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2004年02月12日

なぜ高くても買ってしまうのか 売れる贅沢品は「4つの感情スペース」を満たす

なぜ高くても買ってしまうのか 売れる贅沢品は「4つの感情スペース」を満たす

なぜ高くても買ってしまうのか 売れる贅沢品は「4つの感情スペース」を満たす

決して富裕層ではない普通の人達が「ワンランク上」の商品を買い求める。
これまでの常識では、「価格が高いほど販売量は少なくなる」であったが、従来の商品より高価なものを、一般消費者が買い求め、結果的に従来型のラグジュアリー商品より大量に売れるという現象があらわれている。
そんなちょっと不思議な現象を捉えた消費社会論でもあり、新しいマーケティング、商品開発の考え方を提唱したのが本書。

本書でとりあげらえる例は、アメリカの消費者像や「ニューラグジュアリー」商品(同じカテゴリー内のほかの商品より高品質で、センスもよく、魅力的であるにもかかわらず、手が届かないほど高額ではない商品・サービス)についての分析ではあるが、訳者が最後に述べてるように、日本でも同じような消費傾向がうかがえる。
2003年7月のスーパー食品売上上位では、食用油は花王の健康エコナ・クッキングオイルが金額シェアで14%を占めている。健康エコナは1キログラム換算っでは、二位の日清キャノラー油(9%)の3.8倍もの値段だ。
(P.306)もちろん、ベンツやBMWの普通車市場に占める売上台数シェアが年々増加していることもそうだし、50万円以上の高級機械式時計は販売量で二割を超え、売上規模では五割に達している(P.307)

デフレだ不況だといわれつつも売れている高価なものはある。しかもそれは超富裕層だけが買うのではなく、普通のどこにでもいる人達が買っていたりするのだ。

ニューラグジュアリー商品・サービスには3つのタイプがある。


  1. 手の届く超高級品
    カテゴリー内では最高価格帯にあるが、カテゴリー自体が比較的低価格。
  2. 従来型ラグジュアリー・ブランドの拡張
    富裕層にしか買うことができなかったブランドの廉価版の商品・サービス・
  3. マスステージ商品
    「マス(大衆)」と「プレステージ」を組み合わせた造語。「マス」と「プレステージの中間」の市場でうまみの位置をしめる商品。通常の商品より高価だが、超高級品や従来型のラグジュアリーに比べるとかなり低価。

ニューラグジュアリー商品は幅広いカテゴリーで見られるが、共通する特徴は、「心理面に軸足を置き、消費者もほかのものよりその商品にはるかに強い思い入れを抱いている点」(P.18)だという。

本書でとりあげられた商品には、それまで消費者が思いいれなど抱くとは到底考えられなかったようなものも多くある。たとえば「洗濯機」や「冷蔵庫」。
ボク自身は「白物家電」に愛着や敬愛の念を抱き、心理的な絆や連帯を感じる人なんて想像つかないのだけれど、本書で紹介された「サブゼロの冷蔵庫」や「ワールプールの洗濯機デュエット」などでは、その購入者はまるでそれらの商品を家族の一員のように考えていたり、商品に深い愛情を抱いていたりする。

なぜ、商品にたいしてこのような心理的紐帯を抱くようになったのか。その原因については本書でもさまざまな調査結果に基づき分析されている。

年収5万ドル以上のアメリカ消費者2300人(あらゆる人口属性の人々を含む)を対象とした調査では、次のような結果がでており、非常に興味深い。
「今の生活に満足している」という質問に対して、「そう思う」「非常にそう思う」とと答えた人が62%いたのにも関わらず、「いつも時間が足りない」には55%、「睡眠不足だ」には54%。「働きすぎだ」という人も40%近く、「生活のなかで大きなストレスを感じる」人も37%いる。
さらに、「友達との十分な時間を過ごしていない」(51%)「家族と十分な時間を過ごしていない」(35%)「健康に不安がある」(40%)「将来に不安を感じる」(40%)など。この結果から著者らは、現代アメリカの消費者の姿を、

自分はおおむね幸せだと主張しているが、それはおそらくそう信じたいからであり、その実、時間に追われ、仕事にストレスを感じ、自分にとって大切な人々とのつながりを失っていると感じている姿(P.66)

だと結論づけている。
この調査で導き出される現代の消費者像というのは、日本の消費者の姿にも重なる部分が多いのではないかと思う。もちろんこういった「平均的な」消費者というのは存在しないということは十分理解したうえで、それでもやはりこの調査に回答した人達が、「そのように回答した」「せざるをえなかった」心境はすごくわかる気がした。

このような心理的ストレスを感じている消費者たちにとって、「消費」とは一種のストレス発散の行為でもあり、また自己規定、自己実現、理想的生活への憧れなのだろう。

そして、著者らは実際の消費者らへの調査を通じて、ワンランク上の消費をする時の感情を最終的に四つの「感情スペース」にまとめている。
それは、


  1. 自分を大切にする
  2. 人とのつながり
  3. 探求
  4. 独特のスタイル

だ。
(この「感情スペース」を見出す調査方法は、回答者に44個の言葉を提示し、ワンランク上の消費をする時の気分を表す言葉を選んでもらう。それをグルーピングしていって、最終的に上記4つのグループに集約させるという方法をとった(P.69))

ニューラグジュアリー商品はこれら四つの感情スペースを有している。これら感情スペースを満たすことができる商品に、消費者は深い思い入れや親愛の念を抱くし、そこに心理的な絆を見出すのだ。

とはいっても、当然、こういった感情側面を満たすだけで、その商品がニューラグジュアリー商品になるわけではない。

3段階のベネフィットを満たすこと
ニューラグジュアリー商品として、圧倒的な支持を得、他より高価ながら大量に売れるという商品になるためには、商品としてのベネフィットも他を圧倒しなければならない。著者らはそのベネフィットを「3段階のベネフィット」と定義している。


  1. デザイン面かテクノロジー面、またその両面での技術的な差異。
  2. このような技術的な差異が実際の性能の向上に役立っていること
  3. 技術面と性能面でのベネフィット(およびブランド価値や企業理念などの諸要因)が合わさって、消費者に思い入れをいだかせること。

このような三段階のベネフィットを満たし、且つ消費者の四つの感情スペースを満たすことができた商品は、ニューラグジュアリー商品として成功をおさめられる。本書ではニューラグジュアリー商品として大成功した商品やサービスの魅力的な事例がいくつも取り上げられている。

ニューラグジュアリー商品が出現したカテゴリーでは、市場は完全な二極化をおこし、特徴のない凡庸な中間層の商品、サービスは駆逐されていく。これによって、すべての層の消費者たちが恩恵を蒙ることができる。低価格商品は低価格商品としての確固たる存在感、存在意義を見出すことができるようになり、また最富裕層が購入するようなハイエンドな製品もニューラグジュアリー商品の台頭によって、刺激を受けイノベーションを加速させるからだ。

本書では最後にこのような「ワンランク上の消費」をチャンスに変えていくために企業はどのような商品をどのように開発していけばいいのかというヒントが与えられている。チャンスは「ワンランク上の消費対象となるような商品・サービスがほとんど存在しないカテゴリー」にあるとし、例として、「玩具」「ヘルスクラブ」「浴用およびボディケア製品」「グルメ食品」などがあげられている。(P.267)
また、耐久消費財以外にも、金融・法律、教育・医療、高齢者ケアや保育、ペット・ケア、旅行および不動産、自動車メンテナンス、住宅管理といったサービス業にも、「ワンランク上の消費」機会はひそんでいるという。

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2004/02/12 09:33

2004年02月03日

成功者の告白 5年間の起業ノウハウを3時間で学べる物語

今日は東京日帰り。いつもよりちょい遅め。7時30分の新幹線。行きは神田さんの新書「成功者の告白 5年間の起業ノウハウを3時間で学べる物語」を読んだ。

成功者の告白 5年間の起業ノウハウを3時間で学べる物語

帰りは綿谷りさの芥川受賞作「蹴りたい背中」を読む。
蹴りたい背中

1時間で読める芥川賞作。綿谷りさの方は、別途機会があったらもうちょいじっくり考えてみたい。読後感としては前作「インストール」のほうが不器用さがあった分、良かったというようなもの。「周り」とうまくコミュニケーションがとれない、距離がとれない主人公の「ハツ」は、いかにも類型的なんだけども、
多分、文学少年、文学少女のほとんどが、思春期には同じような感覚を抱くのだろう。ある意味「私」を特別視してるんだけど、特別視していることには嫌悪感を持っている。メタレベルの「私」への遡行。「私」と「周囲」の距離に侵入してくるオタク少年「にな川」。私と「向こう側」と「にな側」。基本的にはこの三点の「距離」に対しての私の視点が描かる。「私」が「にな川」に寄せる視線が、実は「向こう側」に行けない「私」自身への眼差しだったりして。この構図もまた典型的かな。


さて、神田さんの新作
タイトルまんま。神田昌典という人は、ほんと自分の身の周りに起きたことや、課題をビジネスにするのがうまい。その課題の解決手法として持ってくるのは、たいていどこかに「元ネタ」があるのだけれど、一つのストーリーとしてまとめあげてしまう手腕は天才的だ。(「パクり」とかそういうことを批判しているわけではないです)

さて、本書の主要テーマは、「第二創業期」に起きる問題をいかに解決するか、ということ。多くの神田さんフォロワー達が、「一番難しい新規顧客獲得さえうまくいけば、ビジネスは成功する」という段階で留まり続け、「顧客獲得の仕組みづくり」によってビジネスを自動化して、「サルでも出来るビジネス」にしていこう、楽して儲けようと唱え続けるのに対して、神田さんはその段階を超えて、本当に企業が企業になる段階に訪れる組織上の問題に視点を向けている。

「第二創業期」とは、本書の言葉を借りれば、創業時の家族的なフラットな組織でビジネスを行っている段階から、経営システムを整え、経営がチームで運営されるようになるその端境期のこと。
「日本の会社の90%以上が、年商10億円以下の零細・小企業」なのは、この「第二創業期の壁が非常に高い」からだと言う。「年商八億円ぐらいの会社が、来年は10億目指すぞと頑張ったとたんさまざまな問題が起こって、年商六億に後戻りする。」(P.199)

そこで必用なのは「経営のシステム化」だという。
これは「仕事のシステム化」とは違う。今までの神田さんが「仕事のシステム化」の部分にフォーカスしていたのに対して、今回は「経営」だ。


■マネイジメント上の問題にどう対処するか?

チームで機能する会社をつくっていくステップを神田さんは次の3ステップでまとめる。


  1. ステップ1 土台づくり1:母親の出番
  2. ステップ2 土台づくり2:父親の出番
  3. ステップ3 チーム体制の組み立て

子供を教育していくステップをチームの教育ステップに置き換えて考えるわけだ。「子供は母親からのたくさんの愛を感じて、自分は安全である、信頼されているという環境をつくらないと、しつけをどんなに厳しくしてもダメ」「第一に母親的な愛情。その次に父親的なしつけを行うことが大事」。
この順番を間違えることが多い。たいていステップ2が先行する。チームをつくろうとすると、まずルールや決まりごとで社員を統制しようとするようなことだ。
(ネタバレになるが、実はこのステップにはまだ足りない段階がある。それは本書を最後まで読めばわかる)

グッド&ニュー
じゃあ具体的にステップ1ではどんなことをするのか?
ここで神田さんは米国の教育学者が開発した「グッド&ニュー」という手法を提案する。


  1. ゴムでできたカラフルなボールを用意する。
  2. 六人程度でチームをつくる
  3. ボールを持った人は二十四時間以内に起こったいいこと、もしくは新しいことを簡単に話す
  4. 話が終わったら、まわりの人は拍手する
  5. 次の人にボールをまわす。
  6. これを繰り返す。毎日やる。

カラフルなボールを持つのは、ボールを持つと「リラックスして身体が開いてくる」からだそうだ。
この遊びは心理学でいうリフレーミングを習慣化するためのゲーム。要は物事のプラス面を見る訓練。
この手のものは使い方を間違えるといかがわしい自己啓発セミナーになる(いかがわしくな自己啓発セミナーもある)

承認の輪
「グッド&ニュー」以外にも「承認の輪(ヴァリデーション・サークル)」というゲームも紹介されている。
それは、「社員同士で定期的に、社員の会社における存在を承認する」(P.221)を目的として、「お互いの存在を認める言葉を掛け合う」というもの。
『○○さんと一緒に働くことができて、本当によかった。なぜなら…』
と「なぜならの後の文章を完成させる」。
正直、これもかなり気持ち悪い(笑 
「誕生日」なんかにやると効果的なんで「誕生日の輪(バースデー・サークル)とも呼ばれてるらしい。
しかし、みんなでこんなことやってる姿を想像すると、う~んとなってしまう。どうなんでしょうか。やったほうがいいのでしょうか?

クレド
これらが「ステップ1」。「母親の愛情」の次は「父親的な意思の力」の出番だ。ここでは「クレドの導入」が提案されている。
これも単純。会社での憲法をつくる。「会社を運営していく上で、絶対に守ってほしいという項目をいくつか文章化する」(P.224)
クレドとは、リッツ・カールトン・ホテルが会社の価値観・哲学をまとめたものを言う。よくあるような会社理念とは違い、細かな行動上のルールがまとめられている。
(メモ:P.226~227に、実際の「クレド」の一部が掲載されている)

「クレド」の作り方の解説はいかにも神田さん的だ。
「クレド」をつくるときは、まず「部下の行為に対して怒りたくなったこと」を箇条書きにしていくことから始める。
たとえば、「月曜日に休まれること」「入社して間もないのに長期休暇をとったりすること」などのように。まず『○○○してはならない』という文章をいくつもつくる。怒ったことというのは、こちら側の「期待、すなわち価値観に対してズレている行動を示すもの」(P.232)だから、二度と怒らなくていいよう、それを箇条書きにしていく。

で、こうやってできた文章を肯定文に直してみる。「『○○○するな』という表現は非常に厳しく聞こえるので、社員にとってはストレスになる。同じ意味でも『△△する』という形に言い直したほうが、より潜在意識に刻み込まれやすい」(P.232)

『月曜日休んではならない』→『休暇をとる場合には、チームメンバーに迷惑をかけない日にしよう』という具合。

さて、この「クレド」。リッツ・カールトンでは、「ラインナップという朝礼のような短い会議を毎日開く」そうだ。

クレドカードに書かれたベーシックと呼ばれる二十項目について毎日ひとつづつ話し合うんだ。この二十項目に沿って組織全体が無意識に行動できるようになるまで、徹底して教育していくんだ(P.225)

ラインアップの具体的に進め方。
ラインナップリーダーと呼ばれるリーダーがその日の項目を読み上げる。そして、その項目に関連した自分の感想や最近の体験について話し、他のメンバーと共有する。他のメンバーも全員、同じように自分の意見を話しみんなと共有する。すると、たんなる唱和とはまったく異なるメソッドになる。
唱和の目的は、社員を会社の型にはめて、考えない人間をつくることだ。それに対してクレドの目的は、その価値観や行動様式を実際に応用するために、考える人間をつくる

「クレド」に近いことはやってたけど、「ラインナップ」ってのはやってなかったな。これは面白いかもしれない。


企業ドラマを演じる四人の役者

企業ドラマを演じるには四人の役者がいる。
起業家、実務家、管理者、まとめ役の四人。
この四人の誰が活躍するかは会社のライフサイクルごとに異なる。

創業時は、起業家のエネルギーやアイディアを実務家が支援していく。
起業家が長期的な視野にたった壮大な夢を追いかけるのに対して、実務家は日々の業務の細かな部分での体制づくりなどを担う(導入期~成長期前半)。

起業家と実務家によって企業が成長を歩みはじめると、ここに管理者が必要になる。営業面だけじゃなく日常業務をシステム化したり、ルールを決めていったりする人間だ。今度は実務家と管理者が協力して会社の仕組みづくりをしていくことになる。(成長期後半)
最後に「まとめ役」が登場する。社内でお母さんと呼ばれるような存在。スタッフの心を繋ぎとめる存在。

図式はこんな感じ。

実務家──管理者
 │    │
 │    │
起業家──まとめ役

対角線上に位置する役割を担うものは反発しあう。「管理者」と「起業家」。「実務家」と「まとめ役」だ。隣同士になっているものは協力しあう。

これをちと自社の例にあてはめて考えてみる。むむむ。どないでしょう?
ボクには判断しかねます。一人がどれかの役割を全面的に担うというよりは、うちの場合は、いろんな人がいろんな部分をちょっとずつ担っているという感じだろうか。ここで描かれている起業家のイメージに被るキャラクターはうちにはいないしなぁ。

神田さんは、これを桃太郎の物語と登場キャラクター、その順番に沿って説明するのだけど、これまたいかにも神田さんらしい。話を単純化する天才だ。


第二創業期を乗り越えること、会社の倫理観

確かに「第二創業」と呼ばれる時期にはいろいろ問題は出てくるし、多分今、自分が体験していることも似たようなことなので、よくわかるのだけど、そういう悩みを抱える経営者が多いからこそ、この手のビジネスが儲かるというのも事実だ。ボクはどうもこの手の手法には性格的に嫌悪感を持っているところがある。臨床心理学も嫌いなのだ。なので、どうしてもまるごと全部鵜呑みにしてしまうことができない(そういうところがダメなんだろうけど)

でも、本書内に出てきた神田さんの組織に対する考え方にはいくつかものすごく共感できるところがあった。自分が会社や組織の価値観に対して抱いている感情と、その理由を見事に説明してもらえた気がした。

会社には、社長の足りないところを顕在化させるために、問題を起こすのに最適なメンバーが集まっている。だから、その働く場自体を向上させていかなければ、いつになっても同じ問題の繰り返しになる。
また、能力がないからさっさとクビを切るという文化を会社がもってしまえば、こんどは、会社が十分なボーナスをくれなければさっさと辞めるという、相手から奪うという文化を会社のなかに構築することにもなる。もちろんスタイルの違いだからと反論はあるだろうが、私は他人から奪うことを文化として持っている会社が、発展するとは思えないな(P.209)

このあたりの信条は、そのまま自分の信条にもしたい。

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2004/02/03 01:23

2004年02月01日

広告都市・東京―その誕生と死

広告都市・東京―その誕生と死

広告都市・東京―その誕生と死

「社会」みたいに抽象的な概念。共同主観的概念として共有されている「気分」みたいなものの「リアリティ」。これらをどう言葉で捉えることができるのか?
椹木野衣は「ハウスミュージック」に、宮台真司は「コギャル」、そして東浩紀は「オタク」に。「現代社会」の典型的な、あるいは象徴的な構造やシステムを見出し、そして「この社会」における生き方の術を問う。
そして、北田氏は「広告」「メディア」「都市」といった極めて日常的空間にあるものから、それらの変容・変遷を追い、その下部システムを取り出し、今の「社会」の様相を語る。
ここには確かなリアリティがある。これほどまでに自分にとって"ぴったりとくる"社会システム論は読んだことがなくて、正直かなり驚いた。宮台真司や東浩紀といった先人のテクストを下敷きにしつつも、それを乗り越え、「90年代以降」の極めて現代的な「現代」を見事に描き出している。現代消費社会論、メディア論の傑作。


<80年代>の社会システムとリアリティ、不安
<80年代>的な広告=都市の論理とは、「秩序/無秩序」という二項的な解釈図式に「文化」という第三項を導入することであった(P.60)。<80年代>の広告=都市の論理的実践の顕著な例として、セゾン・グループが渋谷をパルコ自体の広告としてラッピングしてしまう戦略や、外部を一切隠蔽し、充足した内部世界を構築するディズニーランドなどが採りあげられる。すべてが「記号」によって覆われた街は、演劇舞台的な装置として機能する。「記号」には「外部」はなく、特権的な視点もなく、ただ表層を漂う「記号」だけが全てという論理が支配する。これらの実践は、ボードリヤールの「消費社会論」や、「記号論」などによっても強化され、<80年代>の社会規範・論理空間を形成していく。

<80年代>的論理空間においては、「記号化された商品を消費することによって自らのアイデンティティを模索していく」(P.83)という「私」を生み出し、それが<80年代>に生きる人々の「リアリティ」を形成していた。

<80年代>の都市遊歩者たちは脅迫的に都市を散策し、<自分らしさ>への息苦しい確信を築きあげていったのである。(P.102)

こういった「広告=都市」は、ミシェル・フーコーの「近代」の分析に倣って「パノプティコン的」と表現できる。それは「見られているかもしれない不安」だ。
空間を支配する者の姿が見えないにもかかわらず、いや見えないからこそ、人びとが「見られているかもしれない」という不安に捕らわれ、支配者の用意する<台本>を進んで受け入れていく

<ポスト80年代>とは
ところが、90年代以降、「「広告=都市」を支える<80年代>的な言説─実践システムが、ある種の臨界点を踏み越えて」しまった。(P.115)
それはセゾン・グループの失調や、ディズニーランドでは頑なに守られていた「外部世界を見せない」という論理が崩壊した「ディズニーシー」の登場、あるいは「渋谷」という町に対する人々のイメージの変遷(「文化」的イコンとしての「渋谷」から、単なるデータベース的情報の集積場としての「渋谷」へ)などから照らし出される。
<ポスト80年代>的な都市遊歩者を特徴づけるのは、「都市を文学作品やテレビドラマ(テクスト)のように「読む」のではなく、むしろCF(もっとも広告らしい広告)のように「見流す」という態度である。」(P.128)

では、<80年代>を支えていた「舞台性」──舞台において、役割を演じることによって保っていた「リアリティ」や「アイデンティティ」は、<ポスト80年代>において、どのように形成されるのであろうか?

<ポスト80年代>において、人々には「見られていないかもしれない不安」が生じているのではないかと、著者は問う。
「見られているかもしれない不安」から「見られていないかもしれない不安」への変遷を、著者は90年代半ば以降のメディア・コミュニケーションの環境の変化に見出す。
<80年代>までの世界を規定したマスメディア的論理空間では「送り手=公的な責任を持つ存在/受け手=指摘に解釈する存在」という役割区分が前提とされていた。
ところが、「見られていないかもしれない不安」を率直に表明するメディアであるウェブサイトにおいては、「送り手/受け手」という役割分担も、「公的/私的」という領域区分も完全に失効してしまっている」(P.142)

伝達される情報の意味やメッセージをフィルタリングしつつ公共空間を構築するというのが、マスメディア的な意味における「社会」の原理であるとするならば、接続指向のコミュニケーション空間における「社会」の原理は、首尾よくつながること、他者にちゃんと覗かれることである。(P.144)

コミュニケーションは、「情報内容の伝達」という側面から「コミュニケーション」自体を目的とする「接続指向のコミュニケーション」の側面が強化されていく。このような「社会」においては、人びとは「覗かれる」ことによって「リアリティ」や「アイデンティティ」を確認する。それは近代的メディアが支配していた価値規範の崩壊に対しする対抗策みたいなものなのだろうか?


自分がBLOGを続けている意味?

自分がBLOGを続けているのは何か?ということを考えるにあたり、「見られていないかもしれない不安」というのは一つのキーワードになりえるのではないかと思う。「手軽である」「ブロードバンド環境の充実」といった背景はもちろんあるのだろうが、しかし、自分がBLOGを続けている意味は多分そこではないような気がする。それは「とりあえずの理由」であり、根本的な理由はやはり「見られていないかもしれない不安」に突き動かされた自己確認行為なのではないかという気がする。(その意味では「ケータイ」のコンサマトリーな利用に飛びつけなかった人間が、BLOGというコミュニケーション・メディアに飛びついた、ということか?)
「気がする」というのもえらく他人事だが、自分自身の行為の意味を完全に理解している人などいない。「誰にかわからないけど、誰かに」「見られている」「覗かれている」ということが、自身のアイデンティティを確認する行為であり、現代における「リアリティ」獲得のための手段なのかもしれない。


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2004/02/01 18:16

2004年01月26日

勝つブランド負けるブランド

勝つブランド負けるブランド―How to build a strong brand

勝つブランド負けるブランド―How to build a strong brand

京都へ戻る新幹線に乗る前に、本屋に寄って購入した。
表紙からは「フォレスト出版/神田さん系」の本を想像していたのだけれど、内容は良くも悪くもまったく違うものだった。

ヴィトンが売れる理由を、ヴィトンに飛びつく人達の育った社会環境、背景から「松任谷由美」ファンの多くがヴィトンに寝返ったというような考え方を披露したり(結論としてはヴィトンは女性にとって「お守り」として機能しているというようなことを言ってるのだけれど)、雪印事件の問題を、インパール作戦の失敗を下敷きに日本文化に特有の「空気」(「失敗の本質―日本軍の組織論的研究」参考)から論じられたりと、ブランド論というよりは「ブランド」というテーマからの社会分析アプローチと考えたほうが良いのかもしれない。

個人的には、全体のロジックよりも、そのロジックを導き出されるために使われる「おかず」の方が面白かった。
ということで、そういった瑣末な「部分」をメモがてら採りあげることにする。

製品ライフサイクル論が通用しない!?

デジタル分野では成熟期には次世代の規格が登場し利益が回収できなくなる(P.25)

つまり、製品ライフサイクル論が通用しないということ。
製品ライフサイクル論では、導入期、成長期への投資を成長後期から成熟期に回収するというマーケティングプランが組み立てられるのだろうが、それが効かなくなってきているわけだ。
これはたとえばADSL分野ではどうだろうか? 
Yahoo!BBが圧倒的なシェアを獲得してはいるけれども、ここには莫大な初期投資が成熟期において回収できるという算段があるからだ。しかし、ADSLのシェアは光ファイバーにとって代わられる可能性が高い。さて、Yahoo!BBは莫大な投資を回収できるだろうか。もちろんYahoo!BBも簡単には乗り換えられないようなシンジケーションをつくろうとしている。ADSLでも光ファイバーと変わらない速さを実現させようとしている。さて、この結末はどうなるのだろうか?

日本語とマンガ脳

漢字は絵に相当し、ルビは吹き出しのセリフに当たる。日本語はマンガだったわけである(P.31)

これは養老孟司さんの考え方を下敷きにしている。
漢字仮名交じり文を読むには、日本語以外のほとんどの言語より2倍の脳を使うらしい。

この話は昔どこかで「ラジオ型言語」と「テレビ型言語」というような分け方で読んだものと同じことかもしれない。英語は「ラジオ型言語」だ。つまり音と言葉が1:1の関係であり、基本的には同音同義語は存在しない。そのため「聞く」だけで意味をつかむことができる。一方、日本語は「テレビ型言語」の典型だと。日本語には同音異義語が多く、1つ1つの言葉の意味はコンテクストによって決定づけられるし、また表記を伴って区別化される。(「橋」「端」「箸」など) つまり、意味は「音声」と「映像」(象形)を伴い理解される。

こういった言語的特長から日本人は「マンガ脳」──すなわち、「ビジュアルに鋭く反応する能力」──を鍛えている。そして商品におけるビジュアルとはデザインのことであり、デザインのキーとなる記号がロゴ・マークやアイコンであることから、企業コンセプトや商品コンセプトをロゴマークやアイコンに語らせるべき、という結論を持ってくる。これも飛躍しすぎの感もある。

ブランド・エクイティ
『ブランド・エクイティ戦略』などの著者D・A・アーカー氏によるブランド資産の構成要素は、以下となる。


  1. ブランドロイヤルティ(あれがどうしても欲しいと消費者が企業・商品・サービスに対して感じる執着度)
  2. ブランド認知(ウイスキーと言えばサントリーのごとく、その企業・商品・サービスが当該市場カテゴリーに属している消費者が感じる認識度)
  3. 知覚品質(セーラーよりもモンブランのほうが書きやすいのごとく、その企業・商品・サービスの利便性が代替対象と品質比較して消費者が感じる認識度)
  4. ブランド連想
  5. その他の資産(特許や商標権、意匠権など)。
    (P.40)

そして、著者はこの5つのうち5を除くとすべてが「知覚の問題」(視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚、温度覚、圧覚)に行き着くとし、特に知覚のなかでも「視覚」が最優先されると言う。
ブランドは知覚の問題である。人々がブランドを使用してその経験を積み重ねる中で、どのように知覚してより良いイメージの総体としての記憶を結んでいくか、これによってブランドの強弱が決まってくる。よって、人々がどのような生活環境で生活しているかが重要であり、その社会、時代とコミュニケートしていかない限り強いブランドに育てていくことはできない。(P.233)

対人恐怖症
ここ近年、女性の対人恐怖症が増えているという。対人恐怖症という神経症は日本独特のものだ。「対人恐怖症の中でも視線恐怖症が、特に日本に特徴的だとする病理学者もいる」(P.67)

岸田秀だったか誰かが日本人の視線恐怖症を分析していた。
手元にないので、これまたうろ覚えだけれども、アメリカ人は「対神恐怖症」であり、日本人は「対人恐怖症」だ、というような対比で精神心理学的なアプローチから民族性を捉えるというようなものだったと思う。
日本には唯一絶対の「神」が存在せず、日本人が忌避するのは周りの人の視線だと。そこから視線恐怖症が生まれる。「出る杭は打たれる」みたいな文化が根付くのもそのせい、みたいなことが書かれていた。

女性の対人恐怖症が増えたというのは、女性の社会進出と関係している。それまでの「女性観」は「控え目でおとなしいことが美徳」(P.70)だった。ところが、現代の女性は「自己主張」が重要なものとなっている。

女性特有の相手への迎合性や従順さや優しさが一方にありながら、一方で自己主張の気持ちが培われてきたという社会的な環境のために、その両方のはざまに立って身動きのとれない状態になっているようである(P.70)

ヴィトンは、こういった女性の自己主張を体現するものであり、一種の強迫観念として存在していると著者は考える。
ナイキとスターバックスのブランディングを担当したスコット・ベドリは、人間の最も上位にある情緒的ニーズの中で重要なのは帰属のニーズだと指摘し、「あるモノを所有することによって、同じようにそのモノを所有するほかの人々と家族のような深いつながりを感じることができる」ようなブランドこそ大成功をおさめることができる、と述べている(P.73)

ヴィトンは女性たちの帰属ニーズを満たすブランドなのだ。

ヴィトンのモノグラム柄は?

慶応三年(1867)に第二回万国博覧会がパリで開催され、徳川幕府と薩摩藩、鍋島藩が参加している。ヴィトンの関係者がパリ博を見物に行き、日本の家紋を見たことからモノグラム柄がデザインされたと言われている。(P.71)

日本人のフェティシズム
山本七平の「空気の研究」から日本人とユダヤ人の人骨に対する接し方の例。

イスラエルで移籍の発掘をしていた際に、日本人とユダヤ人が共同で人骨を運ぶことになったと言う。
作業が一週間ほど続いた頃、ユダヤ人にはなんの変化も表れなかったが、日本人は病人同様になった。しかし、作業が終わると日本人は以前と変わらない元気さを取り戻した。ここから山本氏は、日本人は人骨によってなんらかの心理的影響を受けたとして、それは物質の背後になにかが臨在していると感じたからだとする。(P.83)

ここからに日本人が生命のない対象物に感情移入してしまう傾向が強く、そして、日本人の言論や行動を規定される第一歩がこの感情移入だとする。

Honda Brand Concept
ホンダが社員全員に配布している「Honda Brand Concept」なるパスポート大の冊子がP.160~164に紹介されている。これがうちの会社でつくってるものと凄く似ててびっくりした。この冊子を参考にしたわけではないけれども、うちの会社でもこれに近いものをカードとして社員全員に配布している。

コミュニケーションとは

コミュニケーションには二つの伝達機能がある。情報の伝達と情緒の伝達であり、伝達する相手によって二つの機能に濃淡差が生じる。親しい相手になるにつれ情緒の伝達が濃くなり、疎遠な第三者になるにつれ情報の伝達が濃くなる。(P.232)

果たしてそうだろうか? 相手との関係性がコミュニケーションのニ側面の比重に影響する? 親しかろうが「情報の伝達」が濃いコミュニケーションだって多々ある。しかし、最近のコミュニケーションツールの利用は情報の伝達よりも、情緒の伝達が重視されているだろう。
著者は携帯電話や携帯メールは情報の伝達ではなく、情緒の伝達だと言う。

そういえば、最近の中高生たちは、わざと「ワン切り」して、自分が今、電話に出られる状態であることを相手に伝える、とうようなことをどこかで読んだ。社会的に個人がどんどん孤立化していくなかで、何かに繋がっていたいという「帰属のニーズ」の発露みたいなものか。

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2004/01/26 00:24

2004年01月25日

クルーグマン教授の経済入門

クルーグマン教授の経済入門

クルーグマン教授の経済入門

アマゾンの書評を見ていると、評価が低い人のほとんどが「山形口語訳」に反応しているのが面白い。この手の本には、この手の本に共通の語り方ってものがあって、それら一般的な語り口に比べれば、山形さんの訳というのは、確かに特異なものだと思う。僕は原書にはあたってないので、クルーグマン自身の文章がどのようなものかわからないのだけれど、語り方や文章の構成を読んでいると、原書ではおそらくこう書かれていたんだろうなと想像できるところがあって、それは極めてロジカルで標準的な英語の特徴的な文章だ。実は、山形さんの訳というのは、ニュアンスも含め実は原書に忠実なのではないかなという気がした。

さて、この手のいわゆるマクロ経済学の本は、なかなか流通しにくい難解さを纏っていることが多いけれども、本書は実に分かりやすく、ロジックも明快だ。読むと、「アメリカ経済」の問題の大部分がわかったような気になってしまう。これだけ見通しの良いマクロ経済本は僕は読んだことがない。(といってもジャンルとしてはあまり読んじゃないジャンルだけれども)

読んだことをスグ忘れてしまうので、勉強のためにも内容についてまとめてみようと思う。

いきなり第1部で、著者は「経済のよしあし」は3つしかない、と断言する。それは、生産性、所得分配、失業だ。そして、この3つについて、今のアメリカが良い成績を上げられていないことを問題とし、それぞれについて実にわかりやすく問題の根拠と、それがもたらす害について語る。

生産性成長
「ある国が長期的に見て、生活水準をどれだけ上げられるかを決めるのは、ほどんどすべて、その国が労働者1人あたりの産出をどれだけ増やせるかなんだ」(P.29)

生産性を考えるうえで著者はまず、「アメリカがほかの国といっさい貿易しない」という極端な状況を設定して考える。
(他のところでもこういう方法は頻繁に出てくるが、著者は問題の核心、輪郭を浮かび上がさせるために、あえて極端な状況やモデルから考えてみる、とういことを行う。)

この状況では、「消費するものはすべて、アメリカ国内でつくんなきゃならない」そして、このような状況で、生活水準(人口1人あたりの消費額)を上げるにはどうしたら良いか? 


生産性を上げて、各労働者がもっと財やサービスを生産できるようにする。


総人口の中で、働く人の割合をもっともっと増やす


産出の中で、将来に向けての投資用にとっておく部分を減らして、今すぐ消費するための財やサービスをつくるほうに生産能力をふりむける。

ハは将来消費できる量を犠牲にするため長期的には生活水準を上げないし、ロはすでに総人口の中で職に就いている人の割合は増えているし、これは100%以上にはなりえない、ことから、結論として「イ」しかないと説明する。

じゃぁ、貿易が行われる世界。
産出の一部を輸出して、国民が消費するものの一部を輸入する。
「輸出を増やさないで輸入を増やせば、消費量も増やせるようになる。だったらつまり、1人あたり消費量を増やす方法が2つ増えたわけだ」(P.33)


外国に売る量を増やさずに、もっと輸入すればいい──ということはつまり、増えた輸入代金を支払うために借金をするか、あるいは手持ちの資産を売るしかないってことだ。


輸出品をもっと高く買ってもらえるようにして、借金しなくても輸入を増やして支払えるようにする。

ニはハと同じ。長期的には使えない。借金はいずれ返さなきゃならない。ホはじゃぁ、どうやって「高く買うよう説得するか」ということ。これは結局、生産性の向上ということ。

80年代以降、アメリカの生産性成長は著しく低下した。それは諸説あるけれど、実のところ「だれにもよくわかんないのだ。」

どうしたら生産性成長を加速させることができるのか? これも実はよくわからない。「たとえば教育水準の向上を奨励したり、産業研究コンソーシアムを支援したり。いくつかは試されるだろうし、なかにはちょっとうまくいくヤツだってあるだろう。でも基本的な政治上のコンセンサスでは、低い生産性成長はなんとか我慢できなくもないってことになってる。そのうち何かが起こって、生産性成長が勝手に加速してくれるのを祈りましょう、というわけ」なんて述べる。 

生産性と生活水準の関係を説明したもので、こんなにわかりやすい説明はないんじゃないだろうか。貿易赤字や国際競争力や、そういったものは瑣末な事項にすぎず、貿易が一切行われてない状況だろうが、貿易が行われている状況だろうが、結局は「生産性」を上げなきゃ、生活水準はあがらないわけだ。

所得分配の問題では「金持ちは、ずっと金持ちになった一方で、貧乏人はとてつもなく貧乏になっちゃった」(P.46)状況を統計データなどを紐解き説明するものの、ここでも「なんで不平等が拡大したのか、だれもちゃんとわかっていないこともあ」り、また「このトレンドをひっくり返す手段ってのが、どれも政治的に手の出ないものだ」ということを、こういう施策を講じたらどうなるか、という例をひとつひとつ潰し説明していく。

雇用と失業
失業率の問題は、失業率を下げてしまうとインフレになってしまうこと。「政府がインフレをおさえようとすれば、それは需要をおさえることになって、結局はその水準以上に失業率を上げるしかない。」(P.61)

アメリカの失業率は2000年に3.8%を記録して、その後上昇。2003年3月で5.8%(4月には6.0%)になっているけれど、インフレ率は1.9%におさまっている。本書ではアメリカのNAIRU(インフレをおさえられる最低の失業率)の推定値は5~6%だろうと考えられている。

つまり、「雇用と失業」という分野に関しては、アメリカはインフレを抑えつつ、失業率も6%に抑えているわけで、むちゃくちゃ悪い成績ではないということになる。

相も変わらぬ頭痛のタネ──貿易赤字とインフレ

第1部では経済のもっとも重要な問題を扱っていたけれど、実際はその3つに対して、政府が何かできるかというと、あまり出来ることがない。ということで、2部以降では今の政治上の関心時になる問題が採りあげられる。

アメリカの頭痛の種である「貿易赤字」。日本にとっても他人事ではない問題だ。

「貿易赤字」の何が悪いかと聞くと「アメリカの職が失われるから」と答える人が多い。しかし、実は「貿易赤字」と「職」は何の関係もないと著者は断言する。たとえば90年にアメリカは980億ドルの赤字を出していて、これはGNPの1.8%に相当する。「もしこれだけのドルを国内にとどめておけたら、追加の需要でたぶんあと労働者200万人ほど雇えたって計算になる」(P.73)
ここから、「貿易赤字」が「職を失わせる」と考えてしまうのは無理もない。しかし雇用の問題でいくと、アメリカはむしろ「仕事をつくりだすのを制限している」(P.75)と述べる。
なぜか? それは「インフレ」を招いてしまうからだ。
雇用を促進して、失業率を下げようとすると、物価が上昇しだす。物価が上昇しだすとインフレになる。インフレはさらなるインフレを生み、結果的に、それはアメリカの競争力を低下させる。

そもそも貿易赤字はなぜ起きるのか?

いい例が、アメリカの80年代前半の経験だ。国民貯蓄が低下──つまり国の総収入に占める商品の割合が増えた。でも、国内貯蓄が下がってお金のフローが減っても、それを外国からの資本が穴埋めしてくれたので、投資支出はぜんぜん下がんないで高い水準のままだった。だから、アメリカ経済の総支出は、総収入よりも急速にのびたわけ。でも、ある経済が稼ぐよりたくさん支出するには、輸出するよりたくさん輸入するしかない──つまり、貿易赤字になるということ。(P.87)
 
このへんの語り口は実に明快だ。極端な状況や例、過去の考え方を持ち出しつつそれらの一つ一つを検証し、それらは実は根本的な問題ではなく、結局「総支出が総収入よりも多かった」という当たり前のところに帰着する。

そして、貿易赤字は解消しようと思えば、どんな国でも解消できると、著者は語る。

貿易赤字削減の解決には、2段階必要になる。支出を切り替えて、同時に減らさなきゃダメ。切り替えるというのはつまり、なんとかしてみんなに、外国製品よりアメリカ製品を買ってもらうように説き伏せること─これはドルを切り下げるとか、関税の輸入枠の設定なんかで可能だ。でも、これだけじゃ足りない。こういう政策がたんにインフレを加速するだけになんないよう、国内需要を減らす手だてが必要になる。(P.89)

じゃぁ、国内需要をおさえるにはどうするか?
国の財政を収支トントンにするか、あるいは財政黒字に持っていくことだ(P.89)

「外国製品よりアメリカ製品を買ってもらう」のは、ドル安施策や輸入制限などの保護貿易政策で可能なわけだけど、国内需要を減らさずにこれをやってしまうとどうなるか?
ドル安を起こすためにはドルを刷ればいいだけ。でも、ドルを刷ると「インフレ」が起きる。インフレは競争力を下げる。問題は同じところに落ち着く。

インフレの害は「経済の効率が下がること」と著者は言う。そして「ハイパーインフレ」などの特異な状況による購入意欲の低下や、インフレによってもたらされる税金システムの歪みといった、インフレの害をあげつつも、実際はインフレ率が「10%になったところで、そのコストはたかが知れている。」(P.100)とし、最も重要なのは、「みんながインフレはよくないものだと思っている」(P.100)ことだと論じる。
「インフレ5%がしばらく続くと、労働者はこのインフレが続くものと期待するようになって、それを上回る賃上げ要求をするようになる。企業も、来年の価格改定までにいろんなコストや競争相手の価格も5%上がるだろうってことで、それを含めた値段をつけるようになる。」(P.62)
ということが続くと、インフレがどんどん進行していくことになる。それは結果的に経済の効率を下げ、「競争力を下げる」ことにつながるわけだ。

これだと「インフレ」だけが残って、貿易問題のほうは解決しない。

保護貿易施策で輸入制限をかけたとしても、「アメリカの貯蓄が増えなければ、輸入が減ったら外為替市場に流れるドルが減っちゃうので、ドル高になる。ドル高は輸出にひびいて、制限のかかっていない輸入品はどんどん増える」(P.90)
(保護貿易の害は、「市場がこまぎれになっちゃうから、企業や産業がスケールメリットを活かせなくなる」(P.194))

とうことで、保護貿易施策を打っても貿易赤字の解消にはつながらない。
著者が言うように、貿易赤字問題の解決には、「国内需要を減らすような政策をもってくること」が必要となる。

国内需要を減らすには、「財政赤字の削減」しか方法はない。
しかし「財政赤字」解消はきわめて難しい。著者はここで「医療費」の問題やアメリカの総貯蓄低下の問題を絡めて、それを解決するには、結局、連邦政府として「支出をカットするか、税金を上げるか、その両方をやるしかない」(P.153)と説明する。

つまり現実問題として、支出を減らして赤字解消するには、主に中流層のためのプログラムに手をつけなきゃならないってことだ──特に社会保障、そしてメディケア。(P.154)

著者は、アメリカは貿易赤字を削減する気はないんじゃないか?と問う。
最初に説明したように貿易赤字は雇用には影響しない。「唯一の害は、外国から借金を増やして、今日のツケの支払いを明日の世代にまわしちゃうって点だけ。」(P.177)

著者は最後(5部)で、「シナリオであって予測ではない」としながら、アメリカの未来を3つ容易する。(4つ目のシナリオは問題を先送りせずに、責任ある行動をすぐに決然ととる、というシナリオだが、このシナリオはどう考えてもありそうにもないということで、書かれていない)

第1のシナリオはハッピーエンド。アメリカの生産性成長が復活するというシナリオ。生産性が拡大すれば、「この本で議論してきた問題の多く(全部じゃないよ)はあっさり消えちゃう。」(P.352)
「全部じゃない」というのは、たとえば「失業率」や「インフレ」の問題だ。これらは生産性拡大では解決されないし、また、他にも「金融危機のリスク」も解決できない。
でも、このシナリオで進めば、アメリカは極めてハッピーだ。著者はこのシナリオ確立を20%と見積もっている。

第2のシナリオは「急降下不時着」。
つまり、何をやってもうまく行かず、「大経済危機」が訪れるってもの。
しかし、まずアメリカでは1929年の大恐慌のようなことは起こらないと言う。これまた単純な理由で「ぼくたちは29年依頼ちゃんと勉強して、そして連邦準備銀行はその勉強の成果をうまく活用」(P.357)できるから。例として87年のブラックマンデーがとりあげられている。ブラックマンデーは、実は29年の暗黒の木曜日よりもひどかった。でも、87年では株式の暴落にたいして連邦準備銀行はベースマネーの供給を急いで拡大して、金融パニックを防げた。
(が、「帰ってきた大恐慌経済」では、その説をひっくりかえしている)

じゃぁ、どんな「経済危機」が起こりえるのか?
これはイギリスが80年代に招いた危機と同じようなものだと説明する。それは、失業率が低下して、インフレが加速。その結果、とんでもない不況に陥ってしまったというもの。
また、インフレ不安のせいで国債の満期が短くなると、債務危機を引き起こす可能性もある。短期の負債をかかえると、政府は投資家の不安に翻弄される。要は。満期が短い国債が多くなると、政府は毎月のように満期を迎えて、それを払わなきゃならなくなる。つまり手持ちの現金が枯渇するという不安がでてくる。単純な話。借金を返してもらえなくなるかもしれん、という不安が貸してる側(投資家)に広がる。
この手の不安は、「不安が不安を呼んで本当にそれが現実の事態になっちゃう」(P.364)可能性がある。
こうなると、政府は最悪の事態に追い込まれる。金融危機だ。
(前例は94年末のメキシコ。最近じゃアルゼンチンもでしょう)

最後のシナリオは、「経済政策はこれまでとほとんど変わらない状況で、大きな変化なしに続く」(P.367)というもの。これは著者も「予測に一番近い」としている。
このシナリオでは失業率とインフレ率は低いまま。貿易赤字や財政赤字も続くけど、それほど悲惨な状況もならない。

この本は97年6月に上梓されているわけだけど、一番最後で

これを書いている時点では、アメリカの政治で「長期的な」というとき、それは7年ということだという不文律がある感じだった。それ以降に何が起こるか、誰も話そうとしない。するとこれは、アメリカ経済政策についての世論が2004年くらいにいきなり現実味を持ってくる、ということかもしれない。あるいは、見て見ぬふりや逃げ腰が、その後でさえも続くのかもしれない。2010年より手前のどこかで、押し寄せる年齢的な危機は、だれにでもはっきり見えるようになってくるはず。
人口高齢化の負担が無視できなくなったら、何が起こるんだろうか。現実味のあるシナリオを考えつくのはむずかしい。(P.372)

と語られている。
2004年。まさに今年だ。97年から2004年まで、アメリカはどうだったろう? ブッシュは派手な戦争をはじめたり、減税したりで財政赤字は拡大してるし、(クリントン時代のツケがまわってきたという説もあるが) どう考えても状況はハッピーエンドへは進んでいない。
その意味ではアメリカはかなりバカな大統領を選んでしまった、ともいえるかもしれない。

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2004/01/25 02:12