いたなんてことを言う人もいるけれども、ボクは、阿佐田哲也はギャンブルのギャンブルたる魅力を、文章という全く違う表現形式で表現してみせた、ということが凄いと思っている。坊や哲や、ドサ健の生き方を、サラリーマン金太郎よろしく「参考にする」ことなんて、えらくしょーむない読み方じゃないだろうか。小説の面白さをわざわざ何か別のものに還元する必要もない。(もちろん、とはいっても阿佐田哲也の小説には明らかに生きることへの教訓が多分に含まれていて、ボクもその影響を少なからず受けているのだけれど)
本書は阿佐田哲也とはまったく逆で、むしろ脱線で語られる薀蓄やトリビアが面白い。それはギャンブル小説が持つ高揚感とか、興奮とは少し違う。
なので、「阿佐田哲也を超えた」というのは正しくないだろう。むしろ、良くも悪くも、ギャンブル小説の潮流が阿佐田哲也という巨人の影響を受けずにおれないところに、その影響は随所に受けながらも、それを消化、吸収し、独自の文体、語り口を生み出し、新しい文学の可能性を切り開いた、というところこそが評価されるべきではないかと思う。
2003年12月23日
オノマトペから筒井
5時過ぎにコタツでそのまま寝てしまい、7時過ぎにうとうとしながら「おはよう朝日です」を見てたら、二度寝に入り、起きたのは10時だった。とりあえず近くのパスタ屋に出かけ、京都新聞を読む。
新しいオノマトペがどんどん生まれているとかなんとかいう話がのってた。それは漫画、コミック文化の影響だとかなんとか。川上弘美や舞城王太郎なんかの新しいオノマトペが紹介されていたけど、オノマトペといえば筒井の「敵」を思い出す。
「敵」では、オノマトペに漢字をあてていてそれが妙に面白かった(こういう手法は今までも存在したんだろうか? でも、手法だけがとりあげられて「面白い」「面白くない」」なんて言うのも変なもんだが) 手元にないので、いろいろとウェブを調べてみると、こんな当て字が使われていたらしい。
「鵜化鵜化と」(ウカウカと)
「慈輪慈輪」(ジワジワ)
「躯躯躯躯躯」(クククク)
ただの当て字ではなく、そのオノマトペが使われるコンテクストと、漢字としての意味をちゃんと考えたうえで選択されていて、オノマトペが本来伝えようとしている感覚的表現をより重厚なものにしている。
筒井自身、「虚航船団の逆襲」の中で、
普通の小説の中で、慣用句となった「どきどき」「はらはら」「わくわく」「いらいら」「がたぴし」などの擬態語、擬声語を濫りに使うのは下品とされているが、どうしてもこの種の語を入れて誰でもが容易に思い浮かべ得る感覚を表現したい時がある。そういう時は辞典を利用して漢字をあてはめればよい。うまく行けばスマートな表現になるし、「やっぱり鬼才だ」などと褒められたりもする。〔………〕やはりこういうものはぶっつながりにやっては泥臭くなり、いやらしい。
あくまで小説中の一カ所で、効果的に使うべきだろう。
というようなことを言ってるらしい。
そもそもオノマトペ自体が、音による動作や状態や泣き声などの表現なわけだけど、それに象形文字としての漢字を組み合わせることによって、視覚的表現にまで拡張するってのは単純だけど、すごいアイディアじゃないだろうか。(最初に使ったのは誰ですかね?)
筒井の一連の実験小説、「残像に口紅を」とか、「虚人たち」とか「朝のガスパール」なんてのは、いろいろと批判も多いけれども、ボクはテキスト表現の習慣性とか、文学の無意識的な前提とか、そういうものを明るみに出すことも、文学の一つのあり方だと思うので、これらの作品も小説家の仕事としては評価されるべきだろうと思う。
(参考)
【ことばをめぐる】(030930)おたく、筒井康隆、松浦寿輝、折口信夫論
http://www.asahi-net.or.jp/~QM4H-IIM/k030930.htm
会議室:「ことば会議室」
筒井康孝「敵」http://www.tok2.com/home/okazima/room_1/BBS_MSG_980205215921.html
筒井康隆『敵』のJIS感字論
http://member.nifty.ne.jp/shikeda/tti.html
2003年12月18日
段取り力
著者は人間の能力や才能には大きな差はなくて、あるのは「段取り力」の差だ、とまで言い切る。著者に掛かれば、すべてのことは「段取り」というプリズムを通して語られる。イチローの練習方法も、リタヘイワース刑務所からの脱獄も、料理の鉄人も、鉄道のダイヤグラムも、すべて「段取り力」なのだそうだ。つまり人生がうまくいくかどうかは「段取り」にかかっているというわけだ。
確かに、「段取り」という言葉には、事がうまく運ぶように手順をととのえることといった意味があるわけで、段取りがうまくいけば、うまく事が運ぶのだろう。しかし、どうも本書のなかのたとえ話には飛躍がありすぎて、それも「段取り」なの?と突っ込みたくなるところが満載だったりする。
「段取り力」をつけていくには、スケジュールを管理しなければならない。その管理方法として、90分を1ブロックとして1日の予定を3色ボールペンで手帳に書いていくというような方法を解説しているのだが、そんなところでいきなりこんな一節。
そう考えると、時間割はなかなか優れた考え方だ。私たちは学校教育でずいぶん鍛えられているが、時間割は馬鹿にできないパワーを持っている。たぶん時間割を持っている民族と持っていない民族が戦争したら、持っている民族が勝つのではないかと思う。
段取りってのが凄く重要だということを強く強く訴えたいのだろうけど、これはいくらなんでもなぁ...
具体的に「段取り」とはこうする、ああするというような解説本というより、「段取り」がいかに大事か、そして「段取り力」というのは、個々人が自分にあわせた方法でつけて行くことができるのだということを訴える側面が強く、実践書というよりは啓蒙書だ。
最近、個人的に予実管理というものを始めた。
これも一種の「段取り」なのだろうか
ある会社では、退社前に必ず明日、何を何時間やるという予定を入力しなければならないらしい。そして、その予想と結果がどうだったのかを把握して、ズレがあった場合には、そのズレになった「原因」、その「原因」を解消するために、次からどうするか、ということを書き入れていかなければならない。これを毎日繰り返しているそうだだ。
明日何を何時間やるか、とプランを立てるのは、段取りの基本だろう。これを毎日やり続けていれば、おそらくその会社のスタッフは相当な「段取り力」を持っているのだろうと思う。
この会社のやり方を知ってからずーっと気にはなっていたのだけれど、まずは個人レベルでやってみて、それが有意義だということがわかれば会社への導入を提案してみようかと考えている。
段取り力をよくするためにも、動機付けの目標はある程度厳しさがあったほうがいいだろう。納期もなく、コストパフォーマンスもない設定では、段取りがよくなるはずもない。
とうように、多少厳しい目標をたてて、それをどうやって達成するかを考えるということも「段取り力」の強化につながるだろう。
本書でも例にあげられていたが、10%のコスト削減方法で悩んでいた技術者に対して、松下幸之助は、「いっそのこと50%の削減方法を考えてみろ」というようなことを言ったそうだ。つまり、5%、10%をどうするかと考えているときには、「現状」をベースとして、そこからの発想で物事を組み立ててしまう。しかし、50%削減ともなれば、たとえばそのものの素材や、組み立て工程といった根本的なところから見直さざるをえない。そういった視点の導入が、逆にブレイクスルー的なアイディアの発見に役立つのだ、ということらしい。
自分で立てる予定や目標というのは、ついつい余裕をとってしまいがちだが、いっそのこと到底無理だろうと思われるような設定をしてみて、そこから考えることを始めても良いのかもしれない。会社に予実管理を導入するなら、このへんの意識の問題もきちんと説明する必要はあるだろう。てきとうに「予」と「実」が合うように、大雑把にやってもあまり意味はない。
予定より早く業務が終わりすぎることだって、決して良いことではないのだろう。
「裏段取り」を考えてみるというところは面白いなと思った。
「段取り力」をつくるには、すでにある優れたヒット商品やアイディアを元にして、それがどのような「段取り」でつくられたのか、生み出されたのかを考えてみるということをする。
どの領域にも言えることだが、総じて完成形がシンプルに見えているほうが、裏の仕込みは複雑であることが多い。
WEBサイトの構築にせよ、プロモーションプランにせよ、同じことは言えるのではないか。そのシンプルさに落ち着くまでにどのような工程があったのか、どのような段取りがあったのかということを追想することは、単なる想像の世界でしかないとはゆえ、非常に良い訓練になるような気がする。
2003年12月13日
ゲーム理論で勝つ経営 競争と協調のコーペティション戦略
ゲーム理論で勝つ経営 競争と協調のコーペティション戦略 日経ビジネス人文庫
ゲーム理論の応用ってのも一種の流行みたいなものか。
「コーペティション(co-opetition)」とは、「競争(competition)」と「協調(cooperation)」を同時に扱うコンセプトのこと。
たいていのマーケティング理論や、経営戦略論は、この二つをトレードオフ関係にあるという前提のもとに論じられる。勝つものがいれば負けるものがいる、という単純な構図だ。
しかし、本書では、「両者も勝つ」ということだって十分にありえるのだ、ということを実際の事例から示す。
コーペティションコンセプトで最も重要なのは、「補完的生産者」の存在だ。現在のビジネスは「補完的存在者」なしに存在できない。補完的生産者とは、たとえば、ゲームのハード機器メーカーにおける、ソフトウェアメーカーだ。魅力的なソフトがなければゲーム機は売れない。しかし、ゲーム機が売れてなければ、ソフトウェアメーカーはソフトを開発する気にはならない。この両者には相互補完的な関係がある。
補完的生産者の定義は、「自分以外のプレイヤーの製品を顧客が所有したときに、それを所有していないときよりも自分の製品の顧客にとっての価値が増加する場合、そのプレイヤーを補完的生産者と呼ぶ」としている。
逆に、「自分以外のプレイヤーの製品を顧客が所有したときに、それを所有していないときよりも自分の製品の顧客にとっての価値が下落する場合、その自分以外のプレイヤーを競争相手と呼ぶ」
補完的生産者と、競合相手は、対極に位置しているわけだ。
この定義はよくよく考えると当たり前なのだけれど新鮮ではないだろうか。
今までの認識は、「競合相手」を同じ業界に属する自分以外のプレイヤーと見なしていたわけだけれども、ゲームの場がかわれば、実は今まで競合相手だったところも補完的生産者になることもある。また、補完的生産者が競合相手になる場合もある。つまり、プレイヤーの役割というのは、固定的なものではなく、ゲームを見る位置や場面によって変わるということだ。
本書では簡単に、MoMAとグッゲンハイム美術館は、会員や見学に来る人をめぐっては、競争相手になっているけれども、いくつかの美術館を訪ね歩くことができれば、週末にニューヨークに行く人も増えるだろうという例から、MoMAとグッゲンハイムは、競争相手でありながら、補完的生産者でもあると説明してる。
ほとんどの場合、競争相手だと思っているところは補完的生産者でもある。そして、競合を打ち負かすことばかり考えるのではなく、補完的生産者として捉えることで、その市場自体を広げる、開発して、お互いが利益を得るシステムをつくりあげられるかどうかを考えることも重要なのだ。(秋葉原に電気屋が集まっているのは、それぞれは競合関係でありながら、補完的生産者としての関係をつくることで得られるメリットを考えているということですな)
個人的には面白くなくはない本だけれども、
「競争」の場のモデルが、ほとんどの場合、価格競争面から語られるのが気になった。
特に、「ルール」とうい章で、最優遇条項やテイク・オア・ペイ契約によって各プレイヤーにはどのような強制力が働くのか、誰がどんなところで有利になるのかといったことを説明しているのだけれど、そのほとんどが、「顧客は価格を気にする」という前提にたって書かれているような気がした。もちろん「価格」は気にするだろうが、価格を軸として競争が行われるモデルが多くとりあげられているのが違和感がある。それはあまりにも単純すぎるだろう。モデルを単純化するために、ある側面だけをとりあげたのだろうけれど、読み流してしまうと、価格のことばかり気になるんではないかと、ちょっと心配になった。
2003年12月07日
首塚の上のアドバルーン
まとめて。ちなみにAmazonのアフィリエイトやってるけど、金儲けのためではありません。単純に、本紹介するのに楽だというだけです。
いやぁ、面白い。
この人はこういうのは天才的だなぁと思う。筒井の場合なら、ひたすらドタバタに傾倒していって抱腹絶倒、これでもかってところまで行くんだろうし、小島信夫なら作者自身もわけがわからなくなってストーリーにもならないのだろうけど、後藤明生の場合には、馬鹿馬鹿しい言葉の連想や、イメージの連なりを維持しつつ、リアリズムと虚構の境をうろうろし続ける。適当に思いついたままに書いていったらこうなった、というように装いつつも、おそろしく緻密に計算してこんな小説をつくってしまえるところがこの人の凄いところか。
しかし、このパターンって、
と同じなんだよな。まったくといっていいほど。後藤明生のような小説が書ける人って、今だと奥泉ぐらいだろうか。