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2007年04月06日

大金持ちをランチに誘え! 世界的グルが教える「大量行動の原則」

大金持ちをランチに誘え! 世界的グルが教える「大量行動の原則」
大金持ちをランチに誘え! 世界的グルが教える「大量行動の原則」ダン・ケネディ 枝廣 淳子

東洋経済新報社 2007-03-30
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おすすめ平均 star
star主体的に生きることの重要性

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ダン・S・ケネディの本が3冊同時に出た。もちろん3冊とも買った。 まずは1冊目。「大金持ちをランチに誘え!」

他の二冊はある程度中身は想像ついたのだけれど、この一冊はよくわからなかった。
いわゆる「成功本」系なのだろう。
読む時々によって、この本の中でひっかかってくる箇所は違うと思うが、今のボクには以下の箇所が響いた。

私は、30人の新しい患者さんに来てもうらうひとつのやり方はしりませんが、一人の新しい患者さんに来てもらう方法を30通りは知っています。
そして私は、その30通りをすべて実行するのです。

ある成功した専門医の言葉として例にあげられていた。
解決すべき問題があるのだったら、可能性のある解決策をひとつ実行するのではなく、10も20もやってみるのだ
そう。プライオリティをつけたり、忙しいという言い訳で逃げたりせずに。
やれることをすべて「同時」にやる。
やきらめず、考えられる手をすべて打っていく。同時に。肝に銘じよう。

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2007/04/06 09:23

2007年03月19日

「決定」で儲かる会社をつくりなさい


"「決定」で儲かる会社をつくりなさい" (小山 昇)

前作というのか「儲かる仕組みをつくりなさい」には相当影響を受けたというか、かなり参考にさせていただいた。 今日の役員会議でも同じような話になったのだが、結局、「●●●●をやれ」と指示するだけで、●●●が速やかに確実に実行されるのであれば、経営なんていらない。マネジメントなんていらない。ただ言ってるだけでは出来ないからこその経営なのだ。それをやらざるをえない仕組みや、やることにモチベーションや働きがいを感じさせる仕掛けなど、●●●がなされるために環境や仕掛け、仕組みを用意していく。そこにこそ経営の醍醐味があり、ダイナミズムが潜んでいる。小山さんの方からボクはそんなことをほんの少し学んだ。

しかし、小山さんのやりかたというのは、ちょっと劇薬すぎるというか「普通」からはやはりだいぶズレている。これを実行するにはかなり勇気が必要だ。
もちろん、他と違うことをするから意味があるのであって、他の会社がやってることをそのままなぞっていても駄目なことはわかっている。それでもどうしても長いものに巻かれろ精神というか、大方の人がそうであろうと考える方法をあまり深く考えずに採用しがちなのが会社経営だ。でも、それってよくよく考えてみれば、会社経営でもなんでもない。小山さんの本を読むと、そういうことを考えさせられ、改めさせられる。

前作が「仕組み」であり、そういう仕組みをつくることで、そうせざるをえなくするという様々なテクニックや考え方が披露されたが、今回は「決定」だ。経営にはさまざまな「決定」がつきまとう。決定一つで会社が傾くかもしれないし、決定一つで大きく成長カーブを描くこともある。決定ができるのは経営者だけだ。本書ではさまざまな場面における小山流の「決定」方法、「決定」への考え方、ポリシーが明らかにされる。銀行との交渉方法など、ちょっとした裏技的なテクニックも明らかにされていて面白い。
でも、今作は前作に比べると、やっぱり物足りないなぁと思う。やはり前作から漏れた事象を拾い集めた感は否めず、全体に散漫な感じはする。それでもやはり得られるものは少なくない。読んでおいて損はなし。

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2007/03/19 01:16

2007年03月18日

TENGU (柴田 哲孝)


"TENGU" (柴田 哲孝)

つくづくこういうのに弱い。帯買いというやつだ。帯のコピーにつられて買ってしもた。大藪春彦賞受賞とか。 なんか全体的に文章の古くささというか、そういうものが気になってしかった。大昔のハードボイルド小説の登場人物たちが口にしそうなセリフには少しがっかりする。もう少し今っぽい演出が欲しい。

「天狗」が最後には「あれ」ってのもなぁ、どんでん返しがあるわけでもなく、後半はほぼそのままという感じでエンディングを迎える。UMA好きの人ならいいんだろうけど、そこに行くならもっと細部のリアリティが欲しい。帯には「細部の検証の確かさが作品全体に堅牢なリアリティを与えている点は、ノンフィクションで培った技量の現れというべきだろう」(日下三蔵)なんてコメントが引用されてたりしたのだが。本当にそうだろうか。ある世界を成り立たせるためには、事実を積み重ね、その中にさりげなく嘘を入れつつも、圧倒的な情報や科学的根拠やらで塗り固めていく必要がある。最近流行ったものでいけば「ダヴィンチコード」だ。あの小説が成功するのは、あの大胆な仮説を裏付けるための世界づくり(嘘も含めて)の巧さだ。例えば、中島らもの「ガダラの豚」とか、山本弘の「神は沈黙せず」とか。彼らの「嘘」に対しての気合いの入れ方は尋常じゃない。良い嘘をつくるためには嘘を嘘だと思わせないためのストーリーの仕掛けが必要だし、その細部に事実と嘘を織り交ぜていく。その徹底。

この小説の扱ってる題材とかはすごく面白いものだと思うのだが、やはりそこが圧倒的に弱い。後半にほとんどストーリーの核心を集約させてしまってるだけで、壮大な嘘をつくための準備や仕掛けが不足してることは否めないと思う。

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2007/03/18 02:24

2007年03月17日

ソラニン 浅野いにお


"ソラニン 1 (1)" (浅野 いにお)


"ソラニン 2 (2)" (浅野 いにお)

マンガを紹介することはほとんどないが、実は大のマンガ好きだ。独身時代は暇があればマンガ喫茶に通っていたし、今も週刊誌は何冊かかかさず読んでいる。

さて、最近、浅野いにおにはまってる。「いまさら」と言われそうだが。いやぁ、今まで読まなかったことを後悔した。だって、やたらと人文系の人たちからも注目されてるし、なんかあまりに注目されるとあえて手にしたくなくなるんだよなぁ、というのは言い訳だが。しかし、ほんと読んで驚いた。

とにかく、ソラニンはやばい。なんだろうか、この息苦しさというか、読み終えた後の苦しさは。
他のいにお作品もすべて読んだのだが、やはりソラニンだ。彼の作品のなかではある意味最も青臭く、でも最もしっかり描かれた作品だと思う。ストーリーとそのストーリーを支えるさまざまな道具だけを取り上げれば、典型的なモラトリアム型青春ストーリーのありきたりさなのに、なぜこんなに突き抜けてるんだろう。

まだ読んでない人はぜひ読んでほしい。多分、今、この時代の「青春」マンガのリアルってのは、こういうことなんだろうと思う。そう感じさせるものがある。
ここには熱さはないし、かといって冷めきってるわけでもなく、「終わらない日常」と優雅に戯れられているわけでもない。脱力や無気力や厭世主義に支配されるわけでもなく、かといって暴力や狂気やエロスに走るわけでもない。ボクらは絶妙なバランスで、この今を生き、そして今こうやって生きていることが、その後、ノスタルジックな光景として思い出される日がくるのだろうな、という少しやらしい意識を片隅に持ちながら、今を生きる。とてもねじれた意識だ。でも、それがリアルなんじゃないか。

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2007/03/17 22:03

四畳半神話大系 (森見 登美彦)


"四畳半神話大系" (森見 登美彦)

正月に「太陽の塔」を読んでファンになった森見登美彦の新作ということで読んでみた。

相変わらずの饒舌体で書き綴られる何篇のパラレルワールド。物語の舞台や登場人物、登場人物の役回りはすべて同じながら、ほんの少しのズレが物語全体を大きく変えてしまう。しかし個々の物語はまったく違うものであっても、結局その物語の「根本」はほとんど何も変わってない。それが最後の延々と続く四畳半世界に集約されている。ありえたかかもしれないいくつもの物語、しかしその物語のどれもが同じ四畳半の些細なる違いにしかつながっていない。

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2007/03/17 22:01

2007年03月11日

"ザ・ビートルズ・サウンド 最後の真実" (ジェフ・エメリック, ハワード・マッセイ)


"ザ・ビートルズ・サウンド 最後の真実" (ジェフ・エメリック, ハワード・マッセイ)

本書の紹介そのままんま使うと、
「1966年「リボルバー」から1970年「アビィ・ロード」まで、ジョージ・マーティンと共に、ビートルズのレコーディング現場にいた唯一人のレコーディング・エンジニア「ジェフ・エメリック」
が語った真実がここにあるらしい。

んなこと言われてビートルズファンのボクが読まないわけにはいかない。

ボクはビートルズが大好きで、この好きというのは、単なる楽曲が好きというレベルを超えて、その楽曲が生まれてきた背景、そのアレンジや生み出される過程、そしてバンドメンバーの確執やらといった、ビートルズを構成する様々な断片的な物語も含めて好きであり、そしてまたそれをある意味、知り尽くしたいと思っているファンの一人だ。
なので、ビートルズに絡む本はかなりの数を読破してる。
そのなかでも特にサウンド研究本は好きなジャンルの一つだ。

そんなボクにとっては本書は涎ものの一冊。すでに別のところで読み聞きして知っていたことも多かったのだが、細かくまで把握できてなかったレコーディングの裏側を伺い知ることができ、かなり興奮した。

確かに、本書内では、ジョージ・マーティンをかなりバカにしてるし、ポールの持ち上げ方とは裏腹に、ジョンやジョージはかなり辛辣だ。ポールはすばらしいミュージシャンであり、センスも最高で、また人への気遣いなどもできてて、実質のビートルズのリーダーだった、みたいに褒めちぎってるのだが、他のメンバーへはかなり厳しい。
ジョージなどはこれだけを読んでいると、ギターリストとしてはどうしようもないし、性格的にも問題ある最悪の男になっている。ジョンの気まぐれさも、いろんなところで語られてはいるので、大方そうなのだろうとは思うけれども、本書で描かれるその傲慢ぶりにはちょっとあきれてしまう。

こういうメンバーなどの描写については、かなり主観的なところも入ってるのだろうとは思うし、読んでいてあまり気持ちのよいものではない。
が、しかし、それでも本書はビートルズの音楽の秘密を少しでも探りたいと思うものなら読んでおかなければならない。ビートルズのサウンドメイキングの秘密、あの魔法が生まれる瞬間が描かれてるからだ。「魔法」を描いた本も何冊も読んできてはいるけれども、レコーディング現場の生々しさでは、やはり本書が一番だ。

ちなみに、ビートルズのサウンド研究本としては、日本の偉大なるビートルズ研究家チャック近藤氏の「ビートルズサウンド大研究」はぜひとも読んでいただきたい。ビートルズの公式発曲213曲(214曲との説もあるが)+「ree As A Bird」と「RealLove」の計215曲の聞き所、弾きどころを解説している希有な本。


"ビートルズサウンド大研究(上)" (チャック近藤)


"ビートルズサウンド大研究(下)" (チャック近藤)

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2007/03/11 17:01

キミがこの本を買ったワケ


"キミがこの本を買ったワケ" (指南役)

タイトルからして自己言及の迷宮に誘い込む仕掛けになっている。
この本を買わないと、この本を買ったワケはわからないが、この本を買うのは「この本を買ったワケ」を知りたいからだ。そして表紙絵もそう。表紙絵でこの本を持っている男性。その本の中には、同じく男性がこの本を持っている。そしてその男性が持っている本にもこの男性が本を持っていて、、、という具合にエッシャー的な世界が続く。

一遍一遍は短く簡潔にまとめられたコラムのような構成なのだが、これが結構面白い。うん、うん、確かにそうだな。ははぁん、と言われてみれば確かにそうだよなぁということが満載だ。

「実は口コミで買ったことがない理由」なんていう見出し。昨今のマーケティング業界じゃ「口コミ」「バイラル」が最も注目されている。それのまったく逆を行くようなこの意見。でもこれも言われてみれば確かになぁと思える。
友人が貸してくれた本なんて読まないでしょ、という最もな指摘や、アンケートやインタビューの際に答える側は、相手の意図を読み取った回答をするものだという考え方。身の回りのモノで友人に薦められて買ったものがありますか? うーん。確かに。マックも、車も、ケータイ電話も、冷蔵庫も、電子レンジも、机も、ガスヒーターも、、、 友達に薦められたから買ったものは一つもなかった。
なるほど。(でも、最終決定の前に、肩を押してもらったものはいくつかあるけどな)

さて、本書のなかで面白かった話を1つ。マジシャンのデビッド・ブレインの話。
以下の文章を読みながら、あなた自身も数字を思い浮かべてみて欲しい。

「1つお願いがある。50までの数字から1つ思い浮かべてほしい。あっ、難しい数字がいいな。2桁で。そうだ奇数だ、どちらの数字も奇数がいい。ゾロ目は駄目だよ。それに切りのいい数字もダメだ。とにかく難しい数字、割り切れない数字がいい。1の桁と10の桁が異なる奇数だ。いいかい? 思い浮かべた?」


その答えは。。。「37」だ。どうだろう? まんまと37を思い浮かべた人も多いのではないだろうか。
これをボクはこの前実際にやってみたのだが、1人はまんまとはまった。

確かに本書にでてくる「魔法のヴェール」というものはあるんじゃないかと思う。50までの難しい数字。奇数の並び、というと、多くの人がなぜか37を思い浮かべるそうだ。外人のマジックとして成立するということは、この感覚は万国共通ということか?

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2007/03/11 16:09

2007年02月17日

ある広告人の告白 デイヴィッド・オグルヴィ


"ある広告人の告白[新版]" (デイヴィッド・オグルヴィ)

広告界の巨人、デイビッド・オグルヴィ。この業界にいると、この本のことはちょくちょくは耳にする。一度は読んでみたいと思っていたところ、ようやく「新版」として再販されたので、さっそく手にしてみた。

1964年に出版されたとは思えないくらい、ここに書かれてあることは今でも通用することが多い。特に、インターネットの発達でダイレクトコミュニケーションを手軽に手がけられるようになった今、科学的なリサーチに基づき、常に「売れる」広告をつきつめた彼の一言一言は、当時よりもずっとリアルに迎え入れられるのではないか。
昨今はやった神田さん系のダイレクトマーケティングノウハウの大部分がすでに本書につまっている。

オグルヴィは「偉大な広告」をこう定義する。

よい広告とは「広告自体に関心を集めることなく」商品を売る広告である(中略)。見た人に「なんて気の利いた広告だろう」と言われるのではなく、「これは知らなかった。この商品を試しみなくちゃ」と言われるような広告だ。

広告はあくまでも商品やサービスに注目を集め、関心、興味を呼び起こすためのものだ。別のところでオグルヴィは賞をとるような広告が良い広告というわけではないというようなことも言ってる。今の広告業界では「賞」が一つの権威になっていたり、「クリエイティブ」という言葉が、アイデンティティ強化の合い言葉のようになってたりする向きもあるが、そんな状況を予見しているかのようでもある。
これは「ウェブサイト」でも同じようなことが言えるだろう。「ウェブサイト」のインターフェイスやデザインや機能面ばかりが前景化するものではなく、そのウェブサイトを通じて、商品やサービス、会社の魅力が伝わる、ボクらがつくりたいウェブサイトというのはそういうものだ。「評価者」が見ても、なんの面白いとこもない。でも、実際に利用者が、課題をかかえて使うと、なんの疑問やひっかかりもなく、その課題を解決できる。そんなウェブサイトをつくりたいと思っている。

さて、本書内には「効果的なヘッドラインの書き方」から「人を惹き付けるイラストレート法」まで、広告制作における作法、ルールなどが満載で、どれもこれも忘れずにメモしておきたいことばかりなのだが、すべては書ききれないのでこれだけを取り上げておこうと思う。

成功する「広告キャンペーン」のために守らなければいけない11の掟というものだ。

  1. 重要なのは、「どう」言うかより「何を」言うかだ
  2. 素晴らしいアイデアを中心に構築されていないキャンペーンは失敗する
  3. 真実を述べよ
  4. 人を退屈させておいて、ものを買わせることはできない
  5. 礼儀をわきまえること、しかしおどけてはいけない
  6. 現代的な広告を作れ
  7. 委員会が広告を批判するのはかまわないが、広告を作らせてはいけない
  8. 運よくよい広告が作れたら、効果が薄れるまで繰り返せ
  9. 家族に読ませたくないような広告は絶対に書くな
  10. イメージとブランド
  11. 模倣者になるな

どの言葉もストレートに広告マンとしての矜持が伝わってくる一方、実は広告制作において非常に大事なことがコンパクトにつまっているコピーだ。特に、この1。「何を」言うかが大事という、この一言は重い。広告の形式や表現にとらわれる前に、まず「何を」言うべきか、「何を」伝えなければならないか、「何を」消費者に約束するのか。これもウェブ構築だって同じだ。どんな技術や表現や構造を採用するかというよりもまず、「何を」言うか、そこをしっかり考えなければならない。

あ。そうそう。ワンダーマンの本も新版として再販になってるようなので、こちらもあわせて読むと良いかもしれない。こちらも名著。ただ、こちらはより自伝著的側面が強いけど。ただ、ここで描かれた広告手法や考え方も今では定番になったものばかり。そのルーツを知ることができる。もちろんそれは今でも充分に通用する手法が多い。


"ワンダーマンの「売る広告」" (レスター・ワンダーマン)

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2007/02/17 10:55

2007年02月12日

ヒット率99%の超理論


"ヒット率99%の超理論" (五味 一男)

Amazonの書評ではやたらよかったので買ってみたのだが。
元来、ボクはこの手の本が嫌いだ。内容の大半が本書で提唱される「理論」を学ぶためのトレーニングのための設問と、考え方、回答例で占められている。回答といっても「正解」があるわけでもないので、設問に必死で考えた後に、答えをみたところで、なんとなく煮え切らない。いつもなら多分買わない本なのだが。

「五味理論」とは『1000万人以上に支持される新しい商品やサービス』を生むための理論である。
著者の五味さんは、数々のテレビ番組を当ててきた視聴率男。彼がなぜそれほど成功できてきたのか、たまたまが続いただけなのか? いや、違う。それはこの理論があったからだそうな。

という出だしを読めば、早くこの理論が知りたいと思うだろう。
では、その理論とは何か、それは「大衆の心の奥底に眠っている「こんなものがあったらいいな」という欲求」を形にしてやることだという。顕在的なニーズだけに目を向けるのではなく、潜在的なウォンツやニーズを探り当てよう、ということだ。この辺のことは何ら目新しさはない。よく言われることだ。ウォークマンが登場するまでは、誰も通勤や通学中に音楽を楽しみたいなどと思ってなかった。ウォークマンがそういうウォンツを生み出した。
著者はこれを「先取りマーケティング」という言葉で説明する。

そして、「先取りマーケティング」ができるようになるにはどうしたらいいか?

それは、「自分の頭の中に、1000万人以上の人びとが持っている普遍的な感情をイメージする」ことらしい。

がくっ、、、 え。「1000万人以上に支持される新しい商品やサービス」を生むために、「1000万人以上の人々が持っている普遍的な感情をイメージする」って、、、言い換えててるだけじゃないのだろうか。答えになっているのか、これは。

さて、中盤以降は、この「感覚」を身につけるための練習問題だ。
この設問がけっこう面白くて、ボクは風呂に入りながら考えを巡らせてみた。例えば、こんな感じだ。
「1000万人の「窮屈」を解消する、新しいサービスを考えなさい」もちろん、これを考える時も、「1000万人の人々」を意識して考えなければならない。

「窮屈」ですぐに思い浮かぶのは満員電車。満員電車を解消するにはどうしたらいいのか、二階立て電車、「めちゃ掛けハンガー」のロジックを利用して、社内に段差をつくる、というようなことを考えてみた。これだけだとあまりにも普通なので、別の「窮屈」を考えてみる。
居心地が悪い、靴のはきごこち、校則... 空間的、精神的、時間。。。窮屈なものはけっこうある。
こういう一人ブレストみたいなのは、普段はほとんどしないので、良いきっかけではある。

回答を見てみると、なんだ、「満員電車」「二階建て」がそのままでてた。別に模範解答というわけでもなく、1000万人ということを考えると、「満員電車」に行き当たるのは誰でもそうだろう。五味理論としては、突飛なアイディアを出すのではなく、1000万人の普通の人々が望むものを見つけるということを重視するので、こういうド直球のアイディアのほうがむしろ好ましいわけだ。

「今までありそうでなかったITビジネスのスタイルを考えなさい。」
この設問にはかなり悩んだ。全然思い浮かばないのだ。ただ突飛なアイディアなら浮かぶのだが、「1000万人」を考えると、どれも駄目。「スタイル」という言葉からも、ビジネスモデルじゃなくて、どうも「働き方」とか、そういうものをイメージしてしまう。

結局、何も思いつかず、回答例を見る。
回答例。
「欲しい情報がなんでも100%手に入る検索」ポイントは「なんでも100%」というところだ。
うーむ。確かに1000万人以上が欲しいだろうな、アイディアなので実現性は問わないのだが、、、しかし。。うーむ。これでいいのか。こういう単純なところが思いつかないから駄目なのか。。。

という感じの、どうもボクにとっては煮え切らない一冊であった。

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2007/02/12 18:47

2007年02月11日

レバレッジ・リーディング


"レバレッジ・リーディング" (本田 直之)

たくさんの本を読みたいというのは、多くの人が持つ欲求のようで、毎年のように新しい速読術の本が生まれている。やはりそれなりに売れるからなのだろう。 ただ、速読ってのは難しい。誰もができるわけではない。独自の視線の動かし方など、トレーニングが必要なものが殆どだ。誰もができるわけではない。(たいていの本は「誰にでもできる」と書いてあるのだが) しかし、本書の「レバレッジ・リーディング」は誰もができる。「レバレッジ・リーディング」は「速読」ではない。「多読」法だ。早く読むのではなく、必要な箇所だけを読む。読む場所を絞る。だからどんなに読むスピードが遅くてもできる。読む箇所を減らせばいいからだ。

確かにここで書かれているような読み方というのは、ビジネス書に限っていえば有効かもしれない。目的をしぼって、時間を決めて、とにかく自分が求めるものだけを拾って読んでいく。その時の自分にとって必要な箇所や重要と思えるところにはどんどん線を引き、折り目(「犬の耳」)を入れていく。読み終わったら、線を引いた箇所などをメモにまとめて、そのメモを何度も読み返す(「レバレッジ・メモ」と著者は呼ぶ)。

ビジネス書類というのは、読むことが目的ではなく、その内容から、自分に必要な知識やヒント、励ましなどを得るために読むことが殆どだろうし、その意味では、この方法は決して間違いではないとは思う。
著者は、本ぐらいに確実な投資はないと説き、可能なかぎりたくさんの本を読むべきだと主張する。この主張にはボクも全面賛成なのだが、しかし、ボクはビジネス書ばかりを読むというのもどうなのかとは思う。

いわゆる小説や詩、戯曲などの文学なども読むべきだろうし、自然科学系の本、哲学や思想、心理学などの本と
できるかぎり幅広いジャンルの本を読んだほうがいいのではないかとボクは考えている。やはり、ビジネス書というのはそれはそれで偏っていたりするのではないか。

そして言うならば、文学や哲学書などは、まったくこのような読書方法には向いていない。というか、そんな風に読んでしまったらなんの意味もなくなってしまう。文学は「読む」ことそのもの、その体験そのものの中にも価値がある(とボクは思っている)。哲学書なども、読むことが考えることに直結している。だからこれらの本を「必要な箇所だけを選びとって読んでみたところで、それには意味がない。そういう読み方がしたいのであれば、小説ならストーリーの要約本や、哲学ならその哲学者の解説、研究本を読めばいい。(ボクはそういう要約本類はそれはそれで別の価値があるのだろうとは思うが、基本的にはあまり好きではない。)

さて、ボクにはボクなりの「レバレッジ・リーディング」法というのがある。ボク自身もビジネス書に限って言うとだいたい2日に1冊ぐらいのペースでは何かしらの本を読んでいる。読み方は、ここで著者が言う方法と大きく変わるところはない。本は借りたりせず、とにかく買う。きれいに扱おうなんて思わず、ガンガン線を引く。折り目をつける。

しかし、大きく違うところがある。

著者はまずしっかり目的を持って読書に挑もうと言う。しかし、いちいち目的を考えて本を手にとるのは面倒なのだ。なんとなく面白そうとか、これはちょっと読んでおきたいな、ぐらいの軽い気持ちで手にとる本だって決して少なくない。

では、どうするか?

ボクはビジネス書などを読むときは、まず、人に教えたり、自慢したりしたくなる箇所か自分の仕事ですぐに使えそうな箇所を探す。これが「目的」だ。毎回本ごとに目的を決めたりはしない。とにかく人に言いたくなるか、自分が使いたくなる処を探して読む。(もちろん「目的」があるなら、その目的をかなえる箇所を探していけば良い) 該当箇所を読んでいるときには、人に話しているイメージや、それを利用しているイメージを思い浮かべながら読む。

読み終わったら、忘れないうちに人に話す。最初はうまく話せないけど、話しているうちにだんだんと自分のものになっていく。ボクは面倒くさがりなので、メモを起こすなんてことはなかなかできない。だから、人に話す。人に話せば、結構覚えていくものだ。メモに比べれば、取りこぼしは多いだろうけれども、手間もかからないし、人に話すということで徐々にその知識やノウハウが「使える」ものになっていく。

そういえば最近ブログで書評なども書いてなかった。紹介する本はかなり気まぐれ。選ぶ基準も曖昧で、気分が乗ったら書くという軽い気持ちでやっている。これはこれでなんの問題もないのだろうけれど、でもブログを「レバレッジ・メモ」代わりに使うという方法もあるなぁとふと思った。
どうもブログで本を紹介するとなると、それはそれできちんとした文章にしなければならないので(なっていないことが多いのだけれど)、やはり気を使う。時間もかかるし、面倒くさい。なのでなかなか全部の本を取り上げられない。
でも「レバレッジ・メモ」なら、ただ本のなかで線を引いた箇所などを書き写すだけだし、自分にだけ理解できればそれで充分なのだから、「書評」なんかよりは圧倒的に楽だろう。

わざわざ、ブログに書かなくてもいいのではないかという意見もあるだろうが、ブログに書くとどこの環境からでも見られるし、検索もできる。あと、このブログを読んでる人のほとんどが社員なので、本に興味を持つてもらえるというのもメリットだ。わざわざメールでこの本が面白かったよ、と全員に語るわけにもいかないし。

が、しかし、そうはいってもやはり「レバレッジ・メモ」みたいなことをやり続けるのはかなり大変だと思うし、続けていく自信はない。なので、気がむいたら「レバレッジ・メモ」という形式でブログにアップすることもあるだろう、ぐらいの軽いノリで始めようかなと思っている。

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2007/02/11 07:13

2006年11月05日

いまさらながら「すごい会議」を

すごい会議』は発売当初に読んだのだが、最近再び読み返してみた。たまたまとあるプロジェクトで大橋禅太郎さんのマネジメント・コーチを受けた会社の方とご一緒したということもあり、そこでお聞きした話にも刺激を受けた。また、上期を終えて問題は多々ありながらも目標をほぼ達成し、下期または来期に向けて、新たな組織体制、人事によって前向きなムードが芽生えつつある今だからこそ、会社としての目標を再確認し、それをマネジメント陣できちんと共有したい、という思いがあり、もっと前向きで創造的な会議をしたいと再び手にとった次第だ。

すでにあまりにも多くの人が「すごい会議」を実践して、そのことについて書いているのだが、あらためて自身の勉強のため、『すごい会議』について考えて見る。進行方法や手順は本に書かれてあることにのっとるとして、実践してみて疑問に思うところやポイント、こうしたほうがいいのではないかという考えをまとめてみる。

会議の進行手順のおさらい

1)会議の参加者に「うまくいってること」を3つ以上書いてもらい、それを発表してから会議を始める

2)この会議で得たい成果を紙に書いて発表してもらう

3)達成の障害となっている問題や懸念を書き出し、それらを「どのようにすれば~」の形に書き換える。

4)「言えない問題はなにか」を書いてから、「どのようにすれば~」の形に書き換える。

5)「あなた自身のひどい真実はなにか」を答えを書いて発表してもらう

6)「戦略的フォーカス」を参加メンバー全員で創り、合意し、約束する。

7)戦略的フォーカスにニックネームを付ける。それを達成するのに、必要不可欠な担当分野を6程度決める。

8)コミットメントリストに各担当のコミットメントを記入する。

9)「いまから一ヶ月以内に、自分の起こす一番大きな、インパクトはなにか?」を各自が書いて発表する。


■問題や懸念点の解決方法

手順3)、4)、5)は言わば、「問題」「懸念」をその根本的なところまで遡って棚卸しするステップといえる。「言えない問題」というステップを踏むことで、表面的な問題からより深層の根本的な問題をあぶり出していくための質問だ。これらのステップの後に、「戦略的フォーカス」の作成へと進むわけだが、ボクがひっかかるのは、ここで棚卸しされた問題の解決案、解決方法を考えないのか?ということだ。 すでに「どのようにして~」という文章に変換することで、アイディアが出やすくなっている。その状況を一旦宙ぶらりにして、「戦略的フォーカス」に進むのはなぜだろう? 問題を棚卸ししてることによって「戦略的フォーカス」その後のコミットメントリストの作成といったものの土台が生まれているのかもしれないが、すべてでなくともその場で解決可能なことは合意しておいても良いのではないかと思うのだ。

『すごい会議』のなかでも問題解決方法が提示されている。
STEP.1 問題点または懸念を「どのようにすれば」という質問に変換、STEP.2 「私の主張では~」をつけて、現時点での状況を15個ほどあげる。 STEP.3 「私の提案では」をつけて、提案、代替案、創造的な解決策、検討の可能性をあげていく。ここからやるもの、やらないものを決めて、アクションを起こすのが適当な人に「リクエスト」を行い、コミットメントリストを作成する(担当者/期日/望まれる成果)。ミーティング終了前に、残った問題を誰がいつまでに解決するか(またはとりあえず放っておくか)を合意する。
この集団解決方法を、5)の後に置いてはどうかと考えている。これだけで、会議はおそろしく長くなってしまうだろうが、せっかくあがった問題や懸念点、それにたいして解決策がでやすい雰囲気が生まれているのだから、そこでできる解決のためのTODOは決めてしまったほうが良いのではないかと思うのだ。

・・・と思っていたのだが、ここを見ると、「
これは、意見は集めずに、「どのようにすれば○○か」という文章を集めるだけです。」との回答があった。
また、「手順6,7,8(※このエントリーでは3)、4)、5)のこと)は答えを作る場所ではないのです。」「問題を前向きな形でたな卸しするだけです。「答え」を提示する人がいたら、それはストップします(経営者自身がやってしまい そうになることも多くみます)ここで、誰かが「答え」を言ってしまうとドチッラケなのです。 その答えが、各自、 意識的または無意識のうちに手順11でコミットメントとしてその解決策が約束される可能性を最大化するためにやっているとお考えください。」という回答が...

なるほど。手順3)、4)、5)はあくまでもコミットメントの際に参照するためのものなのか... 

しかしこのFAQの存在は知らなかった。「1,3,5,2,4,6,7,8,9,1 0,11,12です。最初の1,3,5が準備段階で一人でやる部分で、2からが参加者と一緒にやる部分 です。」というのは手順を重視する「すごい会議」ではとても重要なことではないか。うーむ。後でこのFAQと手順を読み返してみてもう一度整理してみよう。

少し話は変わるが、そもそも「すごい会議」は、会議の効率を上げるための手法ではないということ。これは見落としがちだけれどもしっかりと理解しておかなければならない。
もちろん「すごい会議」は結果的には会議の効率を上げてくれるものではあるけれども、先に「効率の改善」を考えていると、おそらくうまく機能しない。そもそも会議は効率的かどうかよりも先に効果的かどうかを問わなければならない。どれだけ効率的でも、効果的ではない会議は意味がない。果たして今、会社で開かれる種々様々な会議が効果的かどうかということを問うてみよう。そして、効果を生むための会議手法として「すごい会議」の導入を考えると良いだろう。実際、最初に「すごい会議」を開くと、かなり時間がかかる。しかし、「すごい会議」でかけられた時間は、通常の会議のように時間のほとんどが「コメント」の交換だけで終わる会議より、ずっと大きい効果を得ることができる。


■会議の発言をファシリテーターがコントロールする

『すごい会議』の中で、会議の中での発言を「提案」「リクエスト」「明確化のための質問」の3つに絞るという方法がさらりと提示されている。このテクニックだけでも本書を手に入れる意味があるのではないかと思う。『すごい会議』の中で、大橋禅太郎さんがあれやこれやとこれじゃうまくいかないんじゃないか的な発言をしていたとき、ハワードさんが「では、おまえの提案はなんだ?」と聞いている。うまくいかなり理由を指摘するときは、「代替案を提示」しろということだ。ちょっとしたことだけれども会議内でファシリテーターがこの一言を発せるかどうかは鍵だろう。「リクエスト」の際には、「誰が」「特定の日付と時間」「そして、なにをもって成功とするのか」ということを記述するようにする。会議前のルールとして、会議では原則「提案」「リクエスト」「明確化のための質問」という3つのどれかを意識して発言してもらうことを説明しておくと良いかもしれない。
ちなみに、『すごい考え方』では会議では「一般的な意見」「提案」「コミットメント」という3種類の発言があり、会議の目的は最終的に「コミットメント」を得ることとしている。「一般的な意見」の中から「提案」につながる要素を抽出したり、そこから「コミットメント」を導き出したりという役割がファシリテーターには求められる。
書いてから発表する、という方法をとることそのことが、実は「コメント」を減らすことにもなるので、まずは面倒でもとにかく書いて、整理して発表するという手順を徹底させることも重要だろう。


■1つの戦略的フォーカスに収斂させる方法?

手順6の参加者全員で「戦略的フォーカス」を創り、合意するというところ。「X年Y月Z日までに~~~(なんらかの数字または測定できること)~~~を達成することによって、~~~(欲しいインパクト)となる。」という3行の文章を完成させるというステップだが、ここの進め方がいまいち理解できていなかった。ここでも、1人1人がこの文章を完成させて読み上げていくわけだけど、最終的にはそれを1つにまとめあげなければならない。「すごい会議」の第四章では、そのまとめあげかたは書かれていない。なんとなく意思決定者が最終的に決定を行うのかなというレベルなのだが、それで良いのだろうか?

意思決定者が最終決定を行うとして、せっかく1人1人があげている戦略的フォーカスだ。これをうまく収斂させてチームの目標にできなければ、その後のステップには意味がないのではないか。
1つの方法としては、全員の戦略的フォーカスが出そろった段階で、今度はそれらの戦略的フォーカスを包括するさらに上位概念の戦略的フォーカスを全員に考えてもらう、というステップをとる方法。そうやって可能な限り上位の包括的戦略的フォーカスをつくっていき、最終的に意思決定者によって決定する。最終の戦略的フォーカスへの合意の際にも、まず自分がベストと思うものを提示し、自身のアイディアが採用されなくてもなされた意思決定が正しく機能するためにサポートしていく姿勢を生み出す。


トップマネジメントから「すごい会議」を導入する

全員で目標をつくり、コミットメントリストをつくり、ということで考えると、「すごい会議」は合議に基づくボトムアップ型のマネジメントスタイルのように思える。「戦略的フォーカス」などは、トップマネジメントでつくり、それを達成するために各階層のマネジメントが行われるというようなトップマネジメントスタイルを志向する会社には適合しにくそうなイメージがある。トップマネジメントで「すごい会議」を実践するなら、そこで合意された「戦略的フォーカス」が会社目標となるから問題はないのだろうが、ある部門やある階層のメンバーで行うとなると、下手するとそこでできあがる戦略的フォーカスが、会社の方向性とそぐわないものになる可能性もあるのではないか。

そういうことが起きないようにするためには、結局、会社としての「戦略的フォーカス」と「コミットメントリスト」を社員全員が知っておかなければならないだろう。これは当たり前のことのようだけど、実際、売上目標などの数値目標以外、会社がどういう方向を志向し、どうなろうとしているのかということを社員一人一人にまで理解してもらうことは大変なことだ。まずはトップマネジメントが「すごい会議」でしっかりとした戦略的フォーカスとコミットメントリストをつくり、その目標にむかって邁進し、その成果を達成することのインパクトやすばらしさを伝えていくことが必要なのだろうと思う。

すごい会議-短期間で会社が劇的に変わる!
すごい会議-短期間で会社が劇的に変わる!大橋 禅太郎

大和書房 2005-05-18
売り上げランキング : 26309

おすすめ平均 star
starいやはやスゴイ・・導入は至難の技
star書籍の内容はともかく・・・
star非常に重要なことが2つ分かった

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2006/11/05 17:44

2006年10月13日

ブルー・オーシャン戦略 競争のない世界を創造する

ブルー・オーシャン戦略 競争のない世界を創造する
ブルー・オーシャン戦略 競争のない世界を創造するW・チャン・キム レネ・モボルニュ 有賀 裕子

ランダムハウス講談社 2005-06-21
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おすすめ平均 star
star正しすぎて、読むと眠くなる戦略?
star事例くらいしか役に立たない。
starマーケティング本のブルーオーシャン

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なんでも31カ国で翻訳されてるそうで、これはポーターの「競争の戦略」の19カ国を上回るそうな。ビジネス書としては超ベストセラーだ。

「ブルーオーシャン」とは競争のない未開拓市場のこと。一方で、競争相手がひしめき熾烈な競争市場を「レッドオーシャン」と呼ぶ。本書では企業は「ブルーオーシャン」を見つけ出し、その海に乗り出していかなければならないと説く。

と、書けば、「競争のない未開拓市場」なんてものがあれば、誰だって参入したいよと思うだろう。今さらそんな都合のよい市場があるかいなと。しかし、ブルーオーシャンは、単なる新規市場ではない。むしろ、既存の市場の延長にあるケースがほとんどだ。ある意味では今までの「差別化」や「ポジショニング」といった概念と大きく変わりはないのかもしれない。本書では「市場の境界を引き直す」という言葉を使っているが、結局のところ、市場において多くのプレイヤーが競争要因として捉えてるところとは異なる競争要因を見つけ出そうということだ。

Web制作会社だと「企画力」や「プロデュース力」や「プロジェクトマネジメント」「クリエイティビティ」「システム開発力」「スピード」「価格」みたいなところを強みとして競争してるかもしれないが、こういったどこの会社もが高めようとしている要素・価値ではないところで、顧客が期待する新たな価値を発見するということだ。

本書では「ブルーオーシャン」を見つけ出し、そこに乗り出すためのいくつかのフレームワークが提示されている。機会があれば、一度、ボクらの市場もこれらのフレームワークを使って見直してみると、何か気づきがあるかもしれない。

■分析のためのフレームワーク
Q1.業界常識として製品やサービスに備わっている要素のうち、取り除くべきものは何か
Q2.業界標準と比べて思いきり減らすべき要素は何か
Q3.業界標準と比べて大胆に増やすべき要素は何か
Q4.業界でこれまで提供されていない、今後付け加えるべき要素は何か

■市場の境界を引き直すための6つのパス

パス1.代替産業に学ぶ
例)映画館の競争相手は、映画館だけではなくレストランも。「外出して楽しい夕べを過ごす」という目的から見れば同じ。

パス2.業界内のほかの戦略グループから学ぶ
「メルセデス」「BMW」「ジャガー」は同じ高級車セグメント。

パス3.買い手グループに目を向ける
例)購買者と実際の利用者が異なる場合。利用者に目を向けてみるなど

パス4.補完財や補完サービスを見渡す
例)映画館を訪れる人々→その前にマイカーの注射やベビーシッターの手配

パス5.機能志向と感性志向を切り替える
例)スウォッチは「機能志向」が強かった時計市場に「感性志向」を持ち込む

パス6.将来を見通す
後戻りしないトレンド。

本書の前半はこの手のフレームワークの提示と、それを活用して「ブルーオーシャン」を見つけ出す手順。後半は「ブルーオーシャン」に乗り出すために、どのようにして組織を動かしていくかという、どちらかというとマネジメント系の話になる。「割れ窓理論」を実践して、犯罪率を一気に下げることに成功したニューヨーク市警の裏側の話。どうやって犯罪を減らしたか、というのは「テッピィングポイント」などで知っていたけれども、実際、組織としてどんな風なマネジメントで、現場の警官の意識を変えていったのかということはよく知らなかったので面白かった。

単純に、大勢を動かすには、きわめて大きな影響力のある少数を動かすのが良いという当たり前の話なのだが。「80対20の法則」と同じことだ。
何か大きな組織改革で、全社員の意識を変えなければならないときは、まず、影響力のある少数に徹底して働きかけなければならない。

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2006/10/13 22:12

2006年05月19日

見える化-強い企業をつくる「見える」仕組み

見える化-強い企業をつくる「見える」仕組み
見える化-強い企業をつくる「見える」仕組み遠藤 功

東洋経済新報社 2005-10-07
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star気軽に読めて直ぐに役立つ
star大事なテーマを取り扱っている
star現場力を鍛える第二弾

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まだ会社が小さくて、社員数も少なかった頃は誰が何をやってるかなんて誰もが理解してた。誰が今てんぱってて、誰がどのお客さんの案件やってて、どこのフェイズにいるのか、どんなトラブルが発生しているのか、意識せずとも「見え」ていた。次第に人が増え、情報の伝達の効率性や共通スキルの蓄積などのために部署ができ、業務が細分化され、気づけば「見えない」領域が広がっていた。

そして「情報共有」が経営課題として持ち上がる。「隣の人が何してるかもわからない」なんて悩みが俎上に上がり、掛け声のように「情報共有」が叫ばれる。

しかし、よくよく考えて見ると、当たり前だが、「情報共有」は目的ではない
「情報共有」はあくまでも手段だ。であれば、「隣の人が何をしているか」を把握する必要なんて実はないことも多いのではないか。何かの目的のために情報共有しなければならないのであって、ただ「隣の人が何をしてるか」を理解しても、その目的が達成されなければ意味はない。

昨今、トヨタ流の経営手法が人気で、「見える化」というキーワードもトヨタ経営の重要なワードの一つだけれども、「見える化」というのも一種の「情報共有」だ。

本書では、「見える化」の目的とは、ずばり問題を解決するためと言い切る。そして、「問題」とは「基準や標準の姿と現実に起きている姿とのギャップ」だ。

「情報共有」という抽象的な言葉を解いていくと、それは問題を解決するために、理想と現実のギャップを可視化すること、ということになる。問題を見えるようにすることで、組織がその問題を自律的に(ボトムアップ的に)解決させていくための現場力を養っていくことが必要なのだ。

本書では「見える化」の必要な領域を、「問題」を中核とし、それを取り囲む「状況」「顧客」「経営」「知恵」の4分野をあげている。

「問題の見える化」を以下の5分野と設定している。

1.異常の見える化
2.ギャップの見える化
3.シグナルの見える化
4.真因の見える化
5.効果の見える化

異常が発生していることを見えるようにすること。自らが見ようと意識せずとも見えてしまうような仕掛け(シグナル)を盛り込むことが重要だ。異常を見えるようにすることで、異常へどのように対処していくか、という意識が生まれる。もちろん、それが異常であると判断するには、何が普通か、基準かということが前提として明らかになっていなければならない(ギャップ)。そして、その異常や問題がなぜ発生したのかということが見え(真因)、さらに問題は解決されたのかどうか、どのように解決されたのか(効果)ということが見えなければならない。

私たちの会社にも問題は山積みだ。ただ莫大な問題を前に途方に暮れるのではなく、その問題を自律的に解決していけるための「見える化」を進めよう。

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2006/05/19 00:09

2006年05月17日

規制とは/CODE―インターネットの合法・違法・プライバシー

CODE―インターネットの合法・違法・プライバシー
CODE―インターネットの合法・違法・プライバシーローレンス レッシグ 山形 浩生 柏木 亮二

翔泳社 2001-03-27
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star原書で読みましょう
starレッシグに泥を塗った山形浩生
star理解できるまで読め

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会社に転がっていたが、手つかずだったので読んで見た。
電車の行き帰りにざっと読んでみた。大きい本で電車の中で読むのはかなり抵抗があるが...
メモ。

規制」は「法、社会の規範、市場、アーキテクチャ」という四つの制約条件によってもたらされる。
レッシングは「喫煙」という行動を例に説明している。
未成年者の喫煙や路上喫煙時の罰則といった法律的な規制、食事中には喫煙するべきではないというような社会的規範による規制、そしてタバコの値段といった市場による規制、そしてニコチン量やフィルタの有り無しといったタバコのテクノロジーというべきものによる規制。

喫煙という行動の規制はこれら四つが絡み合い生まれる。1つの制約条件を変えると、すべての制約条件は影響を受け、そこに違う関係、様相が生まれる。

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2006/05/17 21:18

2006年04月27日

千円札は拾うな。

先週、なんとか引越をしたのだけれど、まだ家に問題がありすぎて、全然片付いてない。とりあえず寝られるというレベルで、しばらく時間がかかりそうだ。

電車通勤になったので、何冊か本を買った。前から気にいっていたのだけれど、タイトルが狙いすぎてるんじゃないかというまったく個人的な好みで敬遠していた。
でも買って本当に良かったと思った。

千円札は拾うな。
千円札は拾うな。安田 佳生

サンマーク出版 2006-01-20
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この手の経営哲学みたいなものというのは成功者には何かしら必ずあって、ある人はこう言うけど、別の人はまったく正反対のことを言ってる、なんてことはよくある。
どれが正解というわけではなくて、結局のところ、その考え方やポリシーに一貫性があるかどうかということだけが重要なのだろうと思う。ダメなのはある処ではこっちを真似て、またある処ではあっちを真似てというような無節操さなのだろう。

成功する人ってのは、自分が信じているものに自信があり「世間的には」「一般的には」「常識では」というような標準化されたマニュアルからはみ出してしまうことをいとわない。むしろはみ出しているからこそ、差別化でき、競争優位を築いている。
本書で書かれていることを実践していくには、相当の覚悟と自信が必要だろう。

本書の安田佳男さんの経営哲学の根本には、ビジネスとはまず投資だという考え方がある。そして、何十倍、何百倍という投資効率を生み出す可能性があるのは、人材情報、そしてブランドだけだ、と言い切る。

だから安田さんは、まず人に投資する。「優秀な人材には仕事をさせない」という過激な見出しも、裏を返せば、優秀な人に「自由な時間」を与えるほど効率のいい戦略はない、という投資対効果の考えがある。人の最も大切な能力は「新しいものを生み出す能力」であり、優秀な人はそれができる。目先の利益や売上を優先し、優秀な人が目先の仕事をこなすことに追われるほど無駄な投資はない。

社員が恐縮するぐらい大きな金額の決済権を与えることによって、社員にお金の使い方を学ばせたりということも、人への投資の一貫だ。会社とは決済する人が寄り集まっている場であり、社長とは一番決済できる金額が大きい人だ。だから一人一人の決済能力を育てることが、会社の成長にも繋がると考える。

また、本書では何度も登場する言葉で、タイトルにもなっている「捨てる」という勇気。今までの常識や偏見を捨てることによって、新しい価値を見いだしたり、大きな成長ができるのだと言う。「売上を伸ばすために顧客を捨てる」「大切すぎる顧客は作らない」という考え方も目の前の千円札を捨てることによって、より大きなお金を得ることができるという本書のタイトルに繋がっている。

常識や既存の事業の延長でしかビジネスを描けない状況を打破するためには、常識外れの目標を立てなければいけないと言う。これも安田さん流の捨てるためのフレームワークだろう。

残業をやめて週休3日にする」というところから考えてみる。
これはもうビジネスのやり方、方法、プロセス、すべて変えて考えなければならない。今やってることの改善だけでは到底可能にならない。
、常識外れだからこそ、まったく違うやり方、違う方法での解決を見つけ出さなければならなくなる。つまり頭を使わなければならなくなる。
松下幸之助さんの「値切りは半額に、値上げは三倍に」という考え方も根本はそこにある。常識の範囲内、今の延長でしか物を考えられないと、木を見て森を見ず。到底無理な目標があるからこそ、頭を使わなければならない。中途半端に1割、2割の値引きだと、下請けは頑張ってなんとかしようと思うかもしれない。しかし、半額となれば、頑張るでは通用しない。

東京に戻ってきて、いろいろな人から話を聞くごとに、ちょっとまずい状態だなぁと感じる。それは京都の比ではない。急成長、急拡大したツケが来ているということなのだろうか。

しかもボクも含めてだが、マネジャークラス以上全員が、今のビジネスモデルでしか事業を考えられてない。予算目標は昨年対比から自動で導き出され、そこから必要な社員数が割り出されて、採用が開始される... オペレーションができあがりつつあるといえばあるのだが、毎年毎年完全にゴムが伸びきった状態で、多くのスタッフが疲弊してぐったりするほどの状態でなしえたことを前提として、次年度戦略や予算をつくるので、規模が大きくなっていくごとに会社にとってすごく重要なものが疲弊していってる感は否めない。

取扱額が大きいという理由だけで、人を人とも扱わないようなクライアントの仕事が社員に任され、売上比率が大きくなっていけばいくほど、切られると困るという不利な立場に追いやられていく。

本書を読んで、会社のなかのさまざまな問題や課題が一気に駆けめぐり、今の考え方や常識に縛られてては、一向に問題は解決しないのではないかという思いが強くなった。僕たちは、もしかしたら「千円札」ばかり必死に拾っているのではないか。風に舞い、ちらばる千円札を追いかけ、少しでも取りこぼすまじと、人をどんどんつぎこんでは、ひたすら千円札を拾わせている。そんな気がした。

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2006/04/27 12:59

2006年04月04日

1億稼ぐ「検索キーワード」の見つけ方 儲けのネタが今すぐ見つかるネットマーケティング手法

POD野郎の作者さんにコメントいただいたのにコメントのCGIがおかしくて返事ができませーん。すいません。この場を借りてお礼申し上げます。

さて、これも新幹線の移動中に読もうと東京駅で購入。

1億稼ぐ「検索キーワード」の見つけ方 儲けのネタが今すぐ見つかるネットマーケティング手法
1億稼ぐ「検索キーワード」の見つけ方 儲けのネタが今すぐ見つかるネットマーケティング手法滝井 秀典

PHP研究所 2006-03-21
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なんとも扇動的なタイトルで、またか...と少し躊躇したものの、中身は面白かった。実際のデータやノウハウが詰まってて、よくある神田系の二番煎じ、あるいはトンデモSEO本とは大違いだ。
この手の本が出る頃には、実は、もうこの本で書かれてるような手法は古くなってるんじゃないかと思うところもなくはないけれども、検索キーワード広告からの来訪率、そしてコンバージョン率が必ずある一定の範囲内に納まるということや、キーワード選びのコツは、アクション系ワードというようなノウハウは、実はものすごいノウハウで、こんなの全部公開しちゃっていいんかいな、と驚いた。
検索キーワード広告ではウォンツ系の商品・サービスはダメとか、頭ではわかってるんだけど、きちんと言葉で整理して示してもらえると、わかりやすくなるし、これはお客さんの説明にも使えるなぁと関心した。

ということで、私も早速、タウンページを手に入れて、研究してみようっと。

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2006/04/04 00:20

2006年03月26日

マネーボール

大リーグの中で、今までの野球観とは違う原理で戦っているチーム、それがアスレチックスだ。選手の総年俸額は下から数えた方が早いようなチームなのに、毎年莫大な予算を持つ他の競合チームに引けを取らない勝利数を上げている。その秘密は何か?

ボクはてっきり「エスキモーに氷を売る」のようなマーケティング関連の書籍か、選手のやる気を最大限引き出していくマネジメント・コーチング系の本かと思って手にとったのだが、内容はまったく違っていた。しかしこれが面白い。

アスレチックスの野球には、ビル・ジェームスという野球分析オタクが提唱したセイバーメトリクスという主観や曖昧さを排除し徹底して確率や統計、科学的な分析から作戦を立てていくという手法が取り入れられている。この手法をいささか強引とも思われるようなやり方で導入し、球団を変えたのがGM、ビリー・ビーンだ。他の球団からは歯牙にもかけられないような選手をスカウトやトレードで獲得して勝利を重ねていく。

ビリー・ビーンのやり方は時として「旧来の」野球観に支配されている解説者やファンからは批判の矢を浴びる。しかし実際、恐ろしく低予算で高勝率の球団をつくりあげ、運営を続けているのも事実だ。その意味では、その手腕は高く評価されるべきだろう。

例えば、アスレチックスでは盗塁や犠打は作戦として殆ど利用されない。統計から考えた場合、これらはチームがたたき出す得点に影響を与える変数ではないからだ。というと、ものすごく意外なのだが、その考え方の元になっているのはビル・ジェームスが生み出したチームの得点を予測するための数式だ。

得点数=(安打数×四球数)×塁打数÷(打数+四球数)

この公式を使うとメジャーチームのほとんどの得点が正確に予測できてしまうと言う。
この公式にはチーム打率や盗塁数などが入ってない。つまり、打率や盗塁数は得点を生み出すことにたいして重要ではない、ということを意味しているわけだ。

ボクらが抱く野球観は盗塁でかき回すことは何の根拠もなく是だと思っているし、1番バッターが塁に出れば、2番は犠打でスコアリングポジションにランナーを進めて、クリーンナップに託す、ということが王道だと信じてる。しかし、アスレチックスではその考え方はまったく採用されない。多くの人はアスレチックスの作戦は積極性や作戦がなく、ただ打者任せで受け身の試合しかできないと批判する。プレーオフでどうしても勝てないのは、そのせいだと言う人もいる。しかし、現実、そういう作戦をまったくといっていいほどとらないアスレチックスが、他のチームとは比較にならない程の低予算で、あれほどの勝利数を上げているのだ。

アスレチックスでは四球だろうがヒットだろうがとにかく塁に出ることができる出塁率の高い選手が求められる。単純に打率が高い選手は年俸が高いため、アスレチックスでは打率が低くても出塁率が高い選手の獲得を優先する。打率が低くても出塁率が高くなる選手とは四球を選ぶのが巧い選手だ。

アスレチックスは、そんな選手をコンピューターを活用して見つけ出し、安く買い上げたり、大胆なトレードを繰り返し、チームを変えていく。それはシーズン中でも何のお構いもない。GMのビリー・ビーンは巧妙な話術で他チームのオーナーやGMを翻弄し、アクレチックスの戦略に沿う選手を集めていく。本書ではそんなビリー・ビーンの様を所々で描き出していている。統計的な判断を最優先し、1人1人選手を将棋の駒のように扱うその姿も、やはり野球をドラマやロマンとして見てしまうファンにとっては許し難いところもあるかもしれない。しかしまた一方で少ない予算で確実に成果を上げていくその徹底ぶりはある意味プロフェッショナルだし、他の球団GMが野球をきちんと勉強しようとしていないだけとも言えるかもしれない。

本書が出た当時は日米でかなり話題になったようだけれども、果たしてこの本によって明らかになったアスレチックスの戦略は、他の球団に取り入れられているのだろうか? ボクはメジャーリーグの事情には詳しくないので良くはわからないのだが、アスレチックスは2005年度でも88勝74敗 勝率.543 ア・リーグ西地区2位というかなり優秀な成績を残している。
本書が書かれた以降でも、GMビリー・ビーンは手腕を発揮しているようだ。そして、アスレチックスが未だに競争優位を保っているということは、他のチームは未だ今までの野球観に縛られた戦い方をしているということなのだろう。
盗塁を絡めたり、犠打で1つでも前の塁に走者を進めたりという野球もボクは否定するわけではなく、それは野球の面白みの一つだと思っているのだけれど、アスレチックスのように全く他とは異なる考え方で運営されているチームが、毎年のようにプレーオフ進出ギリギリのところで戦えているということも、違う価値観をもたらしていくれて、野球の楽しみ方の幅を広げてくれるものだと思う。

マネー・ボール
マネー・ボールマイケル・ルイス 中山 宥

ランダムハウス講談社 2006-03-02
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2006/03/26 01:41

2006年03月16日

月100万円のキャッシュが残る「10の利益モデル」

新幹線の移動中にさくっと読める本と思って買って、正直この手の本はあまり大きな期待はしてないのだけれど、読んでみると期待より面白かった。

月100万円のキャッシュが残る「10の利益モデル」
月100万円のキャッシュが残る「10の利益モデル」丸山 学 古市 達彦

同文舘出版 2006-03-08
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紹介されている利益モデルがどうこうというより、しょっぱなプロローグの「利益とはいったい何なのか?」という短い文章が、あらためて利益モデル/利益の内容からビジネスを考えさせてくれるきっかけを与えてくれた。
「利益」と「労働の対価」との違いという、ものすごく基本的なことを語っているだけではあるのだが、ボクらのような労働集約型の仕事に従事していて、また昨今のようにひっきりなしに仕事がやってくるようなありがたい状況にどっぷり浸かってしまっていると、「利益」と「労働の対価」の境界線がぼやけてきてしまう。「稼働時間」がそのままお客へのチャージとなり、それが普通化すると、その時間単価の中に込められている意味が忘れさられてしまうのではないか。

さて、利益モデルからビジネスを考えるってのは、本書内でも紹介されているが、「プロフィット」が有名だ。著者の丸山さんも、この本を研究したと認めている。私も以前に「プロフィット」や、同じ著者の「プロフィット・ゾーン経営戦略」 は読んでいるが、本書をきっかけに改めてこれらの本を再読してみることにした。本書単独よりは、本書とこの2冊をあわせて読むと、より理解が深まるだろう。

ザ・プロフィット 利益はどのようにして生まれるのか
ザ・プロフィット 利益はどのようにして生まれるのかエイドリアン・J・スライウォツキー 中川 治子

ダイヤモンド社 2002-12-14
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おすすめ平均 star
starビジネスモデルの解説として
starビジネスモデルを明晰に分類
starビジネスモデルを考えている初心者にお薦め

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丸山さんは利益モデルは「顧客から選択肢を奪う」か「何らかの形でコストダウンを実現する」かのいずれかだと考える。なるほど、確かに「プロフィット」の中で紹介される利益モデルはこのどちらかで考えることができるかもしれない。
「顧客から選択肢を奪う」という観点で最もわかりやすいのは「スイッチボード利益モデル」だ。「プロフィット」ではマイケル・オーヴィッツというタレント・エージェントを例にとりあげられていた。利益モデルを指南するチャオも「優雅さを兼ね備えた利益モデル」だと語り、特にこのモデルがお気に入りのようだ。
ちなみに日本語版のこの章では、「取引せざるを得なくなり」「契約せざるを得ない」という言葉が強調されているが、まさにその強調が意図するように、このモデルは何らかの形で顧客がそうせざるを得ない状況をつくり出すことが重要とされている。「スイッチボード利益モデル」は、情報を求める人と情報を提供する人、あるは売り手と買い手の間に入り、どちらかを完全に掌握してしまうことで、買い手の選択肢が奪ってしまう。まさに「顧客から選択肢を奪う」モデルだ。

インストールベース型利益モデル」も顧客の選択肢を奪うモデルだろう。あるプリンタを導入してしまえば、そのプリンタを利用続ける限り、そのプリンタメーカーのカートリッジを利用せざるをえない。ここでも顧客の選択肢は奪われている。メーカーとしては、とにかくプリンタを設置することに執念を燃やせば、あとはメンテナンス費とインク費を継続的に獲得しつづけられる。
というように一つ一つ、見ていくと、顧客を知り尽くす「顧客ソリューション型利益モデル」や、製品ピラミッドをつくりあげることで防御壁とする「ファイアウォール型」など、その殆どは何らかの形で顧客の選択肢を奪っている。その奪い方のバリエーションがビジネスモデルであり利益モデルなのだろう。

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2006/03/16 10:50

2006年03月15日

カルロス・ゴーンの「答えは会社のなかにある」

会社のNくんに借りた本。ゴーン関連の本は、「ルネッサンス ― 再生への挑戦」や「カルロス・ゴーン経営を語る」など、何冊か読んでいる。何を読んでも感じることだが、ゴーンの言葉や行動には一貫性がある。当たり前のようだけれども一貫性ってのを維持しつづけるのはかなり大変なことだ。彼の言動からは、矛盾を感じない。あらゆる判断や価値観が、一つの信念によって貫かれている。これはすごいことだと思う。

本書は、そんなゴーンの代表的な言葉を集約し、そこから経営、マネジメントなどのヒントを得ようという本だ。どの言葉も重く、そして深い。全部書き出すわけにはいけないので、1つだけとりあげておく。

正確な質問をすれば、正確な答えが返ってくる。あいまいな質問には、あいまいな答えしか返ってこない」具体的で正確な数値を知るには、「売れ行きはどうだ?」という抽象的な質問ではなく、「週にいくつ出荷している?」というように具体的に聞けば良い。
これは何も数字に関してのことではなく、さまざまな場面で応用できる。お客さんへのヒアリングだってそうだ。曖昧な質問からは曖昧な答えしか得られない。

カルロス・ゴーンの「答えは会社のなかにある」―会社を変えたリーダーの再生と復活の語録
カルロス・ゴーンの「答えは会社のなかにある」―会社を変えたリーダーの再生と復活の語録カルロス ゴーン 小宮 和行 Carlos Ghosn

あさ出版 2001-12
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おすすめ平均 star
starいわゆる語録です。
star学生こそ読むべき?
starゴーンのインタビュー語録

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2006/03/15 09:12

2006年03月10日

ウェブ進化論

ウェブ進化論』を読んでから、そこで展開されてた「あちら側」と「こちら側」というメタファがあまりにも的確だったので、ついついその視点で最近の業界動向を見てしまう癖がついてしまった。
でも、GoogleがWritelyを買収したというニュースなどを聞くと、やっぱりGoogleは「あちら側」にすべてを移していこうとしていることがリアルに思える。「事実上無限のストレージを提供」なんてことも現実味を帯びてきているようで、これはGoogleの「あちら側」への移行戦略のベースとなるものじゃないだろうか。

海のものとも山のものとも知れないが、ExcelもどきのNumblerやPowerPointっぽいThumbstacks.comといったサービスが続々と生まれつつある。こういったものがGoogleの超強力なインフラの上で実現されたら、今、パソコン上でやってることのほとんどは「あちら側」で済んでしまうかもしれない。

「こちら側」から「あちら側」へのシフトってのは、個人的にはかなりワクワクするものがある。インターネットのサービスがボクらの生活のさまざまなモノや事や仕組みを変革していったように、「あちら側」への移行もコンピューター業界やボクらの生活にとってかなり大きな変革の一つになるだろう。
こういう変革のまっただ中を体験できる時代に生まれてきて良かった。。。

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる
ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる梅田 望夫

筑摩書房 2006-02-07
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2006/03/10 19:41

2006年03月09日

東野圭吾「白夜行」と伊坂幸太郎「陽気なギャングが地球を回す」

どうも最近、小説はこの手の軽いものしか読めない。小説を読むことが、ほとんど時間つぶしや気晴らし以外のなにものでもなくなってしまってて、あまり重いものを受け付けられないカラダになってしまっているようだ。
東野圭吾は「容疑者Xの献身」だけでは、よくわからないので、TVドラマもやってるしということでミーハーまるだしで、「白夜行」も読んでみた。文庫本の解説で馳さんが書いてるように、主人公の内面が一切語られず、事件を基点として20年近い時を語るというのはすごい手腕だと思う。これには驚いた。しかも事件の最も重要なところはほとんど語られてもいない。主人公二人の事件の関与もまったくといっていいほど描写されていない。所謂「ミステリー小説」が差し出す謎のようなものさえもこの小説にはない。謎といえば、そもそもなぜ主人公たちがこのような人生を送るのか、二人の間にどのような盟約や絆が結ばれているのかというおよそ「ミステリー小説」らしからぬ謎があるだけだ。しかもこれらの謎はあくまでもこうだったのだろう、ということでしか解決しない。にもかかわらず、小説としてはすべてが納まるところに納まり、きちんとした決着がつける。このあたりは「謎」を仕掛けとしてしか考えられない多くのミステリー作家さん達には到底書けそうにもないだろう。

白夜行
白夜行東野 圭吾

集英社 2002-05
売り上げランキング : 8,253

おすすめ平均 star
star決して判りえない人間の心の闇の部分、
star凄いですね。
star圧倒的なボリュームの小説

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ついで、伊坂幸太郎も読んだ。大学時代の友人のD氏が伊坂幸太郎にはまってるということを聞いて、彼と話がしたいという理由だけで読んだ。
陽気なギャングが地球を回す
陽気なギャングが地球を回す伊坂 幸太郎

祥伝社 2003-02
売り上げランキング : 1,051

おすすめ平均 star
star最初から最後までトークが弾む
starいい感じの90分映画
star面白い小説

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伊坂幸太郎は軽快リズムと、ウィットに富む?会話などが特徴なんだろう。本作でもジャブの応酬というような感じで、彼のセンスが思う存分発揮されている。そして彼の最大の特徴はやはりなんといっても小説が映画的だということだろう。(これは小説の評価として喜ばしいものなのかどうかはわからないけれど)
本作もそのまますぐに映画化できそうなぐらいに映像的だ。前田哲さん監督で映画化されるようだけれども、個人的には石井克人さんか中野裕之さんあたりに監督してもらいたい素材だと思う。

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2006/03/09 01:03

2006年02月28日

上司のすごいしかけ

経営は悩みと課題の連続だと思う。この課題をクリアするために頑張ろうと突き進んで、その課題がおよそ解決できそうと思う頃には、また別の課題がわき出ている。そしてその課題は、元々課題だったものを解決したことによって起きているものだったりする。これがずっと続いてる。だからといって、それが嫌だというわけでもなく、課題の質は徐々に変わっていくし、より難しくなっていくので、さらに頑張らねばという気になる。
ボクはいつも課題にぶちあたってるときには、その課題に関係しそうな分野の本を片っ端から読んで、できそうなことやうまく行きそうなことをとりあえず試してみようと考える。もちろん失敗もかなりあるのだけれど、何もしないよりも少しでも前に進んだ気持ちになる。

上司の すごいしかけ
上司の すごいしかけ白潟 敏朗

中経出版 2006-03-01
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本屋で見かけて、ふと手にして、すぐ読めそうだなと思って購入したのだけれど、この本が意外と使えそうだ。うちの会社でもいくつか早速導入してみたいと思える仕掛けがあった。 とにかく簡単でシンプル。すぐ実践できるような技、仕掛けが紹介されている。 例えば、社員にロジカルシンキングを身につけさせる一番簡単な方法として、常に上司が「結論から先に言って」を言いつづける、ただそれだけ。確かにロジカルシンキングを身につけよう、って小難しい本を無理矢理社員に読ませるよりは、このようなシンプルな1点突破主義的な方法を徹底して繰り返す方がよっぽど効果があるだろうと思う。

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2006/02/28 08:52

2006年01月23日

東野 圭吾「容疑者Xの献身」

東野圭吾は実は読んだことがない。どうも今まで敬遠してきた。
ようやく直木賞をとったということもあるし、新幹線のなかで読む本もないし、ということで手にした。直木賞とか芥川賞とかっていういろいろある文学賞もそういう意味では価値があるのかもしれない。普通なら一生読まなかったかもしれない作家に触れさせるきっかけを与えてくれる。

容疑者Xの献身容疑者Xの献身
東野 圭吾


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他を読んだことがないので、これだけでなんとも言えないのだけど、いかにも読みやすい。文章にごつごつした感じがなく、すっと入っていける。赤川次郎っぽい。(というのは、別に貶してるわけではない)。「推理小説」が提供する謎解きとしては、かなりオーソドックスというか、たぶん推理小説をよく読む人だと中盤でトリックには目星がついてしまうかもしれない。
主人公への愛の深さだとか、タイトル通りの「献身」ってものは、序盤から終盤まではトリックの犠牲になってるような感じで、とりたてて訴えてくるものもないけれど、そのトリックが一気に明らかになるや濁流のように押し寄せて、読む人を深く感じ入らせる。トリック自体が主人公=石神の愛の表現になっているわけだ。この辺は小説の技という感じがして、作者も「どうだ」という感じなんではないか。

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2006/01/23 01:50

2006年01月14日

三浦 展「下流社会」と井上 尚登「T.R.Y」

連休もなかなかこれで忙しかったんである。仕事でもプライベートでも決めなきゃならないことや、やらなきゃいけないことが多くて気が滅入ってくる。
今週は東京だったが、結局、ホテルに帰っても朝方まで仕事の繰り返しで、かなり慢性的な寝不足。明日は土曜日だが、朝一で用事。そのあとは月曜日納品のための仕事... いつまでこんなのが続くのだ。

Amazonの書評でもさんざん叩かれてるけど、ビジネスを考える上では何かヒントになるようなものがあるのではないかと期待して「下流社会」を読んでみた。本書を読まなくても、消費の二極化なんて話は誰でも知ってることなのだが、おさらいの意味で最初のほうだけ囓っといてもいいかも。
ビジネスを考えるうえで、間もなく定年を迎えようとする団塊世代と、そして30~40代という最も家計支出が増える年齢に差し掛かった団塊ジュニアをどう捉えるか。
あとは調査結果をだらだら紹介してるだけで、確かにサンプルも少ない。かなり著者の偏見も混じってるのでカチンと来る人も多いだろう。

下流社会 新たな階層集団の出現
4334033210三浦 展

光文社 2005-09-20
売り上げランキング : 362

おすすめ平均star
star分析に疑問
starこれがベストセラーになるというのがすでに…
star作者は統計学、社会学を勉強した方がいい

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一方、忙しくなればなるほど、本を読む時間がなくなるので、そういうときは便所だとか、ちょっとした移動だとかでとにかく活字にふれたくなる。隙間時間はほぼ読書にあてて、東京出張の間の息抜きに読んだのがこれ。

T.R.Y.T.R.Y.
井上 尚登


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ボクは詐欺師の小説とかマンガは結構好きなのだ。騙し騙されに大どんでん返しと、決まり切ったパターンなのだけど惹かれてしまう。この手のストーリーのパターンは、騙してた人が実は騙されてて、と思ったら、さらにそれ自体も騙してて、みたいな入れ子構造になることがすごく多い。本書もそのパターンで、この手の小説が好きな人は、後半はこういうことなんだろうなぁと、そのネタに気づいてしまうだろう。史実のフィクションへの絡ませ方がうまい。でも文章はいまいち。だから町とか人とか時代が活き活きしない。勉強しましたー。勉強した知識をいっぱい盛り込みましたー。そんな感じが残ってしまう。

読んでてやたら映像的だなぁと思って、誰か映画化するんだろうなぁなんて考えてたら、とっくの昔に映画化されてたのね。大森一樹か。批評を見る限り、日本映画の一番ダメなパターンにはまったみたいなことらしいが。うまくやればかなり面白い映画になったのだろうに。それぐらいに映画向きの小説だ。著者はもしかしたら「映画」のことを考えてつくってんじゃないかと思うぐらいだ。最後のどんでん返しも、「羊たちの沈黙」ぐらいにうまくやれば、かなり映画でもはまるだろし。

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2006/01/14 02:53

2006年01月09日

岩井克人「会社はだれのものか」

会社はだれのものか
4582832709岩井 克人

平凡社 2005-06-25
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starカネよりも人間というけれど
star資本主義は果たして社会を幸せにできるか?
star会社は株主のものという原則を貫く大切さ

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遅ればせながら読んだ「会社はこれからどうなるのか」があまりにも面白かったので、すぐさま読んだ続編。

基本的には前作で提唱された考え方のおさらい的な意味合いが強く、後半は小林陽太郎さん、原丈二さん、糸井重里さんらとの対談となっていて、前作をさらに深めたものを期待していたボクとしては、少し肩透かしを食らった感じがした。

ただ、糸井重里さんとの対談のなかの最後のほうで、岩井さんが「私が伝統的な経済学を批判しても、経済学全体に大きなインパクトを与えることは望めません。ですから、「正しい」と思ってることをくどくてもいいから、何度も言い続け、それがほんとうに正しければ、徐々にインパクトが広がっていくであろうことを祈るしかない」と語ってて、ここでボクは、ここであぁなるほどなぁとこの本の意図を理解した。「会社はこれからどうなるのか」が売れ、その勢いを借りてそのまま続編を出せばある程度売れるだろうって算段で、とにかく体裁をととのえるために枚数を対談でごまかしてありあわせたんじゃないか。

読み進めながらそんな風に思っていたのだけれど、どうも違うようで、岩井さんとしては、ライブドア&ニッポン放送の問題が持ち上がり、市井の人々にまで会社は誰のものか、という話題が持ち上がるような状況だからこそ、自身が「正しい」と思えることを、もっと多くの人に知ってもらいたいという思いから本書を上梓したのだろう。

ロジックは同じなのだが、前作の紹介の際には、考え方ははしょったので、こちらで少し整理してみよう。

岩井さんのロジックは、そもそも「会社」という存在そのものの二重性に注目するところから始まる。今、叫ばれている「会社は株主のものなのか」というような議論や、昨今注目を浴びるようになった「コーポレート・ガバナンス」、あるいは「CSR」といったものすべてが、「会社」という存在の不思議さをしっかりと理解しなければ、間違った結論というか考え方に行き着くのだと警笛を鳴らす。

では、岩井さんが考える「会社」とはどういうものか。それは、一言で言うなら「モノでありヒトである」存在ということだ。ヒトとモノの関係というは近代の私的所有制度の根本をなす。ヒトはモノを所有する。モノはヒトに所有される。ヒトはヒトを所有できない。ヒトとはモノを所有しゅる主体であり、モノはヒトによって所有される客体だ。

近代のもっとも一般的な会社の1形態としての「株式会社」を例に考えてみよう。

株式会社の株主(ヒト)はその会社の資産(モノ)の所有者ではない。会社の資産(モノ)を支配しているのは「法人」なのだ。ここにヒトとモノの関係の捻れがある。「法人」を支配しているのは「株主」なので、「法人」には支配される客体としての「モノ」の性質があるのだが、その「法人」は会社を支配しているという意味で「ヒト」である。つまり「法人」はヒトでもあり、モノでもあるという二重性を持つ存在だということだ。(「法人」は法律上でも「ヒト」としての性質を持つ。なので、普通に「法人」は個人や会社からも訴えられるし、訴訟においては法人が原告になってたりする。確かに。)

まずこの二重性を持った構造が根本にある。
「会社は株主のものである」という株主主権論は、この「会社」という構造の「モノ」的な階層のみに焦点を合わせたものだ。会社資産を所有する主体としての「ヒト」的な側面を一切無視したロジックであり、ここには問題がある。ライブドアとニッポン放送の問題は、「会社」の二重性を理解していれば、何が問題になっているのが容易に理解出来る問題であったわけだ。

コーポレート・ガバナンスとは何か。これも会社の二重性によって説明がつく。

会社はヒト的な側面(=法人)を持っている。しかし法人は喋ることも、従業員に指示することも、顧客と契約することも出来ない。法人はあくまでも法制上認められた擬似的な「ヒト」である。だから「代表取締役」という存在が必要となる。つまり代表取締役とは、法人が現実のなかでヒトに代わって活躍するために会社から信任を受け、法人の代理人として法人のために働く存在なのだ。

しかし、代表取締役と会社の関係は言わば自己契約だ。法人は契約書の内容をチェックしたり、覆したりすることもできない。悪意を持てば、法人にとってどんな不利な契約でも代表取締役は結んでしまうことができる。本来、代表取締役は私利私欲よりも、法人の利益を目指さなければならない。しかし、自己契約である以上、経営者は自身の利益だけのために、法人をいかようにも利用できてしまう。エンロン事件を見てもわかるように、経営者が自身のことだけを考えれば、いとも簡単に会社はそれに使われてしまう。
経営者が法人からの信任に背くというのは、単なる倫理的な問題では済まされず、当然、会社法などでも罰せられることではあるのだが、しかし、法律ギリギリのところで、「倫理」をないがしろにする経営者も少なくはないはずだ。
だからこそ法人の代理人としての代表取締役には、「倫理的」な行動が求められることになる。これが「コーポレート・ガバナンス」という言葉の意味だ。
コーポレート・ガバナンスとは「大ざっぱにいえば、会社の望ましい経営のためには、経営者の行動をどのようにコントロールしていけばよいかという問題のことです。」
コーポレート・ガバナンスの説明で、これほど明快な説明をボクは知らない。

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2006/01/09 09:20

2006年01月07日

小倉昌男「経営学」

小倉昌男 経営学
4822241564小倉 昌男

日経BP社 1999-10
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おすすめ平均star
star経営の真実と戦略の本質を学べる一冊
starわかりやすくてよい。
starミスター ロジカル

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今まで読んでなかったことをかなり後悔した。ヤマト運輸の2代目社長小倉昌男が、どのようにして「宅急便」というサービスをつくりあげたかを語った本ではあるのだが、しかし、内容は単なる「成功譚」ではない。ここに詰まってるのは「企業戦略」のすべてだ。「戦略」を学びたければ、ポーターやコトラーを読む前に本書を読むべきかもしれない。マネージャークラスは必読書だろう。

そもそもヤマト運輸が「宅急便」を開始するまでは、一般家庭、個人をターゲットとした宅配事業は、絶対に赤字になると誰もが思っていたわけだ。個人相手の宅配は需要は偶発的でつかみずらいし、また集配してみるまでどこへ届けるかかわらない。郵便小包より料金は高くとれないとなると、どう贔屓目に見ても赤字にしかならない。誰もがそう考える。しかし、小倉さんは、個人向け宅配市場のデメリットだけでなく、一般家庭は値切らないことや、現金で払ってくれること、百貨店などの配送業務では繁忙期と閑散期の差が激しいが、個人宅配は一度サービスが成り立ち、そのネットワークを小荷物が流れ始めれば、時期による大きな波もなく、安定した収益を確保できるといったメリットをも勘案し、個人向け宅配事業への進出を決断する。「JALパック」をヒントに、無形サービスの「商品化」(=規格化、マニュアル化)を行い、個人というターゲットのニーズや特性を多方面から検証し、取次店制度や地帯別均一料金といった新機軸を次々を打ち出す。同時に、圧倒的な優位性や差別化を築くために、「翌日配送」を掲げ、それを実現するためのオペレーションを整えていく。

小倉さん自身は本書のなかで経営には「戦略的思考」が必要であると語る。
ある時は「シェア第一」「売上第一」と語り、決算が近づくと「利益第一」、その時々で「環境第一」や「安全第一」というようなころころと「第一」を変えては、スローガンを掲げているような経営者は戦術思考しかできていないと言い切る。

「第一を強調するには、第二を設定すれば良い」

単純だけど、これを徹底するのは極めて難しい。しかし、小倉さんは「宅急便」の事業をスタートさせる際は「サービスが先、利益は後」というスローガンを掲げ、それを徹底する。ヤマト運輸では宅急便事業が開始するまでは、毎月支店長を集め、各支店ごとの月次収支を基に実績検討会議というものが開かれていた。しかし宅急便事業を開始する際、会議の冒頭で小倉さんはこう宣言する。「これからは収支は議題としたないで、サービスレベルだけを問題にする」。

小倉さんはこんな事例で語ってる。「たとえば過疎地に集配のための営業所を作るとする。当然、家賃などの固定費をベースから荷物を移送する(横持ちする)ための車両経費が増える。人件費は所長一名分が増える。ドライバーの分は、集配の能率が上がる分だけ安くなるかもしれないが一応変わらないとしよう。総体的に経費は増える。一方で、過疎地の翌日配達が確実になるなど、サービスは飛躍的に向上する。」
さて、このような場合、どのような思考で判断するか?

普通ならば、プラス要素とマイナス要素を比較検討して差引きプラスならば営業所の新規設置の決断を下す、というような答えになるのではないだろうか。

しかし、小倉さんはこの考え方ははたして正解だろうかと疑問を投げかけるのだ。

「宅急便を始めた以上、荷物の密度がある線以上になれば黒字になり、ある線以下ならば赤字になる。したがって荷物の密度をできるだけ早く“濃く”するのは至上命令である。そのためにはサービスを向上して差別化を図らなければならない。コストが上がるから止める、というのはこの場合、考え方としておかしい。サービスとコストはトレードオフだが、両方の条件を比較検討して選択するという問題ではない。どちらを優先するかの判断の問題なのである。」

この例は、すべての業態においてあてはまるわけでは当然ない。重要なのは、個人向け宅配サービスという業態においては、荷物の密度、つまり配送ネットワーク内に流れる荷物量を最大化させることを何よりも優先させなければならず、そのためにはサービスを向上させる、ということをまず第一に据えなければならない。その背景と優先順位にのっとって、決断を下す、という、その一連の思考プロセスの一貫性なのだ。

業態が違えば「第一」とするもの「第二」とするものは変わるだろう。しかし、一番やってはならないことは、「第一」がころころと変わるような「戦術的レベル」の思考、決断だ。
「毎年、期の始めになると、売上高の目標は対前年10%と示され、絶対に目標を達成せよと厳命が下される。半期が終わり、売り上げはそこそこ目標に近づいたが、営業利益が目標より低いと、売り上げは多少足りなくなってもいいから、利益率の低い仕事はやめ、利益の目標は達成せよと指令が下りる。安全月間になるともちろん“安全第一”の号令が下る。製品クレームが来ると、品質第一で頑張れと命令が下る。(略) だが、“第二”がなく、“第一”ばかりあるということは、本当の第一がない、ということを表していないだろうか」

うーむ。経営に携わるものとしてはかなり身につまされる思いだ。
形こそ違えど、ボクがやってることなど、まさにここでダメな例としてあげられる社長像そのままではないか... このような戦術的思考に陥ってしまうというのは、そもそも「戦略」がないからだろう。いや、あると思っている「戦略」が「戦略」ではないということだろう。要は戦略レベルまで自社の「業態」がどういうものなのか、それにふさわしいハードウェア、ソフトウェア、ヒューマンウェアが何なのかとことを考えきれていないということなのだろう。

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2006/01/07 19:50

2006年01月06日

岩井克人「会社はこれからどうなるのか」

会社はこれからどうなるのか
4582829775岩井 克人

平凡社 2003-02
売り上げランキング : 4,681

おすすめ平均 star
star優れたミクロ分析
star「ほぼ日刊イトイ新聞」で知った
star非常にわかりやすい

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岩井克人さんが描き出す「証明」の美しさに驚いた。経営者やマネジメントに興味ある人は必読の一冊だろう。

会社とはそもそも何なのかという根本的な問いを、「ヒトとモノ」の関係から実に見事に解き明かすや、そこから株主主権型アメリカ的の会社システムの矛盾点や問題点を明らかにする。同時に終身雇用制度や、株式の持ち合いによる緩やかな連携、系列を重視するような日本型の企業システムが決して会社という本質から脱線しているものではないということを鮮やかに証明してみせる。まるで数学の証明問題を解くかのようにロジカルに展開されるので、反論がつけいる隙もないままに、納得させられてしまう。その証明過程はおそろしくスリリングで、刺激的だ。そして、岩井さんが単に曖昧な概念にはっきりとした輪郭を与えたり、「法人名目説」と「法人実在説」の狭間で繰り広げられる「法人論争」に決着をつけたりするといった、「現状の把握」に留まらず、そこから今後のポスト産業資本主義時代における企業のあり方や、理想の企業システム、会社形態といったものへの一通りの回答までをも用意する。

会社にとって重要なことは変わらない。それは「差異」を生み出すことだ。そしてポスト産業資本主義時代においては、「差異」を生み出すために最も重要な資産は人だ。「会社にとって中核となるコア・コンピタンスとは、個別の技術や製品ではなく、まさに差異性のある技術や製品を次々と生み出していくことのできる組織に固有の人的資産である」(P.263) ポスト産業主義において企業は「人的資産」に目を向け、それを守り、育て、育んでいかなければならないというわけだ。
組織デザインとしては、「中央集権的な階層組織ではなく、自由で独立した環境」や「指揮系統を水平化」や「外部の人間との知的交流を促す」ことや、「オフィスを居心地の良いものする」といった、ソフトインセンティブはもとより、ハードインセンティブ、つまり報酬面での制度も重要な役割を担う。この報酬制度として、ポスト産業資本主義的な企業に有効なのが「会社利益の一定割合を積み立てていく会社別年金制度や退職金制度、長期的なキャリアパスを明確に設計した昇進制度、さらには長期雇用者への暖簾分け制度」といった「地道なインセンティブ」ではないかと岩井さんは考える。人をやる気にさせ、長期的に企業に留まらせるためのシステムだ。そしてこのシステムは、実は戦後日本企業が採用してきたマネジメント手法に多くのヒントがある。

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2006/01/06 01:25

2006年01月04日

伊坂幸太郎「ラッシュライフ」

ラッシュライフ
4101250227伊坂 幸太郎

新潮社 2005-04
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おすすめ平均star
starエッシャー的小説
star無限ループからの脱出
star傑作

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正月もそろそろ終わりで、積み残してたり先延ばしにしてたことをやり始めるのだけれど、なかなか手につかず、ふらりと本屋に行って買ってきた本書を一気に読んだ。
巻頭のエッシャーのだまし絵と、5つの物語が並行して進んでいく構成から、ピンとくる人にはすぐにピンとくる仕掛けだ。謎解きを愉しむというよりは、どうこの物語を収斂させるのか、どこに「騙し絵」を入れているのか、そんなことを期待しながら読み進めよう。

物語の始まりでは、5つの物語が野良犬、エッシャー展、駅前に立ち道行く人たちに好きな言葉を書いてもらうガイジンなどを介在して、5つの物語が並行して静かに語られる。そしてそれら物語は登場人物達が口にする「リレー」という言葉に集約されるかのように、あるいはエッシャーの騙し絵を見るかのように、あるところで交錯し、循環を描く。こういう仕掛けだろうなということはわかりつつ読んでいながらも、怒濤のように繋がりを生み出し収束していく物語は、一度読み始めると、最後まで読み進めたくなる強力な引力を持っている。終盤に物語全体の「謎」を一気に明るみに出していくところは、キャラクタに大部分を語らせてすませてしまうなどかなり強引とも思える構成だし、ニヒルな登場人物達の「気の利いた」台詞はいかにも作り物めいてはいるのだけど、物語そのものの作り込みは良くできていて、充分に愉しめる小説に仕上がっていると思う。

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2006/01/04 13:23

2006年01月03日

首藤 瓜於「脳男」

脳男
脳男首藤 瓜於

講談社 2003-09
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おすすめ平均 star
star惹かれるものがあり購入したが
starなかなか
starさて、

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同居人が古本屋で仕入れてきた本。なかなか面白いよ、と薦められたので読んでみた。ボクは江戸川乱歩賞をあまり信じていなくて(かなり読んでいるが、どれもたいして面白くないし、仕掛けや構成の大胆さやみたいなところは面白くても、文章があまりにも稚拙な作品が多くという気がする)、あまり期待はしていなかった。が、期待していなかったこともあったのか、実際はかなり愉しめた。

連続爆弾犯として逮捕された鈴木一郎。男の精神鑑定を重ねるなか精神科医の鷲谷真梨子は、鈴木一郎には「感情」がないことを発見する。
ストーリーの展開に沿って、鈴木一郎の過去が明らかになるとともに、彼の人間離れした恐ろしい能力が次々と発揮されていく。一読するとそんな馬鹿なと思ってしまいそうだが、サヴァン症候群の例などを調べていると、あながち夢見物語りではないのではないのかもしれない。(鈴木一郎のキャラクタ設定は、サヴァン症候群の症例からつくられているだろう) ただ、あまりにもフィクションとしての突拍子もなさを科学的見地から打ち消そうという趣向が鼻につきすぎるきらいはあるのは否めないが。

本書には脳医学や精神科学的なタームや考え方があちこちに散らばっている。これらの考え方が最近の研究からまともな考え方なのかどうかというのは、素人の私にはまったくわからないのだけど、「感情」というものが自我を綜合する役割を持つという考え方を、ミステリーを成立させる装置として利用するというのは面白いなと思った。

「感情がない」とはどういうことか。
真梨子はこんな風に考える。

「たとえば、鈴木一郎は、異性を愛したことなど一度もないに違いなかった。好きな人が傍にきただけで胸がときめくということも、手に手を重ねられただけで胸のつかえがおり疲れが吹き飛ぶような経験をしたこともないだろう。人間はたえず感情の吐露をしあい、感情を共有しようとする。人生の大部分はそのことだけについやされるといってもいいくらいだ。それができないとしたら、気分転換もできなければ疲れを癒すこともできず、一瞬たりとも自我から解放されることがない。それは等身大の檻に一生閉じこめられているようなものだ。
しかしそれだけではない。感情がなければ、なにかを美しいと感じたり、神秘的な感情を抱いたりすることもできない。美しさや神秘感は、抽象的な思考ではなく肉感的な感情であるからだ。人間は世界を概念としてとらえている訳ではない。世界は美しいもの、神秘的なもの、荘厳なもの、あるいは卑俗なもの、喜劇的なものに対する感覚で充満している。だからこそ人間は世界に触れることができ、世界のなかに同胞たちと存在していると実感することができるのだ。抽象的な概念や数式では、世界を説明することはできても、世界を実感することはできない。」

また、同じように、
「大半の人間が、おれがおれでありつづけているのは感情などという低級なもののせいではなく、難解な思想や気高い信念をもつからこそだと思いたがるけど、思想も信念もただの言葉よ。言葉というのは他人のもので、わたしたちはそれを勝手気儘に剽窃してきてそれを組み立てたり壊したりしているにすぎない。いくらでも更新できるし、消去することもできるわ。その証拠に、思想や信念を変更しても自己はもとの自己でありつづける。それに反して感情は、気分や気持ちといったものだけど、途切れることがない。」とも語る。

そもそも自我がなぜ必要なのか、自我がどのようにして生まれるのかということについては、本書内でも真梨子は「よくわからない」という立場をとっている。が、生み出された自我を自我として成立させつづけるのは、他人からの借り物の言語(思想、信念)ではなく、「感情」なのではないかという発見。そしてその考え方がこの小説を貫く一つのテーマとなり、また「鈴木一郎」が「鈴木一郎」としての役割を演じることの大きな理由となっている。

ボクは「感情」の大部分も他人からの借り物なのではないかという気がしていて、ここで真梨子が語るような「神秘的な感情」や「美しさや神秘感」みたいなものは、むしろ後天的に学ばれるのではないかと考えている。つまりこれらの感情もある意味「言葉」によって成立してるのではなにかと。が、そういう言い方も安易なのだがプリミティブな感情みたいなものは確かにあって(動物には自我はないけど、感情はある)、それが自我をつなぎ止める何かしらの役割を担っているのではないかとも思う。

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2006/01/03 15:12

小川洋子「博士の愛した数式」

博士の愛した数式博士の愛した数式
小川 洋子


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今ごろになってこの小説を読んだのは、文庫本になっていたこともあるが、映画化が決定してしかもその主演が深津絵里だというのが大きい。深津絵里のファンである私は、深津絵里がどんな役所を演じるのかという興味からだけで本書を手にした。

小川洋子さんの名前はもちろん知っていて、ミーハーは私は芥川賞を受賞した「妊娠カレンダー」 も読んではいるのだけど、どうしてもそれ以降の作品を手にする気にはなれなかった。それはあまりにも彼女の作品が優等生すぎる感じがしたからだ。当時ボクはどちらかというと既存の文学を超える、あるいはポストモダンと呼ばれるような自分で自分の首を絞めるような文学に興味が先行していて、「伝統的な」文学のレールの上に乗っかかってるように思われる作品はどうしても魅力を感じなかったのだ。そういう文学は三島由紀夫までで充分だと思っていた。まったく若気の至りとしか言いようがない。
本書を読んで、正統な(という言い方も容易に文学の形而上学的な妄想を引き寄せるけど)文学の面白さというか、緻密に計算されて、綿密に練り込まれた小宇宙の素晴らしさを改めて味わうことができた。

随分と話題になった小説なので、粗筋などはたいていの人が知っているかとは思うので紹介はしない。この小説の魅力は粗筋などではないからだ。この小説の最大のの魅力は、その設定の巧さと数学という素材を介して登場人物達の交流や友情の芽生えを極めて自然に作り出すことに成功していることだ。

80分しか記憶が持たない元数学者である博士と、その家政婦として雇われることになったシングルマザー。そして、博士に「どんな数字でも嫌がらず自分の中にかくまってやる偉大な記号だ」と「ルート」という愛称を授けられる阪神タイガースを愛してやまない家政婦の息子。自然主義的な小説としてはいささか設定が劇画すぎてるきらいもあるのだが、小川洋子さんの淡々とした静かな文章がその過剰さをうまく包み込み、物語そのものは静謐な印象を漂わせる。この設定に博士を中心として「数学」が物語に重層感をもたらしていて、単に「数学」を小説を盛り上げるための意匠としてでなく、実に自然に溶け込んでいる。

例えば、家政婦の誕生日が2月20日だと知り、自身が大学時代にとった学長賞の賞品についた歴代No.284との関係を語るシーン。「~220の約数の和は284。284の約数の和は220。友愛数だ。滅多に存在しない組合せだよ。フェルマーだってデカルトだって一組づつしか見つけられなかった。神の計らいを受けた絆で結ばれ合った筋なんだ。美しいと思わないかい? 君の誕生日と、僕の手首に刻まれた数字が、これほど見事なチェーンでつながり合ってるなんて」家政婦はこの博士の言葉を反芻する。小説内には「愛情」や「友情」やといった言葉は一切出てこないが、こういった言葉では表現してしまうや否や陳腐に響く独特の気持ちの揺らぎみたいなものを「数学」を介在して実に巧く表現している。

小説内には3つの時間が交錯する。80分という限られた記憶しか保持できない博士を中心とした時間と、家政婦や息子が暮らす時間。そして1975年での博士の記憶。小説内の時間の流れはルートが好きな1992年の阪神タイガースの戦いを通じて描かれる。1975年で記憶が止まってしまった博士にとっての阪神タイガースは、江夏がいる阪神タイガースであり、家政婦とルートはその事実を悟られないよう細心の注意を払いながら博士と共に80分の交流をはぐくむ。そして博士の好きな江夏豊の背番号は28。自分以外の約数を全部足すとその数字となる完全数「28」を背負った大投手江夏豊。この演出、仕掛けの巧さに思わず舌を巻く。

「数学」を素材として主人公や登場人物たちの交流や感情を表現するとなれば、どうしても素材の料理の仕方に実験的な性格が付与してしまうところ、小川洋子さんはそれを実に自然に納めるべき場所に納め、そういう手法や仕掛けが、仕掛けとして目立ちすぎないよう充分に配慮して筆を進めている。とても素人には真似のできない(こんなものを真似したら大火傷しそうだ)技だ。

正直、映画化はかなり難しいんじゃないかと思う。「数学」によって語られる微妙な感情の揺らぎみたいなものは映像になってしまうと、あまりにもダイレクトすぎるんじゃないかという気もする。まぁボクとしては深津絵里がどんな風に家政婦を演じるのかだけが興味の対象なので、映画自体の出来はどうでも良いことなのだが...

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2006/01/03 13:26

2006年01月02日

ほぼ日手帳を買った理由

ここ最近はえらい手帳ブームのようだ。本屋のビジネス書コーナーに立ち寄るたびに、手帳の活用本が増えている気がする。手帳ブームの火付け役がGMOの熊谷さんなのか、誰なのかはよくわからない。ボク自身がフランクリンプランナーを使い出したのは2004年の5月からで、このきっかけは熊谷さんの本を読んだことや、同時期にボクがよく読んでいるブログのオーナーの方たちが自身の手帳活用について語ってたりしたことが重なって、随分前に読んだもののピンとこなかった「7つの習慣」を再読したことだった。以後、手帳は活用しつづけ、ずぼらなボクにしてはえらくきちんとファイリングしたり、索引をつけたりして2004年、2005年を終えた。
今年もフランクリンプランナーは使い続けるとは思うが、実は年末にもう1つ手帳を購入した。それが「ほぼ日刊イトイ新聞」から生まれた「ほぼ日手帳」だ。

ほぼ日手帳の秘密―10万人が使って、10万人がつくる手帳。
ほぼ日手帳の秘密―10万人が使って、10万人がつくる手帳。山田 浩子 ほぼ日刊イトイ新聞

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ロフトで皮仕様のものを購入した。なぜフランクリンがあるのにわざわざもう1冊手帳なんだと問われればよくわからないのだが、なぜかフランクリンには「日記」を書く気になれないというのがその理由かもしれない。日記というより「ログ」と言ったほうが近いのだろうけど、ボクは自分の活動とか行動の履歴みたいなものを残しておきたいという欲求がかなり昔からあるようなのだ。(と他人事のように書くのは自分でもその欲求がよくわからないからだ)

大学時代は、ちくまの文庫手帳を愛用していた。文庫本と同じサイズと厚みで持ち運びに便利なことで、手帳というより日記帳として利用していた。その日読んだ本や観た映画、麻雀の成績や、行ったところなどを走り書きしたりする。もちろん簡単なスケジュール帳としても利用するので普段から持ち歩いてて、ちょっとしたことをメモする。そうすると、「ログ」だけじゃなくて、祇園会館やスペースベンゲットなどの映画館のスケジュールをぴあから切り抜いて貼り付けたり、サークルの人たちの電話連絡表を貼り付けたり、大学の講義出席表をつけたりと、だんだんそこに「自分」を中心とした情報が集まってくる。すると、ますます手放せなくなる。これはかなり自己陶酔的な行為かもしれないけど、それが嬉しかったりする。その手帳さえあれば、自分のログと直近の予定ややりたいことが最小限分かるということが嬉しいのだ。

ところがフランクリンではどうしてもそういう使い方ができない、というよりする気にならない。どうも仕事に偏ってしまうし、日々の細かい雑事やら、自分の小さな興味やら関心やらといったものを記録するには、あまりにも大げさすぎる気がしてしまうのだ。ビジネス上のTODOを日々、あるいは月次で管理していったり、中長期的な目標から日々の活動へブレイクダウンしていくという、かなり高尚な?利用方法では威力を発揮するのだろうけれども、日々の生活なんてものは、その殆どは何か目的や目標に向かって進むための布石みたいなものとしてあるのではなく、何の目的も目標もなく、ただそれが愉しいからという理由だけで無意味に時間をつぶすことも多いだろう。フランクリン的思想ではそういうのは「無駄」なのかもしれないけど、ボクはそういうものを無駄なものとして切り捨てるなんてことがどうしても出来ない。

そういう記録を付けたいということであれば、日記帳を買えば良いじゃないかと言われるかもしれないけれど、これは日記帳ではやはりダメなのだ。日記帳を持ち歩いている30歳台の男性ってちょっと気持ち悪いし、日記みたいに書くことがそのまま内面の吐露とかにつながって、そのまま書くことが自己目的化していくような世界ってのと「ログを残す」ってのはやはり少しというかかなり違う。

で、同じようなことを本書のなかで糸井重里さんが語っている。

その日の予定や約束が書いてあって、個人の内面まで自由に書いてあったら、それはもう日記じゃないか、とも言えますね。実際、日記として豊かに使っている人たちもたくさんいる。
でも、じゃあ、手帳じゃなくて日記帳でいいのかというと、これがそうじゃないんですね。これは、はじめからそう考えてつくったというよりも、この手帳がどう使われているかというのを見ていくうちに発見した、あとづけの発明みたいなものなんですけども。
なにかというと、ほぼ日手帳というのは、日記のように使えるけれども、体裁上はあくまでも手帳なんですね。体裁だけじゃなく、実際に使う人は持ち歩くわけだし、ビジネスの場所でも開いたりするわけです。
 そうするとどうなるかというと、個人の部分を書きながらも、内面に耽溺しなくなるんです。
 日記つて、内面の深いところを記さなくてはいけないと、みんな思い込んでいる節があるんですよ。ほら、日記文学じゃないですけど。でも、それを持って歩くと思ったとたんに、内面をさらしすぎなくてすむんです。
 つまり、「なにかのときに人が見るかもしれないぞ」っていう、ちょっとした注意深さが自然に生まれるんです。そういうふうに書かれた日記というのは長すぎるし、少し冷静に綴られるぶんだけ、あとから自分でたのしく読み返すことがえきるんです。(略)
手帳に書いた自分の内面というのは、深さとしてちょうどいいんです。

「手帳に書いた自分の内面というのは、深さとしてちょうどいいんです」というところに随分と共感した。糸井さん自身「あとづけの発明」とは言ってるけど、その「あとづけの発明」をより強力なものにするために、2006年度版のほぼ日手帳はさらに強化され、ウェブサイトを見ているだけでワクワクしてしまった。で、ロフトに行って皮カバー版の2006年手帳を買ってしまった、というのが顛末だ。

さて、手帳のブームってのはやっぱりブログブームに連動しているのではないかという気がしてきた。ブログに火がつく前にも、個人ホームページで日記を書く人は多くいた。しかし、それが大きなムーブメントにならなかったのに、ブログがあっという間にブレイクしたのは、MovableTypeやらココログやらといった便利なブログホスティングサービスが登場したからだけでななく、「日記」というものが「書く」というところにとても重きを置いてしまう表現形態を容易に呼び寄せてしまう言葉なのに対して、「ブログ」という言葉からは、単なる「ログ」としての気楽さや冷静さみたいなものを連想させ、それが新たなブログの書き手を生み出していったからではないかとか。

じゃぁ、なぜ「深さとしてちょうどいい」内面をさらしたいという欲求はどこから生まれるのだろうか。そんなことはボクは全くわからないし、あまり考えたくもないのだけど、社会分析的には、「広告都市・東京―その誕生と死」で北田さんが分析したように、ポスト80年代以降の「見られていないかもしれない不安」という文化的なコンテクストの影響も大きいのかもしれない。(文化的なコンテクストが先なのか、それともコンテクトが発見されて初めて、そこに「在る」ように思えてしまったのか。文化人類学でも記号学でもそうなんだろうけど、やっぱりこういう学問ってのは、それがそこにあったかのように「発見」されるわけだけど、どうもそこに作り物的な形而上学主義を感じずにいられないんだなぁ)

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2006/01/02 22:06

奥泉光「モーダルな事象」

あけましておめでとうございます。
先ほど同居人は突如、「新潟に行ってくる」と言い残し出ていきました。
「なんで新潟?」と訊くと、「やっぱり人間は旅をしないと駄目だ」とわけのわからないことを答えるのみ。青春18切符で新潟へ行くそうです。私は年末にボードに行ったり、私事でいろいろな用事があったりして、今日久々に家に帰ってきてメールをチェックしたりしてるというわけです。

モーダルな事象
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新年一発目に読んだのは、本書と小川洋子の「博士の愛した数式」でやした。

桑幸やフォギーなど、奥泉作品を読んできた人ならピンとくる名前が登場し、「鳥類学者のファンタジア」や「バナールな現象」といった作品群とのメタ交錯があったりと、ある意味で本書「外」での愉しみもちりばめながら、正当なミステリーとしても成立させる力量はさすがだなぁと思う。諸前作を読んでいたほうが面白いには違いないが、もちろん本書から手にとっても充分に愉しめる一作だ。
桑幸を中心とした物語は大学に巣くう人たちの俗物ぶりや馬鹿さを嗤い、北川アキと諸橋倫敦の『夫婦刑事』を中心とした物語は本格的な謎解き、ミステリーとしての装いを軸とする。この二つの側面は奥泉さんお得意のもので安心して読める。そして笑える。

語り口は相変わらずの饒舌体だ。
確かに、千野帽子が指摘するように、彼のテクストは「芸術としての文学」が追い求めた語り手の擬似透明性とは対局に立って「神の視点」に立つ語り手の優位性を充分に発揮し、むしろ読者を小説内に入り込ませるのではなく、小説との一定距離を保てと言わんばかりに過剰な語りを続ける。

奥泉さんの小説を読むといつも思うのは、小説の語り口の面白さとは、決して「矛盾しない視点」であるとか、「透明な語り手」といったカルチャースクールなどの「小説教室」が教える規範や原則によって確保されるものではなく、むしろ三人称視点や一人称主観の視点がめまぐるしく交錯したり、語り手が登場人物の時間に割り込んだりという「運動」のなかに在るということだ。もちろんこういったレトリックは技巧としては決して新しいものではないのだろうけれど(奥泉さん自身も指摘しているがドフトエフスキーなども小説規則的なところから言えばむちゃくちゃなことを結構している)、自然主義的文体を志向とする文学界や文芸批評の抑圧が強い「純文学」のなかではとても新鮮に感じる。
(一方千野さんが指摘するように、エンターテイメント小説では、これらの語り口は、脈々と受け継がれてきたわけだけど)

もちろん奥泉さんはこれらのレトリックを風刺や批評としてのみ利用、採用しているのではなく、「物語」を面白く物語るための必要なレトリックとして戦略的に利用している。
「物語」にちりばめられたアトランティスのコインやらロンギヌス物質やらといったかなり大げさな装置や、また「夫婦刑事」があちこちに旅行しては謎に少しづつ迫っていくという本格ミステリーにはあまりにも紋切り型の手法は、奥泉さんの過剰な語り口によって吸収され、魅力的な「物語」として生成するのだ。


奥泉小説は単なるミステリーファンよりもどちらかというと、筒井康隆、後藤明生、小島信夫、阿部和重といったメタフィクションや語り口を意図的あるいは無意識的に操作するような作家が好きな人たちに向いてると言えるだろう。

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2006/01/02 17:07

2005年12月26日

ブランディング360°思考

セスの本を読んで、そういえば『ホリスティックマーケティング』やこの本にも同じようなことが書いてあったなぁと思い出した。

ブランディング360度思考
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ブランドで世界を覆う
アジア各国のブランディング事例が面白い

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「ホリスティック・コミュニケーション」は社内のデザイナー陣にもウケが良かったようで、自主的に勉強会なども開いてくれたりした。「ホリスティック・コミュニケーション」を面白いと感じたなら、この本も読んどいたほうがいいんじゃないかということで、随分前に読んだ本だけれど紹介しておくことにする。

実践的なブランディングアプローチ手法とその事例が紹介されている。特にアジアを中心とした事例は面白いし参考になる。
「ホリスティック・コミュニケーション」の勉強会でもそうだったけれども、「ホリスティック」というような抽象的な概念は、何かしらの定義や言葉よりも、近い事例をいくつも知っていくほうが、イメージはつきやすいのではないだろうか。
新しいブランディングのあり方やコミュニケーション活動みたいなものも、理論や考え方も大事だけど、やはり事例から学べることのほうが多い。その意味では本書は事例と理論のバランスも良くて「教科書」としては丁度良い。

本書で展開されている考え方もいわば「ホリスティック・コミュニケーション」と同じだ。本書では「360°ブランド・コミュニケーション」というような言葉が使われているが根っこはまったく同じだろう。たとえば、メディアプランの考え方。
「リーチ(延べ人数)やフリクエンシー(ヒット数)、原稿サイズやレスポンス率を忘れて、ブランドが消費者の暮らしのどんな場面、行動、態度に、どんな風に寄り添えるのかについて考え」(P.179)てみることだと提唱している。「ホリスティック・コミュニケーション」のなかで「クリエイティブこそがメディアになる」というような言葉がでてくるけれども、ここでも同じことが語られている。(オグルヴィでは「クリエイティブ」という言葉は「アイディア」という言葉で表現されている。)
そして、「ブランド管理とは、もはや(代理店から提案されたCMの)ストーリーボードにOKを出すことではなく、社会全体でのブランド体験を包括的に管理することである」(P.20)という言葉は、まさしく、「ホリスティック」だ。

しかし、「ブランド」というと、何かクソ難しい理論や概念のように思えるけれども、本書のベースはいたって単純だ。それはブランディングとはロイヤルティを築き、維持することであり、高いロイヤルティは「選好」をもたらし、売上につながる、という考え方だ。まったくもって当たり前のことだけれども、この基本から外れてしまったらどんなにすばらしいアイディアであっても、クリエイティブであっても何の意味もないだろう。

そして、「効果的なブランド体験を創り出すには顧客の「インボルブメント」を高めなければいけない(P.160)」
「真のインボルブメントとは、2つの重要な局面──インテンシティ(強烈さ、ブランド体験をより記憶に残るものにする)とインタープレイ(相互作用、様々な接点を利用して、ブランド体験全体を増幅する)──を強化して、を創り出すものだ。」(P.160)

「ホリスティック・コミュニケーション」のなかにも
消費者のコンタクト・ポイントに応じて、クリエイティブやメッセージ表現を微妙に変えて発信していく。こういう立体的な風景(ランドスケープ)づくりというものが、これからの情報装置としての広告に必要になってくるのではないでしょうか。(P.142 秋山)
「商品」自体が、まず、価値のメディアであるとも言えるわけだが、その価値を増幅するための情報環境づくりが、これからの広告や、マーケティングのテーマになってくる。(P.149)

というような表現がされていて、このあたりはセスの主張にも通じることだ。
結局のところ、企業活動すべてがマーケティングだということなのだ。商品そのものがマーケティングだし、その商品の認知をどのように獲得していくのかというだけでなく、どう消費者の生活のなかで接点を獲得していくのか、デザインしていくのか、すべてに「最適」が求められる。

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2005/12/26 00:40

オマケつき!マーケティング

セスの新作。少し前に買ってほったらかしにしてた。
内容は『パーミッションマーケティング』から『バイラルマーケティング』、そして『「紫の牛」を売れ』へと続く流れの延長線上に位置している。というか「紫の牛」という言葉を「オマケ」という言葉に言い換えただけのようにさえ思える。あいかわらず事例が豊富なので、この手の成功事例を仕入れたい人は読んでおいても損はないかもしれないが、内容は「紫の牛」を読めば充分と言える。

セスの主張は一貫している。パーミッションマーケティングでは、徹底してマスマーケティングの終焉と、パーミッション(許諾)をベースとしたマーケティングへのシフトを説き、その先に、クチコミというマスマーケティングの対局にあるような手法を示した。そしてそれらのベースには、商品やサービスそのものに驚きや、クチコミを誘発させるものが必要という考え方に行き着く。(一方で、セスは組織自体の活性化みたいなことを『セス・ゴーディンの生き残るだけなんてつまらない!―「ズーム」と進化がビジネスの未来を拓く』で語っていて、前にも書いたけれども、実はこの本がセスのなかではボク個人としては一番面白かったのだけれど)

ボク自身はマスマーケティングが不要になるとは到底思えないし、むしろマスが駄目だとか、バズが良いだとか、手法によってチャンネルの善し悪しを考えていくという、そのかんがえかたそのものが今の時代には危険だとは思ってはいるのだけれど、チャンネル最適化や接点管理といういわゆる生活者中心のマーケティングには、どうしても製品やサービスそのものへの視線が欠落しがちだ。商品の魅力を高めるという当たり前のことが、「パーミッションマーケティング」や「バズマーケティング」みたいなある種の偏ったタームのなかで捉えられると、すっかり忘れさられてしまう。「紫の牛」、本書と続けて、この部分について語ったは、そういう偏った考え方への警告の意味も含まれているのかもしれない。

オマケつき!マーケティング
オマケつき!マーケティングセス・ゴーディン 沢崎 冬日

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starなぜにこんなに翻訳者が変わるのか。

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2005/12/26 00:05

2005年12月25日

岡嶋二人「99%の誘拐」

「誘拐もの」で行けば、やっぱり天藤真の「大誘拐」の方が一枚も二枚も上手だと思うけれども、本書で描かれる「誘拐」も発想は大胆奇抜で面白い。ただ、その奇抜な発想を支えるためのディティールがどうもハイテク頼りになりすぎないかと。
昭和の大傑作小説「大誘拐」と較べるのもなんだけども、「大誘拐」の無茶さは許容できる無茶さなんだよなぁ。

99%の誘拐
99%の誘拐岡嶋 二人

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star岡嶋二人を再評価させる疾走感
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starちょっと期待はずれでした

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2005/12/25 18:54

2005年12月01日

いしいしんじ「ポーの話」

ブログの更新をしてなかったときにも、いつものと変わらぬペースで本は読んでいたのだけれど、これといって人に薦めたくなるような本もなかった。そんななかで、この小説はボクのなかでは飛び抜けて面白かった。

ポーの話
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いしいしんじは久々に登場した大型物語作家だと思う。

大江健三郎や中上健二に匹敵するぐらい芳醇な物語を紡ぎ出す力を持っている作家だと思ってんのはボクだけか。けど、文壇では大物扱いされてない気がする。

ぶらんこ乗り」を友達に薦められて読んで以来、意識的においかけてる作家なのだけど、本作は現時点でのいしいしんじプロデュースの物語の総括みたいな感じではないか。

簡単に要約できるような小説ではなく、むしろ要約されてしまえば何の意味ももたない、それでいてストーリーの力でぐいぐいとこの世界に引きずり込んでく力がある。ボクは小説にテーマだとか、メッセージだとか、そういう類のものを求めない。小説を読むことの愉しさ、読んでる時間の愉しさこそを重要視するんで、いしいしんじが小説のなかにちりばめる無数のへんてこなストーリーがどれもこれもツボにはまる。文庫本の「ぶらんこ乗り」の解説で誰かが言ってたけど、これだけへんな話をいっぱい思いつくぐらいだから、いしいしんじってのは大嘘つきにちがいない。ボクもそう思う。

ちなみに、「ポー」と聞くと、怪奇・推理小説の大家の方を思い浮かべてしまうが(ボクも手にするまで関係あるのかと思ってた)、こちらの「ポー」は「ウナギ女」に育てられ、泥の体積する川を愛する少年の愛称。あちらのポーとは関係ない。

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2005/12/01 00:54

小林恭二「モンスターフルーツの熟れる時」

ただいまアイドリングタイム。来週月曜日までに構成書をつくらにゃならんのだが、今週末は時間がとれそうにもないので、今へいこら作業中です。

モンスターフルーツの熟れる時
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star本家取り?
star昔した約束

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大学時代の友人が貸してくれた。

彼は、大学の頃から小林恭二のファンで、ボクが小林恭二の本を読んだのも彼の薦められたからだ。「電話男」や「ゼウスガーデン」など、デビュー当時の小林恭二は、なんとなく昭和軽薄体の路線を純文学テイストで仕上げたような作品を得意としてたけれども、本作は文体やレトリックは正当な(ある意味古くさい)純文学的な語り口を意図的に採用している。
渋谷区猿楽町を舞台にした連作小説。強烈な個性を持つ、現実離れしたキャラクター達が登場するが、その舞台を具体性で固めることで虚構性を中和させようということか。現実との照応感と強い虚構性が響き合って、浮世離れした不思議な世界をつくりあげることに成功しているなとは思う。が、物語そのものが貧弱じゃないか。もちろん小説=物語ではないが、この手の小説には物語そのものの力強さが求められるだろう。物語の引力によって個性の強いキャラクターが生きる。この小説は過去と現在、あるいは未来を横断していくがそれが行き当たりばっありにしか思えないところが物語の力の弱さみたいなものを露呈しているのではないか。
むしろボクは小林恭二らしくないところが気にくわない。

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2005/12/01 00:29

2005年11月30日

スティーブ・ジョブズ-偶像復活

発禁になりそうだったというのもわかる。全編にわたってスティーブ・ジョブズの馬鹿っぷりが満載だ。ここまで馬鹿扱いされりゃジョブズも黙っちゃいないのではないか。

どこまで本当なのかはわからんが、本書のなかのスティーブ・ジョブスは、我が侭だわ、勝手だわ、短気だわ、反省しないわ、大金持ちになってもどケチだわと、おそろしく傍若無人の無頼物だ。どう考えてもこんな人間が近くにいたら迷惑以外の何者でもない。

が、そんな大馬鹿野郎にもかかわらず、ジョブズには不思議な魅力があり、彼が言うと、本当になってしまうような気にさせる何かがある。その何かが彼を成功にも導き、そして破滅にも導いた。(復活したけど)

ジョブズのあまり語られない側面を知るというだけでも面白いし、コンピューターやテクノロジー史としても読めるだろう。
ジョブズが上司だったら愉しいだろうけど、大変だろうなぁ。

スティーブ・ジョブズ-偶像復活
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2005/11/30 18:45

2005年08月24日

なぜ、就業規則を変えると会社は儲かるのか?

これまた新幹線の中で読んだ本。実は今ちょーど社内のルールの見直し、改訂を行っているところだったので、タイトルに惹かれて買ってしまった。

なぜ、就業規則を変えると会社は儲かるのか?―ヒト・モノ・カネを最大に活かす6つのヒント
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休日は「法定休日」と「所定休日」にわかれる。
労働基準法では休みは「1週間に1日与えればいい」ということになっている。この1日が「法定休日」だ。「法定休日」の労働は、35%の割増賃金になるが、「所定休日」の労働は、通常の時間外労働となるので、25%の割増で済む。

休みには「休日」と「休暇」がある。「休日」はそもそも労働義務がない日だ。「休暇」とは本来労働義務があるけれども、会社のほうでその労働義務を免除する日を指す。就業規則では「休日」と「休暇」をしっかり使い分けておく必要がある。「休暇」はそもそも労働義務がある日なので、その日に休まずに出勤した場合でも、労働義務が免除されなかっただけなので「休日出勤」にならないわけだ。
「年末年始休暇」や「夏期休暇」などがそうで、これらは「休日」ではなく「休暇」にしておかなければならない。

なんてちょっとした労務の基礎知識を説くと、悪く言うと経営者がルールの盲点をついて、従業員を搾取するみたいな、感じで受け取られてしまうかもしれない。

もちろんこの本は、そういうことを書いている本ではない。就業規則をきちんと整備することで、最終的には社員のモチベーションを向上させ、売上をアップさせていくということを目的としている。

しかし、それにもやはり段階がある。まずは「リスク管理」という面だ。どうしても人数が増えてくれば、人間関係でやっかい事が増える。会社にとってはリスクが大きい人材だってくるだろう。就業規則は、まずそういう事態に対して、会社としてどのようなリスクヘッジがとれるかというところからスタートする。
「休日」「休暇」の問題でいくと、ここを曖昧にしていると下手すると「休日」の多い社員のほうが、少ない社員より賞与配分が多くなってしまうなんていう頓珍漢なことが発生したりする可能性もある。

現実の働き方と就業規則がまったく即してないというのも「リスク」だ。こういうったところをまず解消していきましょうというのが最初。
これをクリアしたら、会社の理念やポリシーを強化していく、従業員のモチベーション向上につながるような制度を盛り込んでいける。
本書であげられているのは「裁量労働制」や「リフレッシュ休暇」「誕生日休暇」などなどだが、問題は、それらの制度ではなく、その制度の考え方が共有されているかどうか。就業規則なんて堅苦しい言葉でルールだけを書くものかと思っていたけど、そんな必要はなく、わかりやすい言葉で、その制度が存在する理由は、理念みたいなものも説明したって構わない。むしろ説明しなければならない。きちんとそういう背景みたいなものも文章化し、明文化するからこそ共有できる。

この考え方は、就業規則のつくりなおしを行ううえでとても参考になった。入社直後に少し読むだけで、後はそんなものがあるということさえも殆ど意識されない形だけの就業規則。現実とのズレにびくびくしながら、労働基準法違反をどうかいくぐるかという視点だけでつくりこまれた就業規則。そんな就業規則ではなく、真の意味で会社の重要なルールが定められ、誰もがそれらのルールや背景を理解できるもの。そういう就業規則をつくらなければならない。

内容自体は「目からウロコ」というような類のものではないけれども、この前読んだ『「儲かる仕組み」をつくりなさい』でもそうだったけれども、何かしらの目的達成のためにルールを敷くというのは一つのマネジメントと捉えなければならない。であれば、会社と従業員の間のルールとして最も根本的なものは就業規則であり、ここを蔑ろにしているということはそもそもマネジメントしてないとも言える。そこを明確にすることで、会社が発展するということはおそらくありえることだろうと思う。

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2005/08/24 09:29

2005年08月20日

「儲かる仕組み」をつくりなさい

木曜日東京で、日帰りのつもりが帰れなくなった。もう東京に家はないのでホテルなのだが、日帰りのつもりだったので下着を持ってきてなくて購入した。こういうことを繰り返しているせいで、家には下着だではものすごい充実度だ。3週間ぐらい洗濯しなくても大丈夫なぐらいにストックがある。自慢できることでもないが。

「儲かる仕組み」をつくりなさい----落ちこぼれ企業が「勝ち残る」ために
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あまりにもありがちなタイトルだったので迷ったけれど、株式会社武蔵野の小山さんが書いてるってこともあったし、新幹線のなかで読む本がなかったので買ってみた。帰りの新幹線で読んで、買って良かったと思った。

タイトルからは神田的な営業やダイレクトマーケティング手法が中心と思われるかもしれないが、内容はまったく違う。「人」を中心として捉えて、どうやって「人」を教育していくか、その「仕組み」をつくるためのルールや考え方に焦点が合わせられている。それは、小山社長が「ヒト・モノ・カネ」のなかで企業にとって一番重要なのは「ヒト」だという信念を持っていて、ヒトを教育して成長させられなければ、企業の発展、存続はない、という考え方を背景としている。
この考え方が基本、うちの会社の考え方と同じなので、ここで説かれているさまざまな「仕組み」、その考え方の大部分はうちの会社にも応用できるものではないかと思う。

なるほど!と思うアイディアやヒントが詰まった本書から、特に昨今うちで問題になっている「人依存」(標準化できない/スタープレイヤーに頼ってしまう)の問題を解決するための仕組みをいくつかピックアップしてみる。

例えば、武蔵野では、課長職以上の職責者は年に1度、月末から月初にかけて9日間の連続した有給休暇をとらなければならないというルールが設けられている。そしてこの休んでいる9日間は、家でメールを読んだりすることは許されているが、返信してはいけないことになっている。つまり家でも仕事はしてはならない。

月末、月初というあえて忙しい時期に無理矢理に休まなくてはいけないルールを設けることで、当人たちは自分がいなくても業務を回していけるように日頃から部下を教育する。もちろん当人が休んでいる間に何か業務に滞りが起きれば、その本人の評価に直接響くことになっている。こうなると嫌がうえでも業務の標準化を進める、マニュアルをつくるといったことを心がけるようになるそうだ。

普通なら、そんな忙しくて大事なときに、優秀な人間、上の人間が休んでてどうするんだ!?ということになるだろうが、考え方を変えれば、業務の標準化や引き継ぎ、情報の共有みたいなものを、こういう制度や考え方を敷くことで徹底させることができるわけだ。

しかも、これと同じような発想で、組織全体のスクラップ&ビルドも行ってしまう。そう、大規模な人事異動を意図的にやってしまうということ。

武蔵では2005年3月に全社員の30%が配置換えになるような大規模な人事異動を11年ぶりに行ったそうだ。「一斉に異動して混乱させることで、知っているつもり、やっているつもりという惰性を払拭し、新たな体験をさせるためです。これだけの大異動となると、社員も大慌てで引き継ぎをします。営業担当になった者は改めてお客様のところに挨拶に行きます。これが新たな体験となります。」(P.131)

武蔵では、大きな異動を行うたびに業績が上向くそうだ。
これも面白い発想だと思う。あえて大規模に組織をいじることで、組織の活性化を促していく。

また、なんと武蔵は社員が300人を超えるのに、経理担当はたった二人。しかも二年おきに交代らしい。これも同じ発想で、次の人に引き継ぐことを意識させることが狙いだ。これが小山社長の言うところの「仕組み」だ。業務のマニュアル化をしろ、引き継ぎできるようにしておけ、と口でいくら言っても、人間は怠け者だし、切羽つまらなければなかなか、後の人のために何かをするなんてことに時間を割けない。武蔵では人事異動や強制休暇という環境を与えることで、実践していく。

小山社長の考え方は実にシンプルだけれど利に叶っている。
他にも、「個人専用の机をなくせば業務の標準化が進む」というようなアイディアも、うちの発想にはなかったものだ。

一方、社員を経営に参加させる仕組みというのもとても参考になる。これもうちの大きなテーマの一つだ。

社員を経営に参加させる仕組みとして、武蔵では「クレーム対応チーム」「環境整備チーム」「安全運転推進チーム」など、11のチームがある。チームメンバーは各事業部から部門横断的に集められ、リーダーは立候補で決まっている。日産のクロスファンクショナルチームにも似ている。最近、うちでも始めた制度だ。うちでも始めた制度だけに、この運営の仕方はそのまま真似られるのだろう。

各チームは月1回あらかじめ決められた日に集まって活動する。定期的に三チームづつ、最高決定機関である「経営品質向上委員会」で活動経過や改善状況を発表しなくてはならない。この発表もごまかしが利かないようにチームメンバーのなかの一般社員が発表しなければならない、というルールになっている。

チームは半年ごとに解散してメンバーを入れ替える。自分の上司のいないチームに行くのを基本とするが、強制的に「賞与評価でCとDを取った社員は同じチームにいてはいけない」ということになっている。

チームはまず、実行計画を作成するミーティングを開く。
チームでは上下で発言の差がでないように、案を出す場合には、アイディアを付箋に書き出して貼るようにする。口頭だとどうしても職責の高いものの意見が通ってしまうからだそうな。そして、寄せられた提案は3つぐらいに集約され、最終的な決定は多数決ではなく、全員一致で決める。単純に、「全員が合意するまで帰られない」というルールを敷くことで嫌々でも「全員一致」とする。「全員一致」とすることで、改善計画はスムーズに行くのだそうだ。なるほど。

本書を読んで痛烈に感じたことは、「勉強しろ」や「情報共有しろ」「マニュアルをつくれ」とか、「引き継ぎをしろ」なんてかけ声は、ただかけ声を繰り返していれば良いのではなく、それらをやらざるをえなくなるようなトリガーを仕組みとして用意してやらなければならないのだ、ということだ。そして、それを用意できるのはマネジメント、しかもトップマネジメントの役割なのだということ。少し身につまされる思いだ。うちの会社だとどちらかというと「根性で頑張る」的発想が中心になるし、やはり「掛け声」が中心だ。ではなく、強制でも強要でも、それが社員にとっても大きなメリットとなりえるものなら、きっちりと「仕組み」化しなければならない。

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2005/08/20 17:25

2005年07月20日

梨木香歩「西の魔女が死んだ」

西の魔女が死んだ
4101253323梨木 香歩

新潮社 2001-07
売り上げランキング : 979

おすすめ平均 star
star本で感じる自分の成長
star感想文を書きたくなった本。
star癒されました。

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西の魔女ことおばあちゃんが魔女になるための「意志の力」のつけかたをまいに説く場面。
すべての物事に通じる一つの真実。日常の些細なことから自分で決めて自分で実行していくという習慣をつけていくことが「意志の力」につながるとおばあちゃんは言う。同意。

P.70
「~悪魔を防ぐためにも、魔女になるためにも、いちばん大切なのは、意志の力。自分で決める力、自分で決めたことをやり遂げる力です。」

「自分で朝起きる時間から寝る時間まで決めてごらんなさい。そして、それをきちんと紙に書いて壁に張って」

P.73
「ありがたいことに、生まれつき意志の力が弱くても、少しずつ強くなれますよ。少しずつ、長い時間をかけて、だんだんに強くしていけばね。生まれつき、体力のあまりない人でも、そうやって体力をつけていくようにね。最初は何にも変わらないように思います。そしてだんだんに疑いの心や、怠け心、あきらめ、投げやりな気持ちが出てきます。それに打ち勝って、ただ黙々と続けるのです。そうして、もう永久になにも変わらないんじゃないかと思われるころ、ようやく、以前の自分とは違う自分を発見するような出来事が起こるでしょう。そしてもまた、地道な努力を続ける、退屈な日々の連続で、また、ある日突然、今までの自分とは更に違う自分を見ることになる、それの繰り返しです。」

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2005/07/20 22:42

2005年07月13日

禁煙セラピーで禁煙成功?

久しぶりの更新だ。なんとタバコをやめた。といっても禁煙開始からまだ1週間ちょいだが。今のところ吸いたい気分も起きない。

きっかけは、トミーズの雅や月亭八方が禁煙に成功したということを知ったこと。なにやら「禁煙セラピー」なる本を読んで止められたらしい。

別に禁煙する気などまったくなかったのだけど、トミーズ雅があまりにも力説するので、どんな本だと気になり、早速購入してしまった。

禁煙セラピー―読むだけで絶対やめられる
4845405059アレン カー Allen Carr 阪本 章子

ロングセラーズ 1996-05
売り上げランキング : 22

おすすめ平均 star
starとにかく、素直によめばやめられるね
starやめました。
star絶対おすすめです

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まずこの本は単純なアタマになって読んだほうがいい。あまり深く考えず、思いっきり著者に洗脳されないといけない。言わば、洗脳本なのだ。喫煙、タバコ中毒ってものの洗脳を解く本なのだけど、解くと同時に禁煙の楽しさや喫煙の不自由さを語ることの逆洗脳をかけてくれる。ボクは禁煙法などの本をこれまで読んだことがないので、他の本がどうなのかはよくわからないのだけれど、洗脳される気で読めば、かなりの確率で実際禁煙できてしまうのではないかと思う。よくできた本だと思う。

まず著者自身が超ヘビースモーカーであり、何度も何度も禁煙には失敗してきたということが語られる。神田系手法と同じ。自分も失敗した、だめだった、と読者と同じ視点に立つ。そして成功したのは能力や実力などではなく、たまたま他の多くの人が気づいてなかったあることに気づけたからだ...というようなロジックを展開させる。神田系マーケティング本とほぼ同じ構成だ。なるほどな。人はこういう構成に弱いのだ。

著者はタバコの中毒性ってのは、そんなに強いものではない、といことを力説する。
ここがポイントなのだ。肉体的な中毒性はそれこそ3日もあれば抜ける(2週間あれば完璧に抜ける)。問題は精神的な部分での中毒性。ここを力説することで、タバコをやめるときに「身体が欲していてどうしようもない」という言い訳が利かないようにされているわけだ。そして、精神的な中毒がどのように起きているのか、どのように洗脳されているのか、精神的な部分でタバコを求めるというのがどういうことなのかということが語られていく。なーんだ、ボクらは洗脳を受けていたのかー!と気づかされるわけだ。洗脳を解くには、洗脳のカラクリを知ることが重要。本書ではタバコが精神的なよりどころになってしまう洗脳過程をいろいろな事例から解き明かす。そして、実は、洗脳を解くプロセスそのものが、洗脳するタイミングには一番よかったりするわけで、このタイミングで「タバコのない生活」がいかに快適か、すばらしいかということの洗脳を開始するわけだ。

著者はタバコを吸ってることのマイナス側面よりも、タバコをやめたときのメリットを多く語っている。「喫煙」というつらい状態、時期を捉えるのではなく、タバコから解放された世界、生活を語るのだ。
そして読者自身に具体的なメリットを何度も考えさせる。これによってそのメリットがどんどん魅力的に思えてくるのだ。

確かにタバコをやめると良いことが多い。東京などは外ではほとんどタバコが吸えない状況で、会社からお得意先までいく間はもちろん、お得意先でも吸えない。吸えない状態が何時間も続いて、後半には吸えないことに苛立ちを覚える。タバコを止めるとこんな苛立ちはなくなる。

お客さんと飲みに行って、前に座った方がタバコを吸わない人だと、タバコを吸うのは気がひける。煙が相手にかからないかどうか冷や冷やしながら、タバコを吸わなきゃならい。そんなこともなくなる。夜中にタバコが切れて、タバコが置いてるコンビニを探しもとめて彷徨うなんてこともなくなる。

実は、タバコを吸うためにイライラしたり、窮屈な思いをしていることも多い。喫煙者自身に考えさせることで、タバコを吸わないこともなかなか良いものだなと思わせる。喫煙者自身がそのメリットを享受することの喜びを感じられれば、ニコチンの精神的依存からの脱却も遠くはない。このあたりに禁煙が成功するかどうかがかかっているのだ。

もちろん、そんなメリットより、タバコが与えてくれる安心感やリフレッシュ、気分転換、暇つぶし、みたいな要素を重要視するということも選択肢の一つだろうし、ボクは喫煙を否定はしない。今も止めてるけど、またいずれ吸う可能性だって否定できないし。

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2005/07/13 09:02

2005年05月16日

私の嫌いな10の言葉

金曜日から東京出張。今回は火曜日まで東京なので週末を久しぶりに東京で過ごすことになった。土曜日は会社。今日は友達の誕生日ということでお祝いに。

書籍類は何冊かは京都にも持ってきているが、大部分は東京の家に置いたままにしている。
東京に何日かいるときにはうれしくなって、京都では読めない本を片っ端から読む。すでに読んだことがある本は、ぱらぱらめくって読みたいところを流し読む。
今回は、中島義道の本を何冊か読み返していた。

中島義道の本は好んで読んでいる。彼の偏執狂的な思考や言葉への拘りや、社会、世界への立ち回り方すべてが理解できるわけでもないし、理解したいとも思わないが、少なくとも彼の書くものを読むことで、自分が知らずうちにマジョリティの立場を利用して、マイノリティを蔑んでいることを理解する。自身の言動や態度の方向修正をするのに、彼の本の過激さ(といってもそれほど過激でもないけど)は有用な処方箋なのだ。

本書はそんな中島義道の本のなかでも比較的わかりやすく穏やかな本だろう。
彼自身が大嫌いな言葉を10個ピックアップして、それぞれの言葉が持つ恐ろしさや、その言葉が成り立つ気持ち悪い思想や背景、その言葉を語る人々が善意と信じてはいるがその実は恐ろしく悪意ある思想を解き明かしてくれる。

私の嫌いな10の言葉
4101467226中島 義道

新潮社 2003-02
売り上げランキング : 21,472

おすすめ平均
star私も嫌いな10の言葉
starこれは買い
starキレイな暴力?

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中島義道は変な人だ。その変な人さ加減というのは徹底している。
よく「個性的でありたい」「他の人と同じじゃ嫌」なんてことを言う人がいるけれども、そういう人たちの発言はたいてい個性的であることや、他の人と同じじゃないことのつらさを直視したものではない。都合の良いときは「みんなしている」というような乱暴な理由を用意してたりする。

しかし、中島義道はまちがいなく「個性的」であり、そして「個性的」であることがどれほど今の日本で生き難いことかということを経験を持って知り尽くしている。「個性的」である人に対して向けられる様々な言葉の暴力に恐るべき感受性を持って立ち向かう。

相手の気持ちを考えろよ!

この言葉を彼は虫酸が走るほど嫌だと言う。
その理由を、この言葉が前提とする世界が、都合の良いときだけ相手の気持ちを大事にしていて、実はこの言葉が突きつける過酷な要求というものを想定していないからだと語る。

相手の気持ちを考えるならいじめる者の「楽しさ」も考えなければならない。暴走族に睡眠を妨害される者は相手の気持ちを考えるのなら、暴走族の「愉快さ」も考えなければならない。わが子が誘拐されて殺害された者、妻を目の前で強姦されたあげく殺された者が、相手の気持ちを「考える」とはどういうことか?
(略)
相手の気持ちを考えろとは、これほど過酷な要求なのです。
(略)
往々にして「相手の気持ちを考えろ」という叫び声はマイノリティ(少数派)の信条や感受性を潰しマジョリティ(多数派)の信条や感受性を擁護する機能をもってしまう。それで社会的には一つの有効な機能を果たしているとも言えますが、少なくともこう語る人は、暴力的な側面をもつことを意識してこの言葉を発する必要があります。

もちろん、「たいていの人は」「普通の人は」そうしてもらえればうれしい、楽しいなんてことはあるわけだけれど、こういった乱暴の言葉は、中島が言うような「マジョリティの信条や感受性」には目を瞑ってしまうという恐ろしさがある。

キリスト教的な思想では汝は自身に施して欲しいことを隣人に施せ、となるが、これはいわば第二次自己中心主義だと岸田秀も語っている。自分が徹底的に全知全能で他人のことをまったく何も考えない幼児が第一次自己中心主義だとするなら、「相手の気持ちを考えろ」というのも、実は自己中心的な世界観の延長でしかない。

他人が自分と同じことがうれしいとどうして言えるのか。
自分が施して欲しいことが必ずしも他人にもあてはまるとは言えない。
たとえば、みんなといることが楽しい人には、独りのほうが気楽な人の気持ちがわからなかったりする。あいつも寂しいだろうから呼んであげろよ、という余計なお節介が持ち込まれたりすることは屡々ある。ボク自身こうした第二次自己中心主義の被害者になったことは何度もあるし、また加害者になったこともある。

中島義道や岸田秀やらを読むようになってから、ボクは可能な限り、こういう安易に他人の立場を尊重するような言葉を発しないように注意してはいるつもりだ。そういう言葉を発してしまう時でも、それがいかに自分に都合のよい方便として使ってしまっているかということを考えるようにはしている。
が、しかし、それでもふとした折には、マジョリティの立場や主義を前提として物事を考えてしまっていたり、ものを語っていたりする。気をつけてどうにかなるものではないが、この手の感受性が鈍ってしまうことは恐ろしいことだと思う。

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2005/05/16 01:08

2005年04月25日

三崎亜記「となり町戦争」

となり町戦争
三崎 亜記

集英社 2004-12
売り上げランキング : 1,235

おすすめ平均
傑作です! あらゆる人に読んでほしい
誰にでもお勧めできますが・・
だれもがうすうす感じていたのに

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今年最大の話題作なんて騒がれている?ようだけれども、正直そんなに面白いとも思えなかった。丁寧に書かれていて、非常によくできた小説だとは思うけれど、それだけだ。驚きや発見はボクにはなかった。

ボクは小説は、小説とう形式上、その読んでいる時間や、読む体験を通じて、簡単な言葉ではまとめられないような「問題」を用意するものだと思っていて、決して「解答」を導き出すものではないと思っている。小説が一言の「解答」で済まされるならそれは小説でなくても良いのではないか。
誰が読んでも同じような感想にしか吐き得ないような「解答」を用意している小説ってのは陳腐だと思う。

島田雅彦は「未確認尾行物体」で「エイズ」そのものを小説にしたのだけれど、文庫本のあとがきの浅田彰の解説のほうがよっぽど面白くて、エイズを知るなら解説を読めば済むなんてことを誰かに言われていた。本書もそれと同じようなものだ。本書はたしかに「現代の戦争」や「戦争とリアリティ」みたいなものを描いていて、それなりには成功しているのだとは思うけれども、それならばチョムスキーを読めば充分な気がする。

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2005/04/25 01:19

2005年04月02日

大森荘蔵「時間と自我」

大森荘蔵の「時間と自我」を読み続けている。なかなか読み終わらないのは、よくわからなくて何度も何度も読み返しつつだからだ。

時間の性質といのは物理学的な時間からはいくら遡及してもわからないだろう。点の集合は決して時間にはならないし、時間は物理学の法則上だけに存在しているものではない。ボクらは普通に「今」なんて言うけれどもこの「今」にはもちろん空間や場所がしっかりと結びついている。大森さんは、時間の原初的な性質みたいなものを探ることで、時間とは何か、という問いに少しでも近づこうとしている。

保坂和志の「季節の記憶」という小説のなかで、幼い息子が主人公のパパに「時間って何?」という質問を投げかけ、パパが悩みながら説明する場面があった。手元に本がないのでうろ覚えだけれども、パパは確か時間を空間的な広がりを持った概念として絵で説明していたと思う。ある点がもやもやとどんどん広がっていってすべてがそれに飲み込まれていくようなイメージだったのではないか。ベルクソンも時間を物理的な時間と空間的な時間とに分けて語っているけれども、このパパが考える時間は明らかに後者の空間的な時間だろう。

この小説のなかでパパはクイちゃんに積極的に言葉を覚えてもらいたくない、というような態度をとる。言葉を覚えることによって、混沌とした世界そのものが整理される。それによってクイちゃんが見ている世界が平凡で単純化された世界になることをパパは嫌うのだ。その態度や考え方と、この時間の説明は結びついている。パパは(保坂さん)はおそらくすでに当たり前のものとして受け止められてしまっている物理学的なリニアな時間を疑っているということだろう。クイちゃんにはまだ時間の概念がない。時間を単純に時計のメタファで点の集合による以前から今、そして未来へとつがなるような直線的なも霧消のとして説明することは簡単だれども、そういう規定の概念に支配されることで、クイちゃんが今、接している原初的な時間(それはすでに「時間」ではないのだろうけど)は霧消してしまうだろう。

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2005/04/02 21:31

2005年02月21日

ポストモダンマーケティング

Axela生活も1週間が経ったわけですが、今日700kmを超えた。
来週は1,000km点検だなぁ。今日はなぜか淡路島にいってタコを食って帰ってきた。
行きは明石大橋帰りはフェリー。2年間海外を放浪してたSとも会えて、なかなか面白い1日でやした。

ポストモダン・マーケティング―「顧客志向」は捨ててしまえ!
スティーブン・ブラウン

ダイヤモンド社 2005-01
売り上げランキング : 116

おすすめ平均
異性の口説き方を考えてみると。。。
この世でもっとも不足しているものは『不足』である!
マーケティングに答えは無い。

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タイトルに惹かれて買った本。マーケティングまで「ポストモダン」か。著者のスティーブン・ブラウンはハーバードビジネスレビュー誌上でコトラーと論争などして有名。ドラッカーやレビット、コトラーといったマーケティンググルをからかい、捻くり、あざ笑う「異端者」だ。

内容はたいしたものとは思えない。「『顧客志向』は捨ててしまえ!」というサブタイトルがついているが、ブラウンが言ってるのは「他人と違うことをせよ」ということにつきるからだ。全員が顧客志向を唱えるなら、「顧客志向」を捨ててしまえというわけだ。
しかし、登場するさまざまな事例やトリビア、そして人を小馬鹿にしたような皮肉たっぷりの文章、レトリックは今までのお堅いマーケティング書とは明らかに違う。要はこの本自体が他と「違う」という意味で、彼の唱えるマーケティング論を具現化しているのだ。

ブラウンはマーケティングの目的を「消費者にモノを売ることです。それ以上でもそれ以下でもありえません。」(P.66)と言い切り、顧客志向というのはその手段の一つだけれども、顧客を無視したり、否定したり、拒んだりすることも有効だとする。つまり「顧客志向」が溢れ変えってるなら、「顧客志向」を捨ててしまうこともマーケティング目的を達する戦略の一つになりえるのだというわけだ。

「誰もが例外なく顧客第一主義を主張し顧客を甘やかすことでは一致団結している世界で、競合優位をどうやって達成することができるのでしょうか、そしてもっと重要なことは、それをどうやって維持することができるのでしょうか?」(P.2)

ブラウンはSTP(セグメント/ターゲティング/ポジショニング)や3C、4Pといったマーケティングの概念に変わる戦略としてTEASEを提唱する。(「TEASE」という言葉自体が「からかう」なのだけど)

TEASEとは、Trick(トリック)、Exclusivity(限定)、Amplification(増幅)、Secrecy(秘密)、Entertainment(娯楽)という言葉の頭文字を繋げたもの。マーケティングに必要なのは「顧客志向」ではなく、この5つだと言う。

トリック
真実を誇張した仕掛けで売る。
「トリック」の例としては今世紀最大の発明などと商品が明らかになる前に大量のパブリシティを生み出した「ジンジャー」の事例などがある。

限定
希少価値の戦略。まぁ「限定」するってのは古くからある手法だ。旧大阪球場前のスーツ屋は何十年間「店じまいセール、本日限り」をやり続けていた。
「希少性」をコントロールすることで大成功をおさめたのはダイヤモンドのデビアスだろう。ダイヤモンドは別に希少性の高いものでもない。地球のどこでも手に入る。デビアスはほんの10年前までダイアモンドの市場を事実上独占することによって、希少性を人工的に作り出してきたわけだ。「誰もが所有するようになれば、繁栄の終わりは近くなります」(P.129)は真実だろう。

増幅
ウワサになっていることをウワサにして売る。これまた古典的な手法だ。
過激な広告で物議を醸し出し、それによって大量のパブを獲得するベネトン。
「ピカソの名前を悪用したかどでフランス芸術体制派の怒りを買い、そのことが大きく宣伝されたおかげで一万台もの予約注文を受けた」(P.160)シトロエンの「ピカソ」。

秘密
そのまま。人々は「秘密」が好き。「秘密」で誘惑して人々に追い掛けさせようということ。ケンタッキーフライドチキンでお馴染みカーネルサンダース。秘密の材料の秘密は、秘密の材料が存在しなかったこと。KFCの「真の」秘密は、カーネル・サンダースが最高のショーマンであ」(P.183)ったことのようだ。秘密は不思議を誘い、不思議は誘惑を促進する。

娯楽
「想像を超えた驚きと変化の素早さで売る」
ラスヴェガスなんてその象徴みたいなところだろう。しかし、世の中にはエンターテイメントがありふれてるわけで、そのなかでさらに一枚上のエンターテイメントじゃなきゃならない。マドンナが事例としてとりあげられている。その過激さや過激さで増幅を勝ち取っていく功名さ、そして何よりもコロコロと時代にあわせて変わっていく節操のなさ。ここで書かれてることが本当ならマドンナってのはかなりのやり手だ。

最後に、「ハリーポッター」を昨今の事例のなかで最高のトリックスターとして分析している。「ハリーポッター」TEASEのすべてを兼ね備えている。本が手に入りにくい環境をつくりだしたり、トップシークレットのはずの発売前の本が「不可抗力」でウォルマートで販売され、それを購入した子供が「奇跡的にも」世界中のマスコミに発見・追跡され...と、このあたりの事例を著者は、明らかに「秘密」をつくりだそうとする、そしてそれを「増幅」させようとするハリーポッターマーケティングであり、意図的に生み出され、コントロールされているという立場にたっている。大袈裟に宣伝されるのを嫌っているという著者のJ・K・ローリングのウワサはマスコミにとりあげられ、それ自体が大きな宣伝にもなっていたり。

本書で言われてることを否定するわけではない。顧客志向を捨てよう、という過激な煽り自体が、「増幅」の役割を担っているのだろうし、「秘密」でもあるのだろう。ただ、この本をそのまま鵜呑みにするのもどうだろう(ってそんな奴はいないか)。取り上げられている事例はかなり偏ってるし、極端すぎるものが多い。でも、一旦立ち止まって「顧客志向」を疑ってみることは必要だろう。差別化や競争優位の戦略を「顧客志向」を強化していくという馬鹿の一つ覚えみたいな方法しか持ち得ないようなら、それはそれでかなり問題だろう。

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2005/02/21 01:00

2005年02月11日

マツダはなぜ、よみがえったのか?

水曜日の晩、帰宅後すぐに熱が出始める。と同時に激しい吐き気、目眩。

夜中は高熱にうなされ続け、結局、5回ほど吐く。胃の中のものが全部出た後も吐き気は止まらず、結局木曜日は会社にいけず。当然、納車予定だったアクセラもお預け。

木曜日中も高熱と吐き気が続く。体温計は39度、38度台をふらふら。トイレに行くにも立ち上がるのも辛く、何も食わず水だけを飲んでただひたすら寝ている。

同居人からは「必ず病院にいくように」といわれていたのだが、こんな状態で病院に行けるわけもない。同居人帰宅後、見かねて救急病院へ連絡をとり、つれてってくれた。
当初は食中毒かと思っていたのだけれど、そういうわけでもなくどうやら風邪。解熱剤やら吐き気止めやらの処方を受けて、一晩寝たらえらくすっきりしてた。熱は平熱になり、吐き気もおさまっている。薬ってすごいなとちょっと関心した。いちおう手元にあった市販の解熱剤やら風邪薬みたいなものは飲んでいたのだけど、木曜日はまったく効かなかったのに。病院にもいっとくものだなぁ。

まる1日何も食べていなかったのと、ひたすら寝ていたということもあり、足元がちとふらふらする。うどんを食べるが、まだ胃が受け付けず、仕方ないのでバナナで腹を満たす。
病み上がりながら、アクセラをとりにいくことを決意。そのままディーラーへ。手続きを済ませて乗って帰ってきた。体調がよければそのままドライブだが、まだ万全とは言えないので今日はとりあえずお預けだ。

マツダはなぜ、よみがえったのか?
宮本 喜一

日経BP社 2004-11-18
売り上げランキング : 1,767

おすすめ平均
マツダ・ロータリーが好きな方におすすめです
Zoom- Zoom
クルマに詳しくない人にこそ読んで欲しい

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たぶんアクセラを買わなきゃ読みもしなかっただろう。
JCBのOkiDokiポイントがかなり貯まってて、BK1で消化。そのうちの1冊。

日産の復活劇ばかりが注目を浴びるがしかし、その影に隠れて実は青色吐息であったマツダはフォードの支援を受けつつ、確実に再生の道を進んでいる。本書はそんなマツダ復活劇を支えた経営陣と現場の葛藤と良い意味でのぶつかり合いを描いたドキュメンタリー本だ。大半はマツダ復活のシンボルともなったRX-8誕生までを描いたもので、RX-8開発過程を通じての現場と経営陣の攻防などが描かれる。後半は、フォードの経営陣が参画してからの復活のシナリオを財務体質改善、ブランド再構築、経営改革という3ステップで語っている。
RX-8は4シーター4ドアのスポーツカーという他に例を見ないクルマだけれども、これが生み出されたのは売れるクルマをつくれ、と号令するフォードから送り込まれた経営者と、ロータリーエンジン搭載のスポーツカーをつくりたいという熱い現場が正面からぶつかりあって昇華したものだったのですな。小型化可能であるというロータリーの最大メリットを充分に生かしつつ、2ドア2シーターのただのスポーツカーでは「売れない」と判断し、あくまでも4ドア4シーターの開発に拘った経営陣。
マーケットイン発想の経営陣とプロダクトアウト発想の開発陣。どちら一方だけが重要というわけでは決してなく、マーケットインとプロダクトアウトの両方がぶつかり合い、融合するところで、ブレークスルーが生まれるのだろう。RX-8はその良いお手本なのかもしれない。

マツダ復活シナリオを策定したフォードではあるが、しかしフォードは逆に今つらい立場にある。米国内でのシェア低下、ヨーロッパ市場展開も思惑通りに進んでいない模様で、グループ内でのマツダの地位はかなり高まっているだろう。なにせフォードグループ内2リッタークラスの主要エンジンはマツダのエンジン(MZR)なのだし。

徳大寺有恒はマツダがあまり好きではないようで、「間違いだらけのクルマ選び (05年冬版)」では、マツダはフォードの「安売り車」ポジションの戦略に組み込まれてるんだ、みたいなことが書かれてあった。
まぁ確かにまだマツダって安売り、値引率がすごいみたいなイメージはあるけども、単純にフォードグループ内の「安売り車」かどうかは、ちと違うんじゃないのかなぁと思う。

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2005/02/11 20:45

2005年02月06日

税金を払う人、もらう人

アクセラは明日納車できるってことだったけど、明日は東京だった。
今週は月~水まで東京の予定だったけれども、火曜日に京都で緊急の打ち合わせが入ったので、一旦火曜日に京都に戻り、水曜日にまた東京に行くというとても効率の悪い週になる。じゃぁ火曜日にクルマをとりに行くかと思ってたら、火曜日はディーラーが休み。ということで結局、木曜日までお預けとなった。金曜日ボード行くんかいね。いきなり新車でボードってのも嫌だなぁ。汚れるし。いろいろ調べてるとアクセラってタイヤのクリアランスが少ないから合うチェーンが少なさそう。スタッドレス履いてるから大丈夫だろうけど、年末はスタッドレスでも雪につかまって身動きとれなくなって、JAFに助けてもらうという失態を演じてるだけに、念のためチェーンも用意しておきたいのだが....

さて、久々に本を紹介。今村さんから頂いたこちらの本。

税金を払う人、もらう人―えっ!あなたは、どっち?
今村 仁

アスカ・エフ・プロダクツ 2005-01
売り上げランキング : 3,241

おすすめ平均
とてもわかりやすい本ですね。
すっきりしました
税金を払う人が立ち上がるべきに共感

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今村さんには独立される前からいろいろお世話になっている。今村さんの年齢を聞いたときの驚きは今も忘れない。自分より老けてる人に出会うこともめったにないので驚きよりも嬉しさのほうが先だったりしたけれど。

本書は今村さんのデビュー作。正直、大きな期待はしていなかった。(今村さんごめんなさい) でも、読んでびっくり。面白い。税金のカラクリやおかしい点、日本政府の思惑みたいなものをとてもわかりやすく説明してくれている。たとえ話もわかりやすい。あるときは市井の人々の納得を促し、政府への憤りを煽ったと思えば、別のところでは、合法的に税金の制度をもっとうまく活用する方法をこそっと教えてくれたり。会社経営に関わっている身としては税金については多分普通の人よりはいろいろと考えさせられることが多いわけだけれども、本書を読んでさらに一個人としても、日本国民としても税金についてもっと目を向けないとならないと考えさせられた。

ちなみに、今村さんは、マンション業界にも風穴を開けようと、「マンションってどうよ?」というサイトも運営されている。こちらは、マンション購入の情報格差の是正や流通の改革を目指した活動。マンション購入を検討されている方は覗いてみよう。

さて、ボクはかなりのヘビースモーカーなんだけれども、最近のJRの仕打ちにはどうかなぁと感じる。喫煙所が小さくなっていくのは世の常で仕方ないけれども、駅のそんな端にまで追い遣らなくていいんじゃないのと思うことが多々ある。京都駅の喫煙所は車両がとまる位置から随分と離れたホームの端っこにぽつんと置かれている。いくらなんでもそんな隅じゃなくても... 喫煙者の迷惑を考えるなら分煙所つくってくれりゃいいのに。(ドアの開き閉めのときに煙が外部に漏れるいから嫌だという話もあるかもしれないけど)
旧国鉄時代の借金って、タバコ特別税で返済してんじゃないのかい。それを考えるとJRの仕打ちってのは喫煙者にとっては納得できない仕打ちだ。

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2005/02/06 16:15

2004年12月06日

「性格」というのものはあるのか?

ボクは血液型などの性格診断はあまり信じていない。
性格診断みたいなものをあまり信じないのは、それを信じても自身に有利にならないということもあるが、一番大きいのは岸田秀に影響を受けたからだろう。

岸田秀は中学生から高校にかけてもっとも熱心に読んだ心理学者だ。中学の時に誰が買ったのかはわからないが家にあった「ものぐさ精神分析」を手にした。筒井ファンだったボクは、筒井の影響でユングやフロイトも齧りかけていた頃だったのだけれど、「ものぐさ」にはハンマーで頭を殴られるぐらいの衝撃を受けた。

彼に出会わなければ、フロイトもレインもニーチェも読んでなかっただろう。(と、暗にこういうものが好きだと主張しているのだけど)
哲学や心理学の扉を開いてくれたのは、彼の著書に出会ったことが大きい。彼の書くものはかなり極端なので、全面的にすべて受け入れているわけでもないけれども、ロジックの明快さと、わかりやすさ、何よりもその視点、立ち位置が面白い。

さて、岸田さんの代表作「続・ものぐさ精神分析」のなかに「性格について」というとても面白い分析がある。「性格」についての彼の考え方も、彼がずっと唱え続けている「唯幻想論」が土台になっている。結論から言えば、岸田さんは「性格」なんていうものが、ある人に固有の特性や特質として何かしらの実体として備わっているようなものではないと語る。

岸田さんは「性格とは当人の内側にあるものではない」と言い、こんな譬え話を持ってくる。

AとBとの二人の人間がいる場合、Aが気がひけてとてもできないようなことをBは平気でやれるということはある。そういう場合を見て、Aは、自分は気が弱いがBは気が強いと判断するのであろうが、逆の場合、すなわち、Bが気がひけてとてもできないようなことをAは平気でやれるという場合もあるのである。この場合、Aは自分が平気でやれることなので、別に「気の強い」ふるまいとは思わず、当たり前の普通のことをしているという気持ちしかなく、その同じことを、Bもやりたかったのだが、気がひけてがまんしたという事実は、Bの心のなかのことだから、Aには見えず、したがって、この後者のような場合がいくらあっても、Aの「自分は気が弱いが、Bは気が強い」という判断は変わらない。逆に、Bには後者のような場合は見えるが、前者のような場合は見えないから、Bもまた「自分は気が弱いが、Aは気が強い」と思っていることであろう。AとBとがたがいに相手を自分と同じように「気が弱い」と思っている場合があるとすれば、それは、Aが気がひけてできないことと、Bが気がひけてできないことが共通している場合にかぎられる。

(中略)

AとBとの人間関係が、AとBとの関係のなかでのAの性格とBの性格とを規定する。したがって、BにとってのAの性格と、CにとってのAの性格とは異なっている。もし、両者が似通っているとすれば、それは、AとBとの人間関係と、AとCとの人間関係が、たとえばA、B、Cの三者が同じ集団に属しているなどの理由から、似通っているからにほかならない。誰にとっても同じであるような、そして、もし異なった見方をする者がいればその者を理解が浅いとか、誤解をしているとか決めつけることができるような、普遍妥当なAの性格なるものは存在しない。したがって、「客観的に」性格を検査しようとするあらゆる性格テストは無意味である。

血液型による性格診断などで「気が弱い」と書かれていたとする。
これは実は誰にでも当てはまってしまう。なぜなら「気が弱い」という性質を「他の人に気を遣って自分の言いたいことが充分言えない、やりたことが充分やれない」というものだと考えるとき、逆に「他の人びとに全然気を遣わずに、自分の言いたいことはすべて言い、やりたいことはすべてやるという人がいるわけない」からだ(そんな人がいたら社会的に抹殺されているだろうと、岸田は言う)。つまり「あなたは気が弱い」と言われれば、たいていの人は心の裡では「そうだ」と思ってしまう。

「あなたは気が弱い」といわれたときに、「絶対に違う」と言い切れる人は、おそらく周りから「気が強い」ということを言われてきて、そういった外的評価をセルフイメージとして消化している人だろう。

ここでとりあげた話はさすがに少し極端すぎるところはあると思う。

例えば、ボクは猫を飼っているが、その猫の振る舞いや態度は明らかに今までボクが接してきた他の猫とは違っていて、それはその猫の「性格」というやつではないかと思う。岸田さんに言わせれば、それは性格ではなく本能に直結した「特性」なんてことを言うかもしれないし、飼い主側が猫にそういう性格を投影しているのだと言うかもしれない。でも、やはり性格のすべてが相手との関係で決定されるというのは、少し無理があるとは思う。人間の赤ちゃんでも自我が芽生え始める頃には明らかに一人一人違いがある。それは性格というものに起因している。すべて外部環境や他者によって規定されているとはどうしても思えない。

とは思いつつも、ボクは概ね岸田さんの考え方を受け入れる。

性格とか気質みたいなものが人間の特性としてまったくないとは思えないけど、しかし、それだけがすべてではない。むしろ岸田さんが言うように、実は大部分が他人との関係や、その関係を通じて共有された認識やら、そういったものによっていかにも類型的な性格があるように見えてしまうのではないか。

性格を何かしらのタイプでわけたり、分類したりすることが悪いことではない。岸田さんのように考えなければならないというものではなく、岸田さんは単に視座を提供しているにすぎない。しかしその視座を得られるとき、人や事物にたいしての接し方、考え方のは、ただ類型的な性格に基づいて人を判断するよりもずっと大きなものを得られる可能性がある。そこが重要だろう。「彼は気が弱い」とか「自分は気が強い」「怒りっぽい」と考える前に、その視点をずらしてみる。自身ではまったく気づいていないが、他者にとって自分の行動がとてつもなく大胆な行動に映っているものもあるかもしれない。逆に、ボクが気づいてないだけで「気が強い」と決め付けていたある人は、内心では自身のことを「気弱」だと考えているかもしれない。こんな風に考える視点を得られるだけで充分だと思う。

岸田さんのテクストは、安易に「客観的な性格」みたいなものを基準としてしまうような思考のあり方そのものを疑ってみよ、という警笛みたいなものとして受け入れるのが良いのではないか。たとえ岸田さんのテクストが本当だとしても、ボクらは人それぞれの多様性を多様性のままに受け入れることには耐えられない。「性格」というものがあたかも存在するものかのように扱い、類型化したくなるのは、そうしないと不具合があるからだろう。あの人の性格は温厚だ、とかあいつは怒りっぽいとか、そういう性格判断を行っておくこと、コミュニティの共同幻想としておくことが、「人づきあい」の潤滑油みたいに作用しているのだろう。

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2004/12/06 00:08

2004年12月04日

続・初めてのPerl - Perlオブジェクト、リファレンス、モジュール

久々にPerlをやってみることにした。
7、8年まともに書いたこと覚えがない。
創業当時はプログラムを書く人がいなかったということもあったし、個人的な興味もあったので、自分で1から書くってことも少なくはなかったけれども、いつしかまったくやらなくなった。

もう一度やってみようと思ったのは、「SPIDERING HACKS」や「BLOG HACKS」などのHACKSシリーズを手にしたからだ。
乗ってるサンプルコードをきちんと理解したいし、ちょっと手を入れたい。MTのプラグインも書いてみたい。あと、何かしらのテキスト処理なんかはPerl使えば随分楽になったりする。
たとえば、何百ページもあるサイトのTITLEやパンくず、Metaタグなんかは、別にテキストデータでこれらのリストをつくっておいて、最後に一気に入れ込んでしまったほうがミスは少ない。今は、VBSなんかでつくってもらったスクリプトで処理してたりするけど、僕はVBSがよくわからないので、改良するのも大変だ。Perlのほうが手を入れやすい。テキスト操作、処理はすぐれてるし、HTMLパーサ系のモジュールも豊富にそろってるから、サイトのデータを直接拾ってきてごにょごにょやるというにも楽だろうし。

しかし、なんかえらく進化してるなぁと。モジュール関連の充実度はすごい。

当時はモジュールなんて使うことはほとんどなかったんで、このあたりの知識はまったくない。ということで...
さっそく「続・初めてのPerl - Perlオブジェクト、リファレンス、モジュール」を購入。
効率が悪いことは百も承知で頭からとりあえず読む。いきなりようわからんことだらけだ。
8年の遅れを取り戻したし!

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2004/12/04 23:10

2004年11月29日

奥田英朗「東京物語」

今日、東京に移動するつもりだったけど、あまりにも頭痛がひどいのでやめて家でごろごろしてた。

奥田英朗の「東京物語」を読んだ。少し懐かしい気持ちになった。1978~1989年までのある1日を舞台にした6編のシリーズ短編のようなものだけど、舞台になっている1日がその時代を象徴するような事件や話題の日になっている。なのでその時代を生きていた人ならたいていその時何をしていたか覚えてたりして、ボクも小説を通じてその日のことをいくつか思い出した。 中野翠や清水義範に影響受けたたというようなことを著者自身が語っていたけど、確かにこの小説にはその匂いがした。

一人ノスタルジーに浸り、10年前の日記を読み返した。10年前の今日は、「中上健次『19歳の地図』、坂口安吾全集5、『信長』おもろい。みなみ会館『勝手にしやがれ』『気狂いピエロ』」とだけ書いてあった。ようわからんけど、多分本読んで映画観た日なのだろう。

夕方に北大路に蕎麦を食いにいく。うまい蕎麦屋があるのだ。体調が悪いときは蕎麦。消化悪いんだけど、蕎麦なら食える。しかし途中で吐きそうになって、最後まで食いきれなかった。親父に申し訳ない。

夕方から会計士さんに借りた大前研一の「続・企業参謀」をつらつら読む。大前研一ってやっぱり大天才だ。かなり古い本だけれども、決して古臭さは感じない。むしろ新鮮に思えた。

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2004/11/29 00:40

2004年11月27日

最近読んだ小説など

最近はすっかり池波正太郎にはまっています。いやぁ面白いです。「鬼平犯科帳」がまさかこんなに面白いとは思いませんでした。これは傑作ハードボイルドです。1つ1つの話をとりだしても十分に面白いのですが、シリーズを通しても一つの世界がつくられていて、読み進めれば読み進めるほどに面白くなってきます。

あと、大西巨人の「神聖喜劇」。こちらは遅遅として進みませんが、読むことが一つの精神鍛錬だと思って読んでます(面白くないという意味ではないです)。

しかし、最近はあまり小説を読んでないです。昔、読んで面白かったものは適当に読み返してますが、特に新人の作品についていってない。海外はほとんどまったくといっていいほど手付かず状態で、やばいなぁと感じてます(何がやばいのかはわからないですが)。

数ヶ月ぐらい小説を紹介してないので、今日は最近半年ぐらいで読んだ小説を紹介します。

  • 吉村 萬壱「ハリガネムシ
    • デビュー作の「クチュクチュバーン」にはやられましたけど、芥川賞受賞作の本作も面白いです。主
    • 人公の行動や思想に少しづつ歪みが生じてくるのに、語り口はおそろしく覚めていて、そのギャップに「痛み」や「苦しみ」が滲み出てくるんでしょうか。途中で気持ち悪くなりました。

  • 伊坂幸太郎「重力ピエロ
    • 舞城ほど壊れてはないけど、この人もミステリーというようなジャンルで括られるのは、どうかなぁと思います。村上春樹がある意味「ミステリー作家」であるというような意味では彼もミステリー作家なのかもしれないですが。本格ミステリーを期待してると肩透かしを食らいます。テンポの良さと文章の品の良さはものすごく優等生的ですが、それが嫌味でもない。力量なんでしょう。彼は「ストーリー」がなくても、読ませる力がある作家だと思います。

  • 五十嵐 貴久「フェイク
    • あまり面白くなかったです。この手の小説は読んでる時間がいかに愉しいかということしか興味がないのですが、読み終わった後に後悔しました。最後まで読ませる力量はあるけど仕掛けの練り方があまりにも杜撰だと思います。最後は噴飯モノです。

  • 矢作俊彦「THE WRONG GOODBYE ロング・グッドバイ
    • 矢作ファンにはたまらん一作です。矢作俊彦は最も尊敬する作家の一人。彼の書くものはだいたいは読んでますが、新作でまさか二村が出てくるとは思いませんでした。タイトルからして、彼の本領発揮(といっても矢作さんほど多様なスタイルを持っている作家も少ないとは思いますけど)か?と期待させるわけですが、期待に違わぬ大傑作でした。

  • 村上春樹「アフターダーク
    • mixiの日記では紹介しましたが、日記を潰してしまったのでこちらへ。多分、飛躍のための助走みたいなものだと思います。軽妙な会話(重い話を軽い比喩で、軽い話を重い比喩で)とリズム、ノスタルジーみたいなものが好きな村上春樹ファンにとっては失望の一作かもしれないです。(村上春樹はそういう作家ではないとは思うけど。)

  • 羽田圭介黒冷水
    • 構成はすごく凝っていて、読み終わった後に仕込まれていた隠し絵がわかるようになったりするわけですが、そんなものは正直どうでもいいです。話自体、普通に面白いわけですが、やはりそのままでは終わらせられないんだろうなぁと。そこが悲しい。「ストーリー」にどうしても乗っかからざるをえず、且つそのストーリーも壊さざるをえない。このあたりを「若さ」と見るか、小説というスタイルへの志向性の一つと見るか。

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2004/11/27 13:41

2004年11月20日

知りたい操作がすぐわかる標準Word2003全機能Bible―WindowsXP対応

知りたい操作がすぐわかる標準Word2003全機能Bible―WindowsXP対応
西上原 裕明

技術評論社
2003-12
売り上げランキング 53,445

おすすめ平均 
唯一の「全機能」解説書
本当にかゆい所に手が届く感じがします

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最近、すっかりWORDにはまってしまった。ついこないだ買った「Wordで実践!編集レイアウトの基本と本格テクニック」では物足りなくなり、同じ著者の「全機能」解説本を買ってしまった。
ほとんど辞典だ。重い。この重量感。

いや、しかし、実際、他にも何冊かWORDの本は漁ってるんだけど、この著者のものが一番良いのではないかと思う。前の本ではつかみきれなかった細かい機能やちょっとしたことも解決した。
スタッフにWORD嫌いが多いので、またしてもこの手の本を紹介してみた。WORD嫌いがゆえに、それまでWORDでつくられていたサイトガイドラインなんかをPPTでつくったりしていたわけだけど、WORDを覚えれば、どう考えてもWORDのほうが向いてる。

2日もあればだいたいの機能は使えるようにもなるし、組み合わせて応用もできるようになるわけで、その2日の労力を惜しむか、急がば回れ勉強してみるか。しかしこの歳になるまで、なぜきちんと覚えようとしなかったのか。後悔。(一太郎はけっこう覚えたんだけどなぁぁ。。。)

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2004/11/20 12:35

2004年11月15日

Wordで実践!編集レイアウトの基本と本格テクニック

本を紹介するのは何ヶ月ぶりか。えらく久しぶりだ。そろそろきちんと更新をはじめようと思う。

ここ数週間、とある資料の作成をやっている。資料の体裁としてはどう考えてもWORDでつくるほうが良いのだけれど、WORDが苦手なんでPowerPointでつくってた。WORDの何が苦手って、あのおせっかいな機能群がうっとおしくて仕方ない。何かすればいらぬおせっかいを焼いてくれるおかげで、いつも途中で嫌になる。
かといって他のページレイアウト系のソフトが使えるわけでもなく、たいてい強引ながらPowerPointでなんでもつくってしまう。
が、今回は一念発起。本格的にWORDをマスターしてやろうともくろみ、何冊か本を買った。そのなかで最も役立ったのがこの一冊。

Wordで実践!編集レイアウトの基本と本格テクニック
西上原 裕明

技術評論社
2003-06-05
売り上げランキング 124,650

おすすめ平均 
編集中級レベルから
とても便利な機能が使い切れないでいたので、便利です。

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「できる」シリーズに代表されるような、「How to系」のものも買ったんだけど、あの手のものはどれも同じで、実は書いてあることのほとんどはすでに知っているし、使える。どちらかといえば、もっと細か~いレベルのことを教えて欲しかった。スタイルの使い方は知ってるけど、じゃぁ見出し1、見出し2、見出し3なんて具合にきちんとスタイル設定した後に、これらの見出し全部書式変えようなんてなったら、結局、個々の見出しごとにスタイル変更かけなきゃならのか?とか。ヘッダに見出し1を表示させるんだけど、目次ページには何も表示させたくないとか、図を配置して文字の回しこみをやったけど、文字が増えても図はその章のその位置から動かしたくないとか、いろいろちょっとしことでどうやりゃいいのかわからないことがいっぱいあった。そういった細かい実践的なテクニックが詳細に解説されてる。この本を読んだおかげで、WORDのおせっかい機能が、なーんだ、すごい便利な機能なんじゃん、と思えてしまった。

この本のおかげでWORDのきらいだったところが好きになれた。すばらしい本だ。WORDの使い方を「編集レイアウト」の視点でまとめてる本ってのは、ほとんどないので貴重な一冊だと思う。うちの社員でもWORD嫌いって人は多いと思うけども、WORDをちゃんと活用して資料を作ろうーって人はぜひこの本を開いてみましょう。目からウロコ間違いなし。

そうそう、この本を読んでからふと考えたのは、WORDをつかってしっかりと文章の構造化をすれば、それってXHTMLとかXMLへの親和性って高くなるなぁということ。コンテンツの構造化にWORDを使うってのもありだなーと思う今日この頃。

いやー、しかし本ってのはすばらしいなぁと思う。たかだか3000円ぐらいで、こんな情報を得られるのだから。こんなものをパソコン教室なんかで習ったら、それこそ「ん万円」の世界だろうし。

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2004/11/15 00:51

2004年08月16日

売れる仕組みこうすれば顧客は離れない

売れる仕組みこうすれば顧客は離れない」(服部隆幸)

服部さんの本は、ほとんど読んでいる。彼が生み出した「売上」の因数分解式は、最初の本から登場してくるもっとも重要な考え方の一つだ。僕はこの売上方程式を知って、はじめてOneToOneマーケティングの具体的な戦術の組み立て方法を知った。それまでドン・ペパーズの本を読んだり、さまざまな解説書にあたってはいて抽象的にはOneToOneマーケティングの重要性や可能性、考え方ということを知った気にはなっていた。けれど本当の意味で実践や現場に結びついたOneToOneマーケティングを学んだのは、服部さんの「入門ワン・トゥ・ワン・マーケティング―〈顧客〉ではなく〈個客〉の満足を高める新手法」を読んだときだと思う。それ以来のファンで出る本は必ず購入している。

本書もこの売上方程式をベースとした、リレーションシップの考え方、LTV向上とは何を意味するのか、優良顧客とは? といったマーケティングタームとしては当たり前すぎて誰も疑わなかったような概念を一つ一つ精緻に定義づけし、その間違いや誤解を解き解いていく。

OneToOneマーケティングは「優良顧客」を識別し、優遇するという考え方がベースにあるが、服部式のOneToOneマーケティングは、「優良顧客」だけを優遇しているような方法では売上は伸びないと断言する。「優良顧客」の識別方法として、一般的なのはABC分析やRFM分析などがあるが、本書ではRFM分析で識別された「優良顧客」がいかに一過性のものに過ぎず、そのような方法をベースとしたマーケティングアプローチでは駄目かということがかなりのページ数をもって語られている。
なるほど、確かに言われてみればそのとおりと思うことばかりだ。

服部式ではRFM分析ではなく、グレードアップ分析を行う。

グレードアップ分析とは、「過去から今日までの顧客ごとの累積売上金額」をもとに、顧客のグレード(等級)を区分けし分析を行う方法だ。RFM分析では、しばらく購入しなければ顧客のグレードダウンが生じるが、グレードアップ分析では、「累積売上」がベースとなるため顧客のグレードダウンは絶対に生じない。
分析に基づいたグレードに属する顧客に対して、グレードアップのためのリレーションシップシナリオを構築していく。優良顧客だけを優遇するという発想ではないところがミソだ。

グレードアップ分析の4つの基本型は以下になる。
Gは「グレード」のことであり、グレード分析はグレード軸に対して、「Recency:最終購入日」「Frequency:購入頻度」「Monetary:購入金額」というRFM分析の3軸をそれぞれ置いて分析を行う手法である。

G0分析(ジーゼロ分析)

  • グレード軸だけの分析手法
  • 顧客がどのグレードにいるかを把握し、リレーションシップ対応を変えていく

GR分析

  • 最終購入日を重視する業種、百貨店、アパレル、流通小売などに適する
  • 目的は、「グレードアップ」と「直近来店購入促進」
  • 顧客のLTV価値の評価のために使われる

GF分析

  • LTV評価を行うための分析手法
  • GR分析と同じような使い方。
  • 購入頻度を重視する業界(自動車、耐久消費財など何回購入して頂いているかがLTV評価に重要な商品)に適する

GM分析

  • 購入金額を重視する業界で適用する分析手法。

GR、GF、GM共に「売り場単位」と「店舗単位」、そして「全店舗単位」で分析を行い、基本的には、

  1. グレードアップシナリオを構築するため
  2. リレーションシップの目的を明確にするため
  3. グレードごとの顧客の活性化を評価するため

に使う。

顧客を切り捨てて、優良顧客に優遇するためではなく、各グレードにあわせたリレーションシップシナリオを構築し、各グレードの顧客を次のグレードにアップさせること、また、各グレード内から関係を切ったほうが良い顧客を発見すること。
この考え方は言われてみればなるほどなのだけれど、RFM分析やABC分析といった「切捨て」「発見」型のアプローチに頭を犯されているとなかなか思いつかない。
また、「リレーションシップ」も単に、「関係構築」といった漠然としたものではなく、それはシナリオがあり、そのシナリオはあくまでも顧客のグレードをあげるために行うものであるということも抽象的なマーケティングの考え方からは生まれてきにくい考え方だと思う。

今、いくつかのECサイトの提案や開発やコンサルティングを行っているが、ECサイトに服部式を応用したプランを適用してみることを考えてみよう。

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2004/08/16 19:28

2004年08月12日

EQリーダーシップ 成功する人の「こころの知能指数」の活かし方

EQリーダーシップ 成功する人の「こころの知能指数」の活かし方
ダニエル ゴールマン, リチャード ボヤツィス, アニー マッキー, 土屋 京子

久々に読み返してみた。大流行した本なのでいまさらという感じもするけれど。

EQとは本書のサブタイトルにもあるように「こころの知能指数」のこと。優れたリーダーシップにはEQが不可欠であるということ。いわばリーダー論だ。リーダーの影響力、組織をひっぱっていくリーダーの理想のタイプ、リーダーのEQを高めていくには?というようなことが、ちと怪しげな大脳生理学なんかの事例や著者らの調査データに絡めて語られる。が、述べられていることは至極まともなことで異論はない。科学的、客観的な裏づけがなくったってEQみたいなものが組織活動に与える影響が少なくないということは身をもって体験している。

企業風土(その企業で働くことについて社員がどう感じているか)は業績を二十から三十パーセント左右する力を持っている。
(略)
企業風土を左右するものは何か? 従業員が何から企業風土を感じ取るかを追跡してみると、五十ないし七十パーセントが「リーダー」という一人の人物の行動に起因していることがわかる。リーダーは、他の誰にもまして、従業員の働きぶりに直接的な影響を与える存在なのだ。(P.33)

これはかなり信憑性がある。駄目なリーダーによって何十人というスタッフがやる気をなくしていった様をマジかに見たことがあるからだ。みんな熱意を持って入社してきたにもかかわらず、数ヶ月もすると会社への不満しか出てこない状態になる。業績も思うようにあがらない。悪循環。

本書のなかでは6つのEQリーダーシップスタイルがあげられている。
ビジョン型、コーチ型、関係重視型、民主型、ペースセッター型、強制型だ。

78ページにそれぞれのスタイルの特徴が簡単にまとめられているのでそのまま掲載しておこう。自分はどのタイプに一番近いのか、どのタイプのスタイルを志すべきか。それぞれのリーダーシップスタイルには、必要なコンピテンシーがある。

ビジョン型
<<共鳴の起こし方>>共通の夢に向かって人々を動かす
<<風土へのインパクト>>最も前向き
<<適用すべき状況>>変革のための新ビジョンが必要なとき、または明確な方向性が必要なとき

コーチ型
<<共鳴の起こし方>>個々人の希望を組織の目標に結びつける
<<風土へのインパクト>>非常に前向き
従業員の長期的才能を伸ばし、パフォーマンス向上を援助するとき

関係重視型
<<共鳴の起こし方>>人々を互いに結びつけてハーモニーを作る
<<風土へのインパクト>>前向き
<<適用すべき状況>>亀裂を修復するとき、ストレスのかかる状況下でモチベーションを高めるとき、結束を強めるとき

民主型
<<共鳴の起こし方>>提案を歓迎し、参加を通じてコミットメントを得る
<<風土へのインパクト>>前向き
<<適用すべき状況>>賛同やコンセンサスを形成するとき、または従業員から貴重な提案を得たいとき

ペースセッター型
<<共鳴の起こし方>>難度が高くやりがいのある目標の達成をめざす
<<風土へのインパクト>>使い方が稚拙なケースが多いため、非常にマイナスの場合が多い
<<適用すべき状況>>モチベーションも能力も高いチームから高レベルの結果を引き出したいとき

強制型
<<共鳴の起こし方>>緊急時に明確な方向性を示すことによって恐怖を鎮める
<<風土へのインパクト>>使い方を誤るケースが多いため、非常にマイナス
<<適用すべき状況>>危機的状況下、または再建始動時、または問題のある従業員に対して、


うちの場合どうだろうか。組織としては「関係重視」から「民主型」に近いリーダーシップスタイルだろうか。部門やグループによって多少の違いはあるだろうが、全体としてはそうかもしれない。「関係重視型リーダーにとって、部下の感情面のニーズは仕事の目標以上に重要だ」。このリーダーシップスタイルにとって必要なEQコンピテンシーは「紛争解決」。意見の相違を解決する能力だ。関係重視型をとるリーダーの多くは、ビジョン型アプローチを併用する。この二つがあわさるとかなり強力だ。

社長は「民主型」を好む。上から一方的命令はしない。何をしていくにも同意と深い理解(うわべだけじゃない、背景も含めた理解)を大事にし、可能なかぎりスタッフの意見をとりいれようとするスタイルだ。デメリットもある。スピードだ。トップダウンによる決定ではないので、かなり回り道をする。回り道はするけれども、今のところ「こっち」のやり方のほうが強い組織になっていっているような気はする。

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2004/08/12 10:00

2004年07月08日

ペーパープロトタイピング

ペーパープロトタイピング 最適なユーザインタフェースを効率よくデザインする
Carolyn Snyder , 黒須 正明


Amazonで詳しく見る4274065669

なんか本の紹介するの久々な気がする。
ペーパープロトタイピングってのは、うちの会社でも普通にやってたりするけど、この本に詰まってるノウハウは、今まで自分がやっていたペーパープロトタイピングの方法をもっと洗練させ、もっと効果的にしてくれるだろう。もっと早く知っときゃよかったと思うところがけっこうあった。

ちょうど1年ぐらい前か。大規模なイントラネット系のシステムのインターフェイス設計やらに関わったことがある。あの仕事のとき、この方法を知ってたらもっと楽になったんじゃないかと思う。
ペーパープロトタイピングをうまく使えば、スパイラル型の開発が行え、少ない投資で初期段階での設計ミスや穴を防ぐことができる。今、やっている案件でもさっそくこの手法を取り入れてやってみよう。

設計に従事する人にはオススメ。

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2004/07/08 20:05

2004年06月01日

「葉桜の季節に君を想うということ」

ミステリーでも特に推理小説と呼ばれるようなジャンルは、文学というカテゴリーではなぜか少し低いレベルで見られているんじゃないかと思うことがある。国語の教科書に推理小説が出てきたことはまずない(実は調べたことはないのでもしかしたらあるのかもしれないけど)。それは一部だけ切り取っても意味がないからという理由からだけではない。一部だけ切り取って意味があるのかないのかで言えば、普通に教科書に取り上げられる文学作品も一部を読んだり理解したりしたとしてもあまり意味はないのではないかと思う。せいぜいその小説に興味を持ったり、あまり必要もないレトリックを覚えたりするぐらいが関の山だろう。

推理小説がそのような扱いを受けるのはひとえに、その形式の特殊性ではないかと思う。推理小説においては事件の真相や真犯人といったものにすべての文学的な形式や環境が捧げられる。いかにして大胆なトリックを考え付くか。そのトリックを注意深い読者に気付かれずしのばせ、そして最後に華麗な解決につなげるか。これらがすべてといってもよく、主人公の内面や、作品におけるメッセージや意味といったものはほとんど無視される。(ちょっと語弊があるかもしれないけれど。もちろん推理小説にだってきちんと心情や内面や主義や主張を織り交ぜたものは多くある)

例えば、「純文学」では風景描写には、今の主人公の内面・心情が現されていたり、今後のストーリーの方向を示唆する気分的な意味が込められていたりするが(ってそういう小説の反動がポストモダン小説なんだろうけど)、推理小説では、それと同じような意味をもっている描写であっても、読み手からしてみればすべては何かしらのトリックの素材として機能しているのではないかという疑いの目で読まれる。当然ながら書き手もそういった読み手の自覚には神経を配り、何でもないことをさも意味ありげに書いて惑わせたり、あるいは物凄く重要なことを読者が見落とすように巧妙な策を講じたりということが繰り広げられる。

より重要そうな意味やメッセージみたいなものは、推理小説というジャンルでは「トリック」という大きな意味に格納されてしまいそこから抜け出せない。

というようなところが推理小説というジャンルが低くみられる要因なのではないか。しかし、考えてみれば、何か意味や真理みたなものが高尚なもので、それを文学という形式で表現することが価値あることだ、と考えること自体がおそろしく低俗だったりするのではないだろうか。
下手に「純文学」気取るよりは、推理小説という意味や真理を無効化するような制度と枠組みのなかで、書くことを真剣に考えている作家のほうが、かもすればよほど文学という表現形式であることに自覚的で意欲的かもしれない。

推理小説においては、文学という形式を選択することそのものが「トリック」を構成する要素になることがある。いや、ここ近年の本格派と呼ばれるような人達の書くものには、虚構内での環境・状況のみに依存したトリックから、小説であることや、小説としての手法や形式そのものをトリックとして利用するケースが多々見受けられるようになった。筒井康隆の「ロートレック荘殺人事件」、綾辻行人の「十角館の殺人」、貫井徳郎の「慟哭」など。また竹本健二をはじめとするメタ小説類なども推理小説という形式からの小説の存在根拠の問いかけをはらんでいると言えるだろう。これらの小説はおよそ映像化しようがない。小説であることそのものがトリックを構成する重要な要素となってしまっているからだ。

一人称で語るのか、三人称で語るのか、どのような語り口を選択するのか、会話文と地文の処理は? どう章を展開していくのかなどなど。小説におけるありとあらゆるものが、トリックのタネとして考察され利用される。それこそそのうち本に付く帯や表紙などもトリックの材料として使われだしかねない勢いだ(確か、綾辻の館シリーズの何かで、一部そういった実験的なトリックが使われていたものがあったことは記憶しているが、なんだったかは覚えていない)

推理小説はこういったある一点の真理のために全てが捧げられてしまうというそ特殊性が備わった文学だ。ある意味推理小説には「無駄」がまったくない。「無駄」もトリックの一要素として意味を持ち始める。これはすごく特殊な形式だなぁと思う。

葉桜の季節に君を想うということ
歌野 晶午

おすすめ平均
絶対にだまされます。
私もやられてしまいました!
素直な心で読めばダマされますが、「大仕掛け」以外の部分をむしろ評価したい

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歌野晶午のこの小説はミステリーファンからはかなり高い評価を受けた作品のようだけれども、まさしく推理小説というジャンルの特殊性を全面的にトリックとして使ってしまおうという貪欲さが伺える作品だ。

歌野晶午という作家は実はデビュー作からの三部作しか読んでいない。少なくともデビューから三作品はいわゆる「新本格」の作品だったと思う。大胆なトリックを仕掛けること。読者との純粋な推理ゲーム。実は「長い家」も「白い家」もそんなに強い印象は残ってなくて、同時期に読んだものとしては綾辻の「館シリーズ」や、法月倫太郎の密室シリーズのほうがよほど面白かった印象がある。どうも歌野昌午は文章が下手という強い印象が残っていたりして、特に推理小説マニアでもないので追いかけてこなかった。
ここ最近のものを読んでいないのでなんともいえないけれども、この小説では明らかに小説が小説たらんとする前提を大きなトリックの素材として使っている。
これが「本格」なのか「邪道」なのかは置いておくとしても意欲的な試みであることは確かだろう。

ただ、正直読み終わっても「やられた」という感情は残るけれども、それ以上に強い空しさが残る。「犯人探し」=「真相探し」に費やされた読書体験・時間がほとんど意味のなきものとして貶められてしまう感覚を覚えるのだ。

「慟哭」を読み終わったときにも感じたことだけれども、これらレトリック・トリックは、確かに小説でしかできないことを突き詰めてはいるけれども、でもこれは小説ではなくもしかするとマジックとか、そういう違うジャンルのものと比べられるものになってしまってるんじゃないかという気がした。
もともと推理小説というジャンルが背負う閉塞感。それを打開しようという試みの一つとして生まれてきたのではないかと思われるレトリック・トリック。しかし、レトリック・トリックはますます推理小説の閉塞感を強めたような気がする。

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2004/06/01 22:52

2004年05月16日

7つの習慣:相互依存のパラダイム

「7つの習慣」を読み返していて、ふと、ニーチェの「運命愛」という言葉を思い出した。ニーチェは人生を他人や環境や状況のせいにせず、自身が創り出したかのように受け入れよと言った。それが「運命愛」であると。

第一の習慣に「自己責任の原則」があったり、「7つの習慣」は多分に禁欲的な道徳規範を説いているようではある。ニーチェは道徳を弱者の思想として批判しているけれども、ニーチェが批判した道徳と、「7つの習慣」で語られる原則や倫理といったものは全然違うものだ。初めて「7つの習慣」を読んだときに僕が感じていた違和感とか、胡散臭さとかそいういうものは、どうもここで語られることがルサンチマン(遡及すればルサンチマンに行き着くキリスト教的な道徳規範として)でしかないんじゃないかということだったのかもしれない。でも、それはかなり大きな誤解だったのではないか。 「7つの習慣」はどちらかといえば意志と力の問題を扱っている。弱者の抜け道ではなく、ニーチェに習って言うならば超人への道を語っているのかもしれない。まだ自分でもよくわかってないけど。

さて.... 第一から第三までは私的な成功を築くための習慣だった。第四の習慣からは私的成功の土台の上になりたつ「公的成功」がテーマとなる。 さて、私的な成功は「自立」という基盤になりたっていた。まずは「自立」。では「公的成功」とはどのような基盤になりたつか。「自立」より高次のパライダムとして著者は「相互依存」という概念を考えている。「自立」の次は「相互依存」だ。

第四の習慣に入る前に、著者はあえて「相互依存」ということについてより詳しく説明を置いている。それはこの考え方が第四以降の習慣のベースとなる思考法だからだ。

「相互依存」という新しいパラダイムを得るためのキーワードとして登場してくるのが「信用残高」という言葉だ。この言葉も後半に頻繁に出てくる言葉なので記憶しておかなければならない。

信用残高とは、ある関係において築かれた信頼のレベルを表す比喩表現であり、言い換えれば、その人に接する安心感ともいえるだろう。(P.270)

私たちは日々の生活、人々との関係において「信用残高」の預け入れを心がけておかなければならない。人と人との関係において魔法は存在しない。地道に残高を積み立てていく努力しかないのだ。

さて、信用残高を増やすためには、ということで著者は以下の6つをあげている。

(1)相手を理解する
ここに「人は自叙伝に照らしてみて、自分は他人のニーズや欲求が分かっていると思い込むことが多い。つまり、他人の行動を自分の考えやパラダイムを通して解釈するのだ」(P.276)という一節があって、身につまされるものを感じた。

ついつい自分の都合の良い状況や昔の自分に重ね合わせて解釈してしまうってのはよくあることだ。ニーチェだったかヴィトゲンシュタインだったか忘れたが「事実はない。あるのは解釈だけだ」というようなことを言ってたけれども、私たちはまず、自分達の解釈が偏ったものであることを認めないといけないのではないか。

安易に、自身の解釈を拡張して、その解釈のなかで人を解釈した気になるのではなく、まずもって私の見ている、感じている、考えていることと、他人のそれとは違うのだということを前提として意識しなければならない。それでも相互理解に達する道はあるのだという強い意志をもってコミュニケーションに望まなければならないのではないだろうか。

(2)小さなことを大切にする

(3)約束を守る

(4)期待を明確にする
「人間関係におけるほとんどの問題は、役割目標を取り巻くあいまいな気体、あるいはお互いの期待像に端を発している」(P.281)

(5)誠実さを示す
「「正直」とは真実を語ることである。つまり、言葉を現実に合わせることである。それに対して「誠実さ」とは、現実を言葉に合わせることである。つまり、約束を守り、気体に応えることなのだ」(P.233)

(6)(信用残高の)引き出しをしてしまったときは、誠意をもって謝る
「人は間違いを許してくれる。なぜなら、間違いは往々にして判断を誤ったために発生するものだからである。しかし、人は心のあり方の間違いを容易に許そうとはしない。不正な動機や最初の間違いを正当化しようとし、それを隠そうとする傲慢さっは、全く違う次元の間違いなのである」(P.289)

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2004/05/16 22:59

2004年05月13日

マネジメントの正体

マネジメントの正体―組織マネジメントを成功させる63の「人の活かし方」
スティーブン・P. ロビンズ, Stephen P. Robbins, 清川 幸美



おすすめ平均
使える一冊
世間一般のマネジャー向けの本ととらえれば、充分いい本なのでは
読みやすく、堅くない

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このブログのコメントで教えてもらった「マネジメントの正体」を新幹線の中で読んだ。本書は63の短い章で構成されている。さらに章は大きく10の領域に分類されている。

1.採用
2.モチベーション
3.リーダーシップ
4.コミュニケーション
5.チーム作り
6.衝突の処理
7.職務設計
8.業績評価
9.変化への対応
10.行動

この10の領域を見ても、本書がマネジメントという問題を俯瞰的に、総合的に扱っていることがわかる。これがMECEかどうかはわからないが、少なくともマネジメントについて課題なりえるほぼすべての領域がカバーされているとは思う。

頭から読み進めても良いだろうし、この10の中から今関心のある領域のところだけを読むのも良いだろう。ページをめくっていって気になるタイトルの章だけを拾っていくのでも良いかもしれない。とにかくどんな読み方でもいいけれどもマネジメントという問題、課題に直面している人はぜひ手元に置いておきたい。そして何度も読み返したい。そんな本である。

コメントの中で例としてあげて頂いた「ほとんどの場合、生産性の高い従業員が充実感を抱くのであり、その逆ではない」という言葉はCase13「部下が仕事に満足しない理由」に登場する。この考え方にははっとさせられた。

多くの企業が従業員の仕事に対する満足感を高めようと努力している。福利厚生やフレックスやらと働き安い環境、魅力的な環境を提供しようと務めている。しかし、満足度を高めても生産性が向上するという相関性はない。

生産性が高まるから満足するのであって、その逆ではないらしい」というのが真実のようだ。生産性が高ければ褒められる機会が増え、給与レベルも上がり、仕事に対する充実感も抱ける。これが満足度につながるのだ。

この考え方は、形を変えて何度か本書のなかに登場する重要な考え方だ。
例えば、Case22「認めてあげると人はやる気を出す(おまけにお金もかからない!)」や、Case40「行動は言葉に勝る」、Case60「感情が行動を導くのか、行動が感情を導くのか」といったところで語られることにも関連していることだだろう。

満足度を高める方法に注力するのではなく、生産性を高めることに力を注ぐ。たとえば、「訓練にもっと費用をかける、職務設計を改善する、もっとよい設備を用意する。そして、優れた能力を持つ従業員にとって何か障害があればそれを取り除く。」

1章1章はものすごく短いけれども、マネージャーにとっては珠玉の言葉がつまっている本だ。

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2004/05/13 09:46

2004年05月11日

TQ―心の安らぎを発見する時間管理の探究

フランクリン・プランナーを利用しだしてから約2週間。
最初の1週間はゴールデンウィークだったんで、実質は1週間。

7つの習慣―成功には原則があった!」を読み返したり、「フランクリン・システム―米国企業を活性化させた90年代のタイム・マネジメント術」や「人生は手帳で変わる―第4世代手帳フランクリン・プランナーを使いこなす」あたりを読みつつ、試行錯誤しながら使ってるので、まだその効果の程はよくわからないというのが正直なところだ。いくつか良かったのは、仕事もプライベートも一緒の土台で管理して、一方的に偏ることなく生活全般をバランス良く管理しなきゃならないという意識が若干なりとも芽生えたことか。

1日1回長期的な目標から落とし込んだ月間のマスタータスクを眺め、そこからその週の初めに立てた週の目標を確認し、さらに今日のタスクを洗い出して、優先順位付けをする。出社してから15分程度で終わることだけれども、これをやってきちんとリストアップしたタスクをこなしてチェックをつけていくだけで、ちょっと心が満たされた気分になるから不思議だ。プラシーボみたいなもんですな。
「フランクリン・プランナー」の使い方は、「TQ―心の安らぎを発見する時間管理の探究」が一番親切だろう。他の活用本は「TQ―心の安らぎを発見する時間管理の探究」のおいしいところだけを要約しただけに近い。なので、「フランクリン・プランナー」を使おうと思うなら、まず「TQ」を読んだほうがいいんじゃないかというのが僕の個人的な感想。

TQ―心の安らぎを発見する時間管理の探究
ハイラム・W・スミス, 黄木 信, ジェームス・スキナー



おすすめ平均
あなたは時間を愛せるか
情報時代の仕事人に
僕の生活の質を買えました。

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タイムマネイジメントの本ではあるけれど、効率的な時間管理や優先順位付けを行うというようなタイムマネイジメントではなく、タイムマネイジメントを通じての自己実現、自己啓発の発想が盛り込まれてる。自己実現・自己啓発本のほとんどがそうであるように、本書にも多分に「感動的な」(とカッコつきの)事例が頻出し、ちょっと神秘がかったところもある。こういうのが嫌いな人は多分、ちょっと読むだけで投げ出したくなるんじゃないだろうか。

根底となる考え方は「7つの習慣」と全く同じ(って「7つの習慣」よりこっちの方が先なのかな。まぁ同じ会社だし)。本書では「心のやすらぎ」を得ることが最終目標であり、そのための時間管理が語られる。(「7つの習慣」では広い意味での「成功」を得るための「習慣」が語られている。)
「心の安らぎ」は生活におけるバランスと調和によってもたらされる。これは出来事をコントロールすることによって可能となると著者は語る。「時間管理」とはとりもなおさず、「出来事をコントロールする」ことである。時間管理を「時計」と結びつけるのではなく、「出来事」と結びつけることが肝要。
「出来事」を効果的にコントロールするためには、人生において最も価値を置くものを見つけ出し、日々の行動をその価値観に照らし出していかなければならない。

価値観をベースっとした「生産性のピラミッド」をつくることが日々の行動を決定してゆき、人生をより豊かで実りの多いものにする。生産性のピラミッドとは、価値観から長期目標が決定され、長期目標から中間ステップが導き出され、中間ステップから日課リストが出来るというピラミッド構造のモデルである。上(頂点)になればなるほど、小さく、なるという意味で、より具体的、ピンポイントの活動を示していくメタファーともなっている。

「フランクリン・プランナー」はこの「生産性のピラミッド」に基づき、日課リストに落とし込むまでの過程がそのまま手帳になっている。ここを読めば、「フランクリン・プランナー」の使い方が良くわかる。

本書のなかで面白かったのは『第6章「行動と気持ち」を合致させる』の章だ。
第六の法則として「行動とは自分の想いを反映したものである」ということが語られる。なぜ悪いとわかってながら自分がそんな行動をとってしまうのか、著者は「リアリティー・モデル」というメンタルモデルで説明する。

「リアリティー・モデル」は五つの要素として成り立つ。AIDMAみたいな感じだ。
人間の行動は以下の五段階を経て生まれる。

(1)心理的欲求→(2)思いの窓→(3)ルール(もし~ならば~)→(4)行動パターン→(5)結果

(5)の結果は(1)の心理的欲求にフィードバックされる。

第一の要素「心理的欲求」は人間の基本的な四つの欲求のいずれか、あるいはその組み合わせだ。
1.「生きる」欲求
2.「愛し愛される」欲求
3.「人に良く思われる」欲求
4.「変化を味わう」欲求

これらの四つの欲求がバランス良く満たされていれば、人生はスムーズに動く。残念ながらバランスがとれることはめったになく、たいていはいずれかの欲求が満たされてない。すると人はこの欲求を充足させようと全精力を傾けてしまう。

これが行動の第一歩。

第二の要素「思いの窓」は抽象的な概念だけれども、「7つの習慣」で「パラダイム」という言葉で表現されていたものと同じようなものだろう。自身の価値観やら信念やら思い込みやら、ポリシーやらといったものをひっくるめて「思いの窓」と名づける。
第一ステップで満たされなかった欲求をどのように満たすかの方向性はこの「思いの窓」が握っている。
この「思いの窓」が歪んでいると、欲求は歪んだ方向に進む。しかしながら、たいていの場合、自分の「思いの窓」は自分自身では正しいと思い込んでしまうのが人間である。

そして、第三の要素では、これら「思いの窓」に映し出している想いに対して自身の行動を支配するルールを無意識のうちにつくる。

これら第三ステップまでをクリアして、想いが行動として現われる。
そして、行動の結果はフィードバックされる。この行動が第一要素の心理的欲求を満たすというフィードバックであった場合は、このループが再現なく繰り返される。

ここで重要なのは、「ある特定の想いが自分の欲求を満たしたかどうか、確実に分かる方法は一つしかない。時間をかけてその行動の結果を見ることだ。結果の良し悪しは時間が経たないと分からないことが多いからだ。」(P.279)ということ。短期的には心理的欲求が満たされるものであっても、長期的に見れば悪い影響を与えるものはたくさんある。酒やタバコ、麻薬、暴飲暴食といった中毒性のものなどはそうだ。一時的には心理的欲求は満たされる。でも長期的には身体には悪い。

たとえば、「人に良く思われたい」欲求を持った人が、「失敗は悪いことだ」という「思いの窓」を持っているとしよう。彼は「失敗は悪いこと」という「思いの窓」から、「失敗しないためには失敗しそうなことをしないこと」というルールをつくり、それに従った行動をとるとする。彼は失敗しそうなことはしないので、その行動の結果としては、何もしていないので賞賛も受けなければ、批判も受けないだろう。それは心理的欲求を充足させるものではないかもしれないが、しかし貶めるものでもないので、一時的な結果としては成功かもしれない。が、長期的に見た場合はどうだろう? 失敗というリスクをなに一つ犯すことなく、人生を送ることで心理的欲求の一つでも満たされるだろうか。

さて、この「リアリティー・モデル」を知ることで自身や他人の行動がなぜそうなるのかということがわかるというわけだ。そして、自身や他人の「思いの窓」を知り、人生にとってマイナスになるものならば、それを改めることができる。

1.悪い結果をもたらす「行動パターン」を特定する。
2.その行動を生み出している「想い」を明確にする。
3.その「想い」によって生まれる「将来の行動」を予測する。
4.もっと良い結果を生み出す「新しい想い」を打ち出す。
5.その「新しい想い」によって生まれる「将来の望ましい行動」を予測する。
(P.305)

まずは自身の最低な行動をさかのぼって、自分の中の歪んだ「思いの窓」を探してみよう。ありすぎて困るぐらいあるけど...

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2004/05/11 00:24

2004年05月07日

7つの習慣:重要事項を優先する

「7つの習慣」第三の習慣は「重要事項を優先する」だ。

「7つの習慣」で多分一番有名なのは、この章に出てくるマトリックスではないだろうか。僕自身も覚えていたのはマトリックスぐらいだった。

第三の習慣の前提は「自己管理」であり、効果的な「時間管理」だ。
時間管理は以下のような過程で発展してきた。

第一世代
「メモ」や「チェックリスト」 様々な要求や日々行わなければならないことを整理する

第二世代
「カレンダー」や「予定を書き入れる手帳」 将来の活動や出来事をスケジュール化しようとする思想

第三世代
前二つの世代の概念に「優先順位づけ」「価値観の明確化」および「目標設定」の概念を加えたもの。現在の時間管理の主流。

著者が提唱するのは、これら第三世代までの時間管理とは全く異なる概念だ。

第四世代では「時間管理」という言葉自体を誤りと考える。なぜなら時間は管理できるものではない。唯一管理できるのは、自分自身でしかない。
第四世代では、「物や時間に集中するより、「大切な人間関係」や「生活の役割」、あるいは「大切な目標達成」に焦点をあわせている。簡単に言ってしまえば、生活における「P/PCバランスを維持する」ための手法である。(P.212)

この第四世代の時間管理の中心的な概念を現したのが、「時間管理のマトリックス」である。 時間管理のマトリクスは、こちらを参照。

すべての出来事は「重要/重要でない」「緊急/緊急でない」の四象限マトリックスのどこかに位置する。

簡単に言えば、上記ページにある「II.生産性とバランス」(本書では第二領域と呼ばれている)に集中し、効果的な自己管理を行わなければならないということだ。第二領域に割く時間をとっていくことで、第一領域の時間が減っていきより効果的な生活を営むことができる。
第二領域に集中するためにはそれ相応のツールが必要であり、その思想を下敷きとしてつくられている手帳が「フランクリン・プランナー」というわけだ。

ポイントは、スケジュール課題に優先順位をつけることではなく、優先課題をスケジュールに入れることである。(P.230)そしてそれを、週単位で計画していくこと。

第二領域に集中した一週間の計画のプロセス

1.役割を定義する
自分の生活の主な役割を書き留める。
ここではずっと継続する役割を定義する必要はなく、次の一週間で過ごす大切な領域を定義するだけでよい。

2.目標設定
1で定義した役割において、次の一週間で達成したい大切な目標を二つか三つ設定する。この目標では第二領域の活動を目標として掲げること。

3.スケジュール化
2のステップで設定した目標を念頭に、目標をなし遂げるための活動をスケジュールに入れる。この時、この第二領域の活動だけでスケジュールが一杯になるようにしないことがポイント。当然だけど、第一領域や第三領域の時間がなくなるわけではない。バランスをとっておく必要がある。

4.日々の対応
毎朝、数分間自分のスケジュールを見て、一週間の目標を振り返り、自分が今直面している状況を再確認する。

この四つのステップで重要なのは、「目標設定」は、第一、第二の習慣で学んだ価値、原則に基づき設定されること。また、自分自身に約束を入れていくということ。自分自身に約束を入れて、可能な限り第二領域の時間を自らつくりだしていくことが必要。

このステップについては、「最重要事項を達成するための4つのステップ」に詳細がまとまっている。

デレゲーションについて

このような目標達成には、二つしか方法はない。自分でやるか、他の誰かにその仕事をまかせるかだ。他の人に任せることをデレゲーションと言う。 デレゲーションを完全な形で行うには、次の五つの事柄を明確に打ち出し、相互理解と決意を得るようにしなければならない(P.248)

  • 望む結果
  • 「どうやって」より「何を」
    手段ではなく結果に焦点をあわせる。望む結果をイメージして鮮明に描く。いつ達成されるのかを明確に文章で表現してみる。

  • ガイドライン
  • 守らなければならないルールがあればそれを明確にする
    必ず失敗すると分かっているやり方があるなら、それも明確にしておく

  • 使える資源
  • 望む結果を達成するために、活用できる人的、金銭的、技術的、組織的な資源の範囲を明確にする。

  • 責任に対する報告
  • 結果を評価するために使われる基準を設定し、評価する人は誰なのか。報告と評価が具体的にいつ行われるのかも設定する。

  • 履行(不履行)の結果
  • 評価の結果によってどうなるか(賞罰)を設定する。

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2004/05/07 10:03

2004年05月06日

7つの習慣:目的を持って始める

「7つの習慣」第二の習慣は「目的を持って始める」だ。

「人生の最後の姿を描き、それを念頭において今日という一日を始めることである。そうすれば、自分にとって何が本当に大切なのかをベースに、今日の行動、明日の行動、来週の行動、来月の行動を計画することができる。」(P.27)

「最期の姿」を念頭において、というのも極端な考え方であるが、要は長期的な目的をブレイクダウンして1日という日を送らなければならないということである。

「目的を持って始める」ということは、リーダーシップの原則に基づいている。 「マネイジメントは手段に集中しており、どうすれば目標を達成できるかという質問に答えようとするものである。一方、リーダーシップは望む結果を定義しており、何を達成したいのかという質問に答えようとするものである。」(P.132)

「リーダーシップ」と「マネイジメント」をどう切り分けるかということはたいした問題ではないが、ここで著者が言っているような「目的を定義する」能力(リーダーシップ)と「目的を達成させるための能力」(マネイジメント)は、組織においても当然欠かせない。 私自身もそうだったのだが、「マネイジメント」に率先してあるべき「リーダーシップ」については極めて曖昧な考え方しかしていなかった。ここでこの二つが切り分けられ、そしてそれが歯車の両輪であって、どちから一方でも欠けては目的達成は叶わないということを学んだ。ロジカルシンキングでも問題を要素に分解して、それぞれの要素について考えるというフレームの有効性はよく言われる。「マネイジメント」と「リーダーシップ」の問題は、僕のなかでは今までほぼ同一のもんとして一緒にまとめられていた。これを切り分けて考えることで、かなりいろんなことが整理される気がする。

目的を持って始める最も簡単で効果的な方法の一つとして、著者はミッション・ステートメントを書くことを推奨している。どうなりたいのか、何をしたいのか、自分の行動の基礎となる価値観や原則はどういうものなのか。 自身の価値の基準となるもの、自分自身に課すべき長期的な目標、価値観をつくるのだ。 ミッション・ステートメントをつくり、それを生活の中心に置くことで、それは「安定性方向性知恵、ならびにの根源となる」(P.147)

「リーダーシップ」は、ころころ目標を変えてはいけない。自身が目指す価値や目標に沿って一貫した決定や行動をとっていく必要がある。そうでなければ「マネイジメント」が困るからだ。「マネイジメント」は「リーダーシップ」が照らし出す方向性へ効果的/効率的に進むための手段であり、能力だ。照らし出される方向が間違っていたり、ころころ変わっていてマネイジメントがうまくいくはずがない。

今から3、4年前に僕らも組織のミッション・ステートメントをつくった。1年近い議論を重ねて、最終的に完成したミッション。最初は自分達でつくっていながら、どことなく地に足のついていない感じがしていたのだけれど、最近になってようやくそれをつくっておいて良かったと思えるようになった。非常に抽象的な価値観の表明ではあるけれども、自分達が向かう方向や、尊いと思う価値、信条などがミッション・ステートメントにきちんと備わっている。最後の砦はいつもそこ。遠くおぼろげながらそのミッションを守ろうという意識がどこかに根付いている。 前回の面談のなかでも何人かのマネージャーの口から「ミッション・ステートメント」の話が出た。そのミッション・ステートメントが自身の仕事観にもぴったり合っていると感じられる瞬間があったとか、それが大事だということがわかったというようなかなり嬉しい言葉だった。 ミッション・ステートメントを作成しているときは、まだ社員は20人にも満たなかった。日々の資金繰りで四苦八苦しているような状況でとてもミッションなんてこと言ってる場合でもなかったのだけれど、今思えばあの時つくっておいて本当に良かったと思う。

しかし、個人的なミッション・ステートメントというのは考えたことがなかった。 会社のミッション・ステートメントをつくっていたときには既に「7つの習慣」は読んでいたはずだったのだけれど、全然結びついてこなかったし、思い出しもしなかった。恥ずかしいことだ。

会社のミッション・ステートメントをつくっていたときもそうだったけれど、ミッション・ステートメントをつくるのは凄く難しい。それがすべての価値基準・規範となるということになれば、そうそう安易にはつくれない。いきなりミッション・ステートメントを書きないさいと投げ出されても、ほとんどの人はそこで行き詰まってしまうのではないだろうか。

そこで著者は「役割と目標を決める」という前段階を提案している。

私たちは生活のなかにさまざまな役割を持っている。たとえば、父であったり、妻、あるいは友人、会社の課長、部長、社長などなど。 まず、自分にはどのような役割があるかとういことを書き出してみること。そして、それぞれの役割に、自分はどのような人になろうとしているのか、どのような価値観によって導かれるべきかということを書き上げていくというわけだ。

「フランクリン・プランナー」には、ミッション・ステートメントを書くところが用意されている。また、ミッション・ステートメントを書くために必要な、自身の価値基準を見つめなおすための質問も用意されていて、その質問に答えていくことで、徐々に自身の価値基準が明らかになっていくという仕組みだ。

演習1が「価値観/説明文」をあげていくこと

価値観:プロ意識
説明文:
・毎日優れた仕事をする
・他の人のアイディアに対してオープンである
・積極的な態度を貫く
・チームプレイヤーとして貢献する

演習2は「役割」とその役割に対して「鍵となる人々」と理想の行動を「説明文」としてつけていくこと。

役割の例グラフィックデザイナー
鍵となる人々上司、編集者、顧客
説明文能力のかぎり完璧でクリエイティブな仕事をする

演習3は「スタートとなる質問」として、次ぎの2つに答えること。

  1. 仕事の中で、これを行えばすばらしい結果をもたらすと思われるものがあるとすれば、それは何ですか?
  2. プライベートの生活の中で、これを行えばすばらしい結果をもたらすと思われるものがあるとすれば、それは何ですか?

演習4が「ある(Be)、する(Do)、持つ(Have)」を明らかにすること。
「どのような人物になりたいか?(Be)」
「したいことのすべて(Do)」
「一生の間に所有したいものすべて(Have)」
をリストアップする。

演習5は、自分が死ぬとき皆からどんな人物だったと思ってもらいたいか、どのような人物として記憶に残って欲しいかということを具体的にイメージする。

そして、最後。
演習6は、以下の5つの質問に答えること。

  1. わたしが最も幸福で充実感を感じるのはどういう時だろうか。
  2. わたしが仕事において最も楽しく充実感を覚えるのはどんなことだろうか。
  3. わたしが私生活で最も価値があると考える活動はどんなものだろうか。
  4. わたしが身につけたい才能や能力はどのようなものだろうか。
  5. わたしが最も貢献できることは何だろうか。

この演習1~6を自身の頭で考え、イメージし、実際に書いていくことで、少しづつ自分の価値観が明らかになってくるというわけだ。フランクリン・プランナーを購入してから僕もこの演習を寝る前にやっているのだけれど、これが結構難しい。おそらく今まで考えたこともなかったことだからだ。

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2004/05/06 08:28

2004年05月05日

7つの習慣:主体性を発揮する

「7つの習慣」を再読し、以前に読んだときよりもさまざまな面で深く感じ入るところがあった。本書の冒頭で「パラダイム」という言葉がでてくるが、今の自分が持っている「パラダイム」と、前回読んだときの「パラダイム」が大きく違うのだろう。その違いが、本書の内容の受け止め方や理解の度合いを大きく変えるものだったのではないかと思う。

より理解を深めるために、「習慣ごと」に分けて本書を要約してみようと思う。

インサイド・アウトとは

「7つの習慣」はより充実した、成功した人生を掴むための原則を著した本だ。
そのアプローチの原則とは、「インサイド・アウト」である。インサイド・アウトとは、自分自身の内面(インサイド)を変えることから始めるという方法である。自分自身を変えることによって、私的成功を得る。私的成功を得ることが公的成功につながるという考え方だ。

「インサイド」を変えていく最も効果的な方法が「習慣」をつくるということである。

「私たちの人格は、繰り返される習慣の結果として育成されるものである」(P.50)

「7つの習慣」の原則

本書で語られる「7つ」の「習慣」を日々の生活に折込み、実践していくことで、人は「依存から自立へ、そして自立から相互依存へと成長していく」(P.54) この段階は必ず段階的であり、当然ながら依存状態を脱していなければ自立できず、自立できていない人は相互依存状態を得ることはできない。この自立から相互依存への段階的な成長は、先ほどの「私的成功」から「公的成功」への流れとシンクロしている。 「依存→自立」によって私的成功(1)を得て、「自立→相互依存」によって公的成功(2)を実現する。

「7つの習慣」もこの段階ごとに記述されている。
第一、第二、第三の習慣は(1)を、第四、第五、第六の習慣は(2)を達成するためのものである。基本的には第四~第六までの習慣は第一~第三までの習慣の土台に築かれるのだ。

P/PCバランスについて

「「7つの習慣」は効果性の習慣である」(P.61)

習慣性が効果性の向上に結びつく。著者は効果性には二つの側面があると考える。

目標達成(Performance)
目標を達成することまたは結果を手に入れること
目標達成能力(Performance Capability)
その結果を手に入れるために使う資源(物的、金銭的、および人的な資源)あるいは目標を達成する能力

効果性とは、P/PCのバランスにある。どちらか一方を重視し、もう一方を軽視することは長期的な効果性を弱体化させるだけである。このバランスをP/PCバランスと呼ぶ。本書では何度も登場する原則の一つだ。

組織においてもP/PCバランスは重要である。Pを重視しPCを軽視すれば、短期的なPは達成されるかもしれないが、PCは弱まり、将来的なPを失うことになりかねない。

ここまでが「7つの習慣」の前提となる考え方、「原則」についての原則だ。

第一の習慣:主体性を発揮する

「7つの習慣」の第一の習慣は「自己責任の原則」だ。

今の状況や問題を他人や外的環境などの責任とせずに、自身の責任として引き受けることである。そのためには主体性を発揮しなければならないと著者は言う。 主体性とは「自身の価値観に基づき行動」し、「自分を取り巻く状況そのものを自分で創り出」そうとする率先力を有するものだ。

「人間は刺激と反応の間に選択の自由を持っているということである。この選択の自由のなかにこそ、人間の人間たる''四つの独特な性質<自覚・想像力・両親・自由意志>がある。」(P.84)

何か問題が起きたとき、自分ではどうしようないと思えるような困難な事態に直面した時、人は安易に「どうしようもない」「仕方ない」「○○○でないとだめだ」「○○でさえあったら」というような言葉を吐く。

これらの言葉は「反応的」な言葉だ。主体的に生きる人間は「主体的な言葉」を発しなければならないと著者は言う。「刺激と反応の間」の「選択の自由」こそが主体的に生きる人間性がある。 そして、主体的な言葉が「自己達成予言」となり、自分の人生を自分自身で創り出すという前向きな姿勢を得ることになるのだ。

反応的な言葉と主体的な言葉の対比を著者は以下のような例であげている。

反応的な言葉主体的な言葉
どうしようもない代替案を考えてみよう
生まれつきだほかのやり方が選択できる
あいつは頭にくる自分で自分の感情をコントロールする
そういうことが認められるわけはない果的なプレゼンテーションをしょう
しなくてはならないそうすることに決めた
できない選択する
○○でないとだめだ○○の方がいいと思う
○○でさえあったら私が○○をする

さて、主体性に対する自覚を高めるにはどうしたら良いか?
著者は関心の輪を描くことだと言う。

自分が関心を持っている事柄と関心を持っていない事柄を振り分け、関心の輪のなかに入っている事柄を見つめる。関心の輪のなかをよく見つめればそこには自身がコントロールでき、そして影響をあたえることができるものがあるということが理解できる。

つまり、関心の輪の中には、その中に含まれる「影響の輪」があるということだ。

「主体的な人は、努力と時間を影響の輪に集中させ、自らが影響できる事柄に働きかける。その結果として、影響の輪が大きく広がることになる」(P.103)

私たちの直面する問題には、三種類あると著者は語る。(P.108) 影響の輪を意識し、それを広げるよう自身から主体的に働きかけることができれば、これら三種の問題はすべて解決できる。

  1. 直接的にコントロールできる問題(自分の行動と関係している問題)
  2. 間接的にコントロールできる、あるいは影響できる問題(他人の行動と関係している問題)
  3. 全くコントロールできない問題(誰も影響できない問題、過去の出来事)

これら三種類の問題を解決する第一歩のすべてが、自分の影響の輪の中に入っている。

直接コントロールできる問題
習慣を変えることによって解決される。第一~第三の私的成功に関わる習慣に解決がある。
間接的にコントロールできる問題
影響を及ぼす方法を変えることによって解決される。第四~第六の公的成功に関わる習慣に解決策がある。
全くコントロールできない問題
自分の態度を変える必要がある。

解決の第一歩はつねにわたしたちの手に委ねられているのだ。

では、影響の輪に働きかけるとはどういうことか?

影響の輪の最も中心にあるものは約束をし、それを守る力である」(P.118) 約束をし、それを守ること/目標を設定し、それを達成するために働く、この二つに取り組んでいくことで、内的な誠実さが育成され、自尊心・自制心・勇気が沸いてくる。

刺激と反応の間の選択の自由に主体的に働きかけ、課題や問題は自分自身が状況に働きかけることによって改善・解決していくことができるという信念を持つ。そしてつねにその信念から自身の影響の輪を広げようと働きかけていくこと。 そのための基礎として、「約束をし、守る」「目標を設定し、達成するために働く」を些細なことからでも初めてみる。

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2004/05/05 11:58

2004年05月04日

聖の青春/将棋の子

今日は来週の準備を夕方までして、その後、バスで今出川百万遍まで出向き、進々堂へ。(新進堂ではなかったですね。大間違い)。
今日はこの2冊。僕は将棋は弱い。しかし、「将棋」の世界は好きだ。将棋に全身全霊を捧げる者達の姿や、これまでの定石や常識を覆し、常人には想像も及ばないような思考の世界に生きる天才達。そんな姿や世界に僕はいつもワクワクさせられる。棋界には多くの伝説がある。
将棋を全く知らなくても出来なくても、この2冊はオススメ。読んで良かったと心から思える名作。

聖(さとし)の青春
大崎 善生



おすすめ平均
一つのことを成し遂げる難しさ
命を指した天才棋士。闘病と師弟愛。
やはり泣けました

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村山聖という夭逝した天才棋士の生き様を綴ったドキュメンタリー。村山を支えた魅力的な人達。本を読みながら泣くことは少なくはないけれど、本から目を離してうつ伏さないといけないぐらい泣いたのは初めてかもしれない。
将棋の子
大崎 善生



おすすめ平均
将棋を知らない人も読んでほしい
プロになれなかった少年たちへの応援歌
感動

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こちらは「奨励会」というプロへの登竜門、裏舞台を生きる青年達を描いている。年齢制限というプレッシャー。将棋しかなかった者が突然、社会に投げ出され困惑する現実。表舞台にたてなかった者達の生き様。 今日は天気は冴えなかったけど、この本を読んだあとはすかっと心は日本晴れ。すがすがしい気分に満ちた。

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2004/05/04 21:45

2004年05月02日

フランクリン・プランナーを購入

今年のGWはうまく休みをとれれば大型連休。スタッフの何人かも有休や代休をうまくつかって連休に出来た人も多かったもよう。昨年からかなり過酷労働だったんで良い息抜きになれば良いなと。
僕の場合はいくつか仕事があったりで大型連休とはいかなかったけど、これはまぁ仕方ない。
とは言うものの、今日は休み。

心斎橋の東急ハンズにフランクリン・プランナーを買い行く。
バインダーは以前に社長からもらったバイブルサイズのシステム手帳をそのまま使うということで、
「オリジナル・デイリー・リフィル」と「一週間コンパス、価値観/ミッション、目標設定用紙」のみ購入した。

自分の最大の弱みである「時間管理」をなんとかしたいというのがフランクリン・プランナーを購入したわけ。かなり安易だ。「7つの習慣―成功には原則があった!」は随分前に読んだけれども、正直その時はピンと来なかった。というかこの手の自己実現を目指すとか、より豊かな人生を!みたいな価値観をあまり信じていなかったということがある。ただ、自身の時間管理や計画を振り返って見るとあまりにも杜撰で、ここ数年まったく進歩していないということに情けなくなった。目標としてた英語力のレベルも停滞してるし、この年齢までには最低これぐらいは、と自身で思い描いてたあらゆるレベルにまったく達してない。同居人との生活ではついつい怠惰になり、どうでも良いテレビを見て時間を潰してしまうこと屡々。これではいかんなぁと思ってたところでGMO熊谷さんの本を読んだ。

一冊の手帳で夢は必ずかなう - なりたい自分になるシンプルな方法
熊谷正寿


実際、手帳のことを書いてるのは前半だけなのだけど凄いなぁとかなり感動した。
というか、これだけマメにそして根気よくあらゆるものに取り組んでれば手帳がなくても成功できるんじゃないかという気はするが。
僕は単純なので、なるほど手帳という手があったかと考えた。「手帳」でいろいろと調べ、かなり安易ではあるがフランクリン・プランナーにとりあえず手を出してみようかと。(熊谷さんのオリジナル手帳もフランクリン・プランナーの発想と似てます)

フランクリン・プランナーは普通の予定管理のシステム手帳とは使い方がちょっと違う。まだ僕はよく理解してなかったり。まずは「7つの習慣」を再読。同時に、「人生は手帳で変わる―第4世代手帳フランクリン・プランナーを使いこなす」と「TQ―心の安らぎを発見する時間管理の探究」あたりも読みつつ、最初からあまり気合を入れすぎて3日坊主で終わらないようにそこそこに頑張っていこうかなと考えとります。

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2004/05/02 00:14

2004年04月29日

ザ・リーダー

水曜日は朝一で某大手ECサイトへ今後のコミュニケーション戦略などの提案。やっぱりあの社長は濃い。経験と直感でズバリ物事の本質を言い当ててしまう。その後、新幹線に飛び乗って東京の某大手メーカーとやっているとあるプロジェクトの打ち合わせ。3時間程度の打ち合わせである程度誤解もとれて、一体いままでやってた作業はなんだったんだろうという感じ。でも良い方向に進んだので良かった。GW明けに仕様の提案....

今日、昼過ぎの新幹線で京都に戻ってきた。GW突入ということもありえらく混んでた。新幹線は冷房が効きすぎていて肩が痛くなる。京都駅からバスで事務所へ。事務所に灯りが。誰かと思えばKJ氏。KJ氏に開発してもらってるプロジェクトの打ち合わせが明日あるんで、僕もその資料まとめに事務所にたちよった。KJ氏の開発も大詰めか。

なぜか東京事務所に届いてた本2冊。昨晩はつかれてたので軽めのこちらを読む。

ザ・リーダー
ライル・サスマン, サム・ディープ, アレックス・スタイバー, 服部由美



おすすめ平均
言いたいことは解るけど、三文小説だな
読みやすさ重視
目から鱗が落ちました

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主人公のラリーはとてつもないバカである。びっくりするぐらい紋切り型のバカだ。

リーダーシップとは何かを理解しない主人公ラリーが日常のなかの経験や、尊敬していた先輩から受けた仕打ちなどから、自分の今までの振る舞いを見直し、徐々にリーダーシップを理解していくという小説なのだが、とにかく主人公のラリーがあまりにもアホすぎるのだ。これほどアホな人間がこの物語のなかで巻き起こる「出来事」によって開眼させられて、すぐに良きリーダーになるなんて安易な展開自体が「リーダーシップ」をバカにしているんじゃないかという気すらする。

とはいっても、全く学べるとこがないかというとそういわけでもない。要は、小説形式にしたのが間違いだったのだ。しかし、かといってここに書かれてあることを小説形式ではなく普通に表現すれば、2~3ページもあれば十分に説明に足りる。ここが本書の中途半端なところなのだろう。でも「1分間マネージャー」や「アイディアのつくり方」みたいなまとめ方をすればもう少しは魅力的な作品になったかもしれない。
本書の159ページにポイントがまとめられているけれども、この小説はこの3つのポイントを語っているだけである。

リーダーシップの3つのポイント

1.チームは知ることを必要としている
僕は、自分が作り出そうとしている未来について、はっきりした見通しをもっているか?そして、僕のチームは同じ見通しをもっているか?

2.チームは成長することを必要としている
僕のチームの部下たちは、一年前よりも、チームにとって、会社にとって、そして彼ら自身にとって、さらに価値ある存在になっているか?

3.チームは責任をもつことを必要としている
僕のチームの部下たちは、ただの使用人のように働いているか、それとも僕のビジネスパートナーのように働いているか?

簡単にまとめると「知る」「成長する」「責任をもつ」だ。これ自体には何の反論もない。リーダーシップには重要なことだろう。ただ、あまりにも小説は冗長すぎるし、わざわざラリーみたいなアホなキャラクターを設定して読む気を損なわせてしまうのは勿体無いなぁと思う。

さて、仕事。

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2004/04/29 17:21

2004年04月26日

鉄則!企画書は「1枚」にまとめよ

鉄則!企画書は「1枚」にまとめよ
パトリック・G. ライリー, Patrick G. Riley, 池村 千秋



おすすめ平均
シンプルで非常にわかりやすい

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企画力」のなかに「企画とは人と組織を動かす力」という言葉があった。そう、「企画」とは企てるものであり、その企てによって人と組織が動くものでなければならない。
私達は安易に「企画書をつくる」とか「企画書出して」などと言う。しかし、それらのほとんどは企画書ではないだろう。たんなる計画書、提案書にすぎない。

さて、本書はそんな「人と組織を動かす」ための企画書をつくるためのフレームを与えてくれる。それは1枚の紙にまとめるというものだ。
1枚の企画書で人と組織が動くのか?
ここでも私達は「企画書」は何十枚という色鮮やかなシートや、図解が踊るものだという先入観があるのではないだろうか。それを著者は真っ向から否定する。
企画を判断する立場にいる権力者・実力者にはじっくりと読んでいる時間などない。だから簡潔にまとめなければならないと著者は言う。「人と組織を動かす」ためには「決定」を下さなければならない。「判断」しなければならない。「決定」や「判断」を下すために必要なすべてのことを1枚の企画書に盛り込むのだ。

「1ページ企画書」の構成は8つのパートから成り立つ。

  1. タイトル
  2. サブタイトル
  3. 目的
  4. サブ目的
  5. 理由
  6. 予算
  7. 現状
  8. 要望
  • タイトルとサブタイトルは、企画全体を簡潔に定義する。
  • 目的とサブ目的は、企画の意図を言い表す。
  • 理由は、提案する行動が必要とされる根拠を説明する。
  • 予算は、お金の問題に触れる。
  • 現状は、いまの状況を解説する。
  • 要望は、企画書の読み手にどういう行動を取ってほしいか具体的に書く。
この8つは順番も変えてはならないと著者は言う。この8つを簡潔に、そして完全に満たし、1枚の紙にまとめる。「1枚」というのも絶対だ。1.5枚でも2枚でも駄目。「1枚にまとめる」という制約が、「企画意図をはっきりさせ、余計なものをそぎ落とし、落とし穴を見つけ、思考を研ぎ澄まし、提案を完璧に売り込めるようになるという利点」があると言う。

本書ではそれぞれ8つのパートをどのように作っていくのか、どんなところに注意を払わなければならないのかということを詳しく解説してくれている。解説を読みながら、今、自分自身が考えている企画を整理していくと、1枚企画書の外観はできあがる。
なるほど、確かにこの1枚企画書はMECEだ。この8つのパートを意識し、それらを1枚にまとめらえるよう絞込み、そぎ落としていくという作業を行うことで、その企画の強み、弱みも書き手にはわかってくる。物凄く単純なフレームではあるが有効かもしれない。

本書には、著者が実際にビジネスの現場で提出した1枚企画書が数多く掲載されている。これらを見るだけでも、本書を買う価値はあるのではないかと思う。

さて、この8つのパート、順番は何も「企画書」だけにしか使えないかというとそれはもったいない気がする。たとえば、何かしらのオリエンやヒアリングの後、クライアントの意図や考えていることをこのフレームに沿ってまとめられれば、それは非常に的を得た議事録にもなるのではないか。クライアント側から見た場合にもオリエンシートやRFPなどをつくるときに、このフレームでまとめるという手もあるかもしれない。

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2004/04/26 10:27

2004年04月25日

小説電通

昼過ぎにまたも新進堂でランチ。
ちょっと前、東京駅で買った「小説電通」を読む。読了。
これから昨日する予定ながら手をつけてなかった仕事1つ。

小説電通
大下 英治



おすすめ平均
ノンフィクションとして読むべき

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Amazonのユーザーレビューにもあるけれど、「小説」としての面白さを期待しても仕方ない。フェイクションじゃ書けないから小説という体裁をとったというだけなので、「小説」としての魅力はまったくない。

舞台となっているのは、昭和50年代なので、今とは違うところもあるのだろう。また、ここに描かれている話のどこまでが本当でどこまでが作り話なのかについても正直よくわからない。けれど読めば確かに日本の広告会社の不思議さや、広告会社を取り巻く構造の異常さというものの一端を知るには役立つ。(ま、でもそのあたりの構造的なおかしさは、この小説に拠らなくてもいろんな文献で指摘されていることだけれど)

一業種一社だと「比較広告」が生まれないとか、他社の情報が漏れるとか、全部のクライアントに優秀なスタッフをつけられるわけじゃないだろうとか、そのへんの弊害はよく指摘されるし、これはちょっと考えれば誰にでもわかる。でも、そんな弊害をかかえながらなんでクライアント側は電通に頼まざるをえないのか? それは電通が圧倒的な「メディア支配力」を有しているからだ。本書のストーリーのほとんどはこの「メディア支配力」に絡んだ話だ。電通がいかに強力なメディア支配力を有しているのか、そのような力を得るに至った過程は? そしてその支配力を武器として極めてダーティなことにも手を染める電通....  広告業界の話ではあるが、メディアを中心とした言論や表現といったものが、いかに資本主義の権力の中でがんじがらめになっているかということも、本書を読むとよくわかる。

昨今の世界的なメガエージェンシーの台頭、グローバル化といった広告業界のビックバンは、この小説世界に描かれたような電通をはじめとする広告会社の姿を過去のものとしつつあるのだろう。だからこそ「三一書房」(1984年に徳間書店から文庫化)でしか出版できなかったこのような「タブー小説」がいまや、ぶんか社から堂々と再出版されることが許されたのだろう。

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2004/04/25 16:26

2004年04月24日

ワイルドソウル

先週はヘビーだった。精神的にも疲れた。来週も引き続き精神的にきつい。

昼過ぎに起きて散髪に行く。その帰りに本屋で「ワイルドソウル」を購入。
ほんとは今日は仕事をしようと思っていたけど、どうもそんな気分になれず新進堂に行って「ワイルドソウル」を読み始める。半分ぐらい読んで店を出て、今度は出町柳のデルタに行く。やけに牧歌的な環境のなか、引き続き「ワイルドソウル」に引き込まれ読了まで。

ワイルド・ソウル
垣根 涼介



おすすめ平均
ああ、現代のレ・ミゼラブル
期待以上の面白さ
祝・大藪春彦賞 受賞!

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大藪春彦賞、吉川英治賞のダブル受賞ってことだけれども噂に違わぬ面白さ。一度読み始めたら止められなくなる。緻密に練り上げられたストーリー、周到な伏線、どれをとっても一級のエンターテイメント。純文学の迷宮に彷徨いこんで逡巡するのも小説の楽しみの一つなら、圧倒的なスピードでその物語に溺れるのもまた楽しい。この小説は明らかに後者の楽しみ方を与えてくれるものだけれども、そのテーマは単なるエンターテイメント小説を越えてとてつもなく深い。
しかし、そのテーマの重さや問題の切り口と対比するかのようなブラジルの大地の明るさ、太陽を感じさせるケイの乾いたキャラクタが物語から悪い意味での「しみったれ感」を排除するのに成功していて、それがこの小説の成功のひとつなんだろう。「悔恨」とか「復讐」って言葉にはどうしてもジメジメした感じが付きまとうけど、この小説はむしろ爽快感さえ漂う。

1日楽しみたければ「ワイルドソウル」を読もう。

全然関係ないけど、
10年前の日記が出てきた。1994年4月24日(日)
「天皇賞。B田に買ってきてもらう。昼過ぎD.Aがやってくる。なか卯でめし」
「10時から麻雀。面子はB、H、T。+500円。AM5:00寝る。」

はて、天皇賞は勝ったのだったか。すっかり忘れてしまった。
前日土曜日も競馬だったようで2勝2敗 +7万円だったようだ。
映画「黄色い大地」「北京好日」を観ている。

こうやって十年前に何やってたかを見返してみるというのもなかなか面白い。休日の過ごし方はあまり変わってないなー。

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2004/04/24 21:49

2004年04月18日

パレード

今日は天気が良くてどこかへ行きたい気分だったが、ぐっと我慢で会社に。
今週はかなり大変な一週間になることが予想されるので下準備だ。やろうと思ってたことの半分もできなかったけど、まぁ最悪明日は乗り越えられる準備はできたからまぁいいや。

帰りに三条のブックファーストで吉田修一の「パレード」を買う。

パレード
吉田 修一


帰ったら同居人がお好み焼きを焼いてて一緒に食べた。十分お金がとれるぐらいの出来栄えで二人でかなりでかいお好み焼き二枚をたいらげた。店で食えば1500円はかかるだろう。

2LDKのマンションで共同生活を送ることになった男女五人。各章はそれぞれの視点で描かれる。前半は「共同生活」を通じて青年の空虚な内面やら、満たされない愛の形やらといったありふれた話だが、後半に進むにつれ徐々に物語は暗さを増していく。琴美や未来の章で「ここでの暮らしって、私にとってはインターネット上でチャットしているようなもんなのよね」っていう琴美のセリフがあって、これがそのままこの小説が表現する表側の世界観を構成し、後半の二人ではその視点が相対化される。解説で川上弘美が書いてるように、たしかに「こわい」小説ではある。

阪神はサヨナラ負けだ。

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2004/04/18 23:55

ここ最近読んだ本、備忘録

ブログに書いたもの以外で、ここ最近読んだ本をリストアップ。

ブランド・エクイティ戦略―競争優位をつくりだす名前、シンボル、スローガン
D・A・アーカー , 陶山 計介

今更ながら読んでみた。やっぱり「古典」(「古い」という意味ではなく、「ブランド理論・体系書」としての基礎という意味で)は読んどかなきゃならなんなぁと今まで読んでなかったことをちょっと後悔。


仕事に使えるゲーム理論
ジェームズ ミラー, 金 利光, James D. Miller


おもしろかった。ゲーム理論の本もいろいろ読んだけど、今のところこれが僕のなかではベスト。


マネするマーケティング
岡本 吏郎


前作が面白かったんで読んでみたがこれはどうなんだろう.... この手のマーケティング本はもう食傷気味。


超・営業法
金森 重樹


「行政書士」をターゲットにした「営業」手法・ノウハウ本。特に目新しさはない。


「行列のできるスーパー工務店」の秘密
平 秀信


「工務店」をターゲットとしたいわゆる「神田系エモーショナルマーケティング」。こちらも特に目新しさはない。


イヤな客には売るな!―石原式「顧客化戦略」の全ノウハウ
石原 明


「営業マンは断ることを覚えなさい」で十分という気が...


シンセミア(上)
阿部 和重


ようやく「上」を読了。Amazonの書評に大江健三郎と中上健次の「間」という言葉があったがなるほどなぁと。でも僕個人的には中上は完全に大江を乗り越えたと思ってたんで、なんか「間」を意識するということが文学的な逆行のようにも思えたりする。(「越えた」とか「後」とか「先」なんてのも変な意識だけど)。あと、ちょっとマルケスとかあの当たりの南米系のマジックリアリズムの臭いも...


おめでとう
川上 弘美


傑作短編集ですね。最近小説をきちんと読んではいなかったけど、やっぱり川上弘美は凄い。

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2004/04/18 02:47

2004年04月11日

ディボース・ショウ/「8つの感情」/「ブランドマーケティングの再創造」

コーエン兄弟の新作「ディボース・ショウ」を観た。やっぱりコーエン兄弟。安定感あるなぁ。面白い。でも、コーエン兄弟の映画ってなんであんな「変な顔」の人ばかりがでてくるのか....? 

そのまま四条界隈をぶらつき、

を購入。

「8つの感情」のほうは、「あのブランドばかり、なぜ選んでしまうのか――購買心理のエッセンス」に構成や展開がそっくり。と思ってたら、なーんだ、この著者二人は「あのブランドばかり、なぜ選んでしまうのか」の訳者なのね。「あのブランド~」の事例を日本の事例に変えた本という感じ。

ブランドマーケティングの再創造
J・N・キャップフェラー , 博報堂ブランドコンサルティング
価格 ¥ 2,100 [ 定価 ¥ 2,100]

「ブランドマーケティングの創造」はブランド理論の権威カプフェレ教授の日本初翻訳本。前半のポジショングとターゲティングを基礎とした製品ブランドから、信頼性や信用を重視するコーポレートブランド(傘ブランド)への流れ/融合の話は面白いんだけど、Part3の「ポスト広告時代のブランド」はなんか聞き飽きたという感じのことで、それがちょっと残念。
Part1~Part2を読んどこう。
あ、博報堂ブランドコンサルティングが監訳だったのかぁー。

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2004/04/11 18:49

チームが絶対うまくいく法

チームが絶対うまくいく法
デイヴィッド・ストラウス , 斎藤 聖美
価格 ¥ 1,575 [ 定価 ¥ 1,575]


Amazonで詳しく見る4532311276

同著者の前作「会議が絶対うまくいく法」も読んだが、こっちはあまりピンとこなかった。ファシリテーターの重要性や役割はよくわかったけど、そのレベルですぐにこの方法や考え方を取り入れようという気にはならなかった。でも本書のほうはかなり刺激を受けた。もしかすると、本書を読んでから前作を読んだほうが前作の魅力も増すのではないかという気がする。ということで、今、前作を再読中。

組織、チームでいかにして意思決定を行っていくのか、問題を解決していくのか、ということはここ最近の僕の悩みの一つだったわけだけど、この本を読んで少し光が見えた気がした。

著者は、協調型の問題解決法として「コラボレーション」という言葉を使っている。「コラボレーション」で大事なのは、関与者(ほぼ)全員の納得・理解を得るということだ。きちんとした「コラボレーション」が行えれば、それは可能だ、と著者らは言う。
そのポイントは「コラボレーション」における「プロセス」だ。

特に「プロセス」において僕が意識していなかったのは、コンセンサスを築いていくためには、「1つずつ段階を踏んで」いかなければならないという前提だ。
ここでは、6つの段階が提案されている。コンセンサスづくりでは、この段階の1つづつで関係者全員の合意を得ていかなければならないわけだ。

第一段階:認知
問題があるのか? それをどう感じているのか。問題をオープンに話してかまわないのか。
第二段階:定義
問題は何か。その範囲や境界線は?
第三段階:分析
なぜその問題が存在するのか、その原因は何か。
第四段階:解決案リストの作成
問題解決のために考えられる案は?
第五段階:評価
解決策はどのような基準を満たすべきか。どの案が他よりも優れているか、あるいは受け入れられそうか。
第六段階:意志決定

どの解決案なら合意を得られるか。どの提案なら実行可能か。

最初の三段階を「問題領域」、その次ぎの三段階を「解決領域」といい、実は「コンセンサスづくりの大半は、問題領域で行われる。」(P.81)

個人的に特に強く意識しなければならないと感じたのは、第二段階の「定義」だ。問題をどう定義するかによって、「解決領域」の取り組みは大きく変わってくる。たとえば、問題を「売掛債権回転率の上昇をどう抑えるか/改善させるか?」と定義するのと、「キャッシュフローの悪化を防ぐには?」と定義するのとでは、解決案の検討もまったく違ってくるだろう。後者なら原因の一つとして「売掛債権回転率」があげられるかもしれないが、前者なら原因は「支払いスパンの長い1企業への売上依存度が高い
ということになるかもしれない。そのようにして諒解が得られた「定義」は、「解決領域」での議論の範囲を決定づけ、解決の方向をも決めてしまう。

ちなみに、著者らは本書で「問題」、あるいは「問題解決」をとても前向きな言葉で利用している。「問題」というと、何かマイナスのものと考えてしまいがちだが、そうではない。問題とは「誰かが変更したいと思う状況」であり、つまり問題解決とは、「状況を変更すること」、つまり何か行動すること、(P.30)だと定義している。
この考え方は実は、「問題解決」といったものに取り組む際に、前提となるものだろう。「問題」をどう定義するかによって、それは重苦しく厄介なものと映る場合もある。「問題」をそのように捉えるのと、「問題解決」は自分達が日々行ってることであり、それは企業、組織活動にとっては当たり前のものなのだと考え、実行に移していけるのとでは、当然後者のほうが良い解決が得られるのではないか。

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2004/04/11 09:50

2004年03月30日

企画力 「共感の物語」を伝える技術と心得

企画力 「共感の物語」を伝える技術と心得

企画力 「共感の物語」を伝える技術と心得

役員会議の休憩中に、監査役の方から薦められた本。
その場でAmazonで注文したら今日届いた。スグに読める本だけれど、すごく面白い。文章も明快で、一文一文がしっかりと伝わってくる。

僕は「企画書」の書き方、HowTo系の本や、図解手法の本は手当たり次第買ってた時期があるので、かなりの数持っている。
それらの本で得た技術・技法的なノウハウや代理店さん経由のプランニングのお手伝いをたくさんやったお陰で、企画書や提案書類をつくるのは得意なほうだ(と、自分では思い込んでいた)
それっぽいものをつくって、自分には「企画力」があると勘違いしていたところがある。

が、本書を読むと、自分が書いてたものなんて「企画書」でもなんでもなく、それは「計画書」にすぎなかったんだな、ということを思い知らされた。

企画のアイディアや表現のテクニックのもっともっと根本にある「企てる」という最も重要なことを忘れてしまっていた気がする。そう、本書のサブタイトルにもある企画の「心得」の部分がすっかり抜け落ちてしまっていたのだ。反省。

ちょっとしたアイディアやポイントの整理を、凝った図で表現して、なんとなく「企画書」をつくった気になっていたわけだが、これはとんでもない間違いだ。

著者は冒頭で「企画力」を「人と組織を動かす力」だと定義する。つまり、「企画書」をつくるときは、何かアイディアや考えを立案するということではなく、その企画書を通じて人が動き、組織をも動かすものでなければならない。「企画」というは立案と実行が表裏一体の関係にあり、どちらかが欠けてもまったく意味のないものなのだ。

この短い本のなかの一つ一つの言葉には、まさに「企画力」が詰まっている。読者を本文に引込み、一気に最後まで読ませてしまう力。そしてここで語られたことを実践しようという気にさせてしまう力。
「企画書」に必要なのは、豊かな図解の表現や技術などではなく、まずその力だろう。

本書の各章のタイトルはそのままこの本の要約になる。次ぎに「企画書」を書くときに忘れないように記しておくことにする。


  • 人間と組織を動かす力 それが、企画力

  • 企画とは、実行されて初めて企画と呼ぶ

  • 企画力とは「物語のアート」である

  • 「最高の企画書」とは「最高の推理小説」である

  • 「知識」を学んで「知恵」を掴んだと錯覚するな

  • 「企画書」においては「企み」を語れ

  • 「何を行うか」よりも「なぜ行うか」を語れ

  • タイトルで「企み」を語る それが、最高の「掴み」

  • これから何が起こるのか その「ビジョン」を語れ

  • 「企み」を「戦略」に翻訳せよ

  • 読みやすい企画書は「自問自答」のスタイル

  • 読み手の「思考の流れ」を導け

  • 「三の原則」を用いて 企画書をつくれ

  • 企画書は「一人歩き」すると思え

  • 顧客企業の担当者は「同士」である

  • 「攻め」だけでなく「守り」に強い企画書をめざせ

  • 「表の企画書」だけでなく 「裏の企画書」をつくれ

  • 企画書とは「営業の品質管理」である

  • 営業担当者を企画会議に参加させよ

  • 没にした企画の数が企画の凄み

  • 顧客の心を読み、言葉を選び 迷いを捨てよ

  • 企画書は読み終えた一瞬が、勝負

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2004/03/30 02:21

2004年03月28日

ビックボーナス&カルト資本主義

昨日、ひさびさに本屋に。
「ユリイカ 2000年6月増刊「田中小実昌の世界」「カルト資本主義」(斎藤 貴男)、「ビッグボーナス」(ハセベバクシンオー)、「ベンヤミン・コレクション〈3〉記憶への旅」(ヴァルター ベンヤミン)、「時間と存在」(大森 荘蔵)を購入。

とりあえず「ビッグボーナス」と、「カルト資本主義」を読んだ。
「ビックボーナス」は、「このミステリーがすごい!大賞」の読者賞・優秀賞を受賞した作品。大森望さんとかが絶賛していたので期待したのだけれど、正直期待はずれだった。自分がパチスロやらないからというのも理由の一つだろうけど、「詐欺師」の世界を扱うなら、もっと巧妙に、精緻な世界を見たい。このレベルだと簡単に想像が及ぶ範囲で、逆にリアリティがないような気がした。

「カルト資本主義」は、題名通り。「カルト」にはまる企業や政治の裏側を描いたもの。SONYの「エスパー研究所」や、京セラ「盛和塾」、「微生物EM」、「船井幸雄」、「ヤマギシ会」など、8つの物語をとりあげている。とても面白く読めた。

「カルト」にはまることがそのまま悪だと考えてしまうことも一つのイデオロギーだろうが、「カルト」にはまってしまったがゆえに、常人であれば容易に想像できることができなくなってしまう。そこが問題なのだと著者は問うている。

例えば、京セラの稲盛さんが阪神大震災を「積み重ねられたカルマを清算するために、今度のような大震災が起きたとしか思えません」と語るとき、そこには震災で不幸に見舞われた人達への眼差しが決定的に欠けている。(この発言だけとりだしてなんやかんや言うのは危険だが)

カルトへの傾倒が、優生学的な思想や権威主義、民族主義を容易につながっていく。そしてそれが極めて危険な思考であることを視えなくしていまう。そこには危険がはらんでいると著者は問う。

世界には人知が及ばないこともたくさんあるだろうし、僕個人としては、カルトそのもののについては否定も肯定もしない。しかし、何の根拠も合理性もなく、実証不可能性を都合を自分の都合の良いように解釈し、それを敷衍しようとするような活動や考え方には嫌悪感を覚える。

じゃぁ本書を読んで稲盛さんを軽蔑するかというと、そういうわけではない。やはり稲盛さんの経営観は好きだ。彼が生み出した経営スタイルは凄いと思う。しかし、好きだからといって、稲盛さんを神のように崇め、その言葉をグルの言葉のように信じきってしまうということはしない。多分、そういうバランスを持っておくことが重要なのじゃないかと思う。

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2004/03/28 16:00

2004年03月27日

BK1の本へのリンクを簡単に

00022568500 Can't connect to cgi.bk1.jp:80 (Bad hostname 'cgi.bk1.jp')

bk1のブリーダーになってはいたものの何もしていなかったのだけど、mt-bk1.plが便利そうだったので入れてみた。テストも兼ねて、好きな本を紹介してみる。

保坂和志さんのデビュー作。僕は講談社文庫のほうで初めて読んだ。「草の上の朝食」とセットになってるやつ。今でも年に何回かは読み返す。この小説に出会って良かったと心から思う。そんな小説はあんまりない。とくに何か事件が起こるわけでもなく、ひょんなことから共同生活を始めることになった人達の生活が描かれているだけの小説。でも、ここに登場する人達の考え方や、世界の捉え方は、ものすごく素敵だと思う。

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2004/03/27 15:23

2004年03月21日

伝わる・揺さぶる!文章を書く

伝わる・揺さぶる!文章を書く

伝わる・揺さぶる!文章を書く

タイトルだけで想像すると文章のテクニック・技法を説明した本かと勘違いする人もいるかもしれないけれど、そういう本ではない。
「本書で目指す文章力のゴール」を著者は「あなたの書いたもので、読み手の心を動かし、状況を切り開き、望む結果を出すこと」だ。つまり「機能する」文章を書く、そのための「考え方」「考えるための方法」をレクチャーしている本なのだ。
ここで説明されている考え方は、文章を書くときだけに使える限定されたものではなく、より広くいろいろなところで役に立つはずだ。あらゆるコミュニケーションの場面で何かしら得るものがあるだろう。

文章の7つの要件
「機能する文章」を書くための要件として、著者は以下の7つを上げる。


  1. 意見
    意見とは、自分が考えてきた「問い」に対して、自分が出した「答え」である。(P.41)
  2. 望む結果
    「何のために書くか?」結果をイメージすること(P.54)
  3. 論点
    「論点」とは、文章を貫く問いだ(P.64)
    論点と意見は、問いと答えの関係にある(P.70)
  4. 読み手
    読み手が誰なのか、どんなことを考えるのか、相手の立場や相手との関係を考えること。「相手にわかるか?」「相手が興味を持てる内容か?」「相手にこれを読むとどんな意味やメリットがあるか?」「相手はどんな人か?」「「相手は今、どんな状況か?」「これを読んで相手はどんな気持ちになるか?」
  5. 自分の立場
    自分の立場、相手との関係を俯瞰的に見ること
  6. 論拠
    説得力は論拠から生まれる。自分の都合の良い理由だけを並べてもそれは「論拠」にはならない。
  7. 根本思想
    この発言に向かわせている根底にある思い(P.106)O

仕事上、メールを書くことは多い。
メールを書くとき、そこには当然「目的」がある。
社員に向けたメールを書くときには、そのメールを読んで社員がどうなって欲しい、どう考えて欲しい、どんな風に行動して欲しいという願望がある。しかし、それをきちんと考えメールを書くことは少ない。
本書を読むと、いかに自分が適当に、そして安易にメールを書いてきただろうと悔やまれる。

「論点」の絞込みが甘く、途中で脱線して結果的に自分の言いたいこをを一方的に書いてしまったり、最も論で「論拠」を片付けてしまったり、そもそもこれを読んでその人にどんな風に行動して欲しいのか、考えて欲しいのかという目的自体を忘れてしまい、結果的にただ人を嫌な気分にさせるだけだったり。

それで読み手が「理解してくれない」とか「誤解している」とかって一人愚痴たり。とんでもない大間違いだ。「伝わらない」のは相手が悪いからではない。文章が下手という理由だけでもない。「機能するため」の文章に必要な要件を曖昧にしか満たしていないからだ。より深く、より俯瞰的に考えていないからだろう。

今度から、文章を書くときには、一旦この7つを必ずチェックし、十分に考えてから書くことにしよう。

といいながら、えらく軽くこんなエントリーを書いてたり...

ちなみにこのエントリーは僕は、一番の読み手を僕自身に置いている。今度文章を書くときに忘れたら、このエントリーを読み返すことで戒めたいという思いがあるわけだ。(にしては、尾ひれ/背びれが多いけど)
ただ、それを一般に公開されるブログに書くということで、ある程度不特定多数の人が読むことをも考慮に入れている。
このエントリーを読んだ人がこの本の存在を知り、多少なりともこの本に興味が沸けばいいなと思って書いている。

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2004/03/21 02:38

2004年03月16日

ホリスティック・コミュニケーション

ホリスティック・コミュニケーション

ホリスティック・コミュニケーション

アクティブ・コンシューマーが大きな影響力を持つ時代における広告や販促のあり方とは何か、ということを広告の最前線で活躍するクリエイターが語っている本だ。

アクティブ・コンシューマーとは、自らが積極的な情報の発信源となり、自分の気にいったもの、面白かったもの・ことを多くの人と共有していく新しい消費者像であり、それは今までマーケティングが捉えてきた「ショッピング・マシーン」的な存在とは異なる。
アクティブ・コンシューマーという存在を前提とした時のマーケティングは、「AIDMA理論」では通用しなくなり、「AISAS」になるのではないかと著者らは問う。

実は、「AISAS」という言葉は、本書を読む前に、あるクライアントの口から聞いて面白いなと思っていた言葉だった。出典はここだったのか。
「AISAS」とはAttention→Interest→Search(検索)→Action→Share(意見共有)のこと。今後のマーケティングは「Share」まで含めて、企業が生活者とどのようにコミュニケーションをとっていくかという観点が必要だという。

確かにデジタルメディアの発達は「Share」の影響力を強めた。デジタルネットワークは「口コミ」の速度を速めた。また、ブログもそうだし、2chなどの巨大掲示板・コミュニティもそうだが、個人が簡単にメッセージを発信し、多くの人と共有することが可能となった。

ただし、「AIDMA」にあった「Desire」や「Memory」がなくなってしまった、あるいは影響力が低下したとは一概には言えないのではないかと思う。(そのことは著者らも語っていることではあるけれど)
「Memory」にも一時的な記憶と、長期的な記憶があるだろうが、ブランド形成には長期的記憶をどのようにつくりだしていくか、想起性を高めるかといったところはむしろ影響力を増しているのではないだろうか。
ただし、この「Memory」は、「AIDMA」という購買への心理過程にあるのではなく、企業と生活者の関係・コミュニケーションのなかで構築していかなければならない前提として存在することだろう。

「Share」までを含めて、企業と生活者の関係を包括的にデザインすること、そして情報の流れ(企業→生活者/生活者→企業)を立体的に捉えていくこと。このようなマーケティング観を、「ホリスティック・コミュニケーション」という言葉で著者らは語っている。「ホリスティック・コミュニケーショ」あるいは、「ホリスティック・マーケティング」という言葉は、著者らの言葉ではなく、ここ近年の広告業界のキータームだ。それは「インテグレイテッド・マーケティング(統合型マーケティング)」などといった言葉とも近い概念で、要はある単独のメディア、あるいはある単独のメディアとそれに何かしらのメディアを絡めるというようなマーケティング発想ではなく、企業と生活者の関係全体をどうデザインするかという視点から「メディア・ニュートラル」の立場からコミュニケーションを創造していくという考え方だ。
また、「複数のメディアを組み合わせて」という部分だけで考えると、もともとメディアは存在していて、その組み合わせの最適化、組み合わせの妙がプランニングの前提となっているようにも受け止められかねないけれども、それも視点としては古い。それは旧来のメディアプランニング・クリエイティブの発想だ。

「ホリスティック」という概念では、生活者を取り巻く環境全体を通じて、どう情報をデザインするか、情報の流れをどう最適化するのかということが問われる。そこにはメディア自体を生み出していくという考え方させ内包されているのだ。つまり、クリエイティブのなかに「メディア」の創造、コミュニケーションの創造が含まれてしまうということだ。

ホリスティック・アプローチは、広告とか販促という領域を定めない考え方ですよね。むしろその連動を新しくデザインしていかなければならない。それができるのは、実は、クリエイターだけではないかと、僕は思うんです。(杉山:P.104)
「クリエイティブ力」とは、ここで言われるような「連動」や「関係」、あるいは下の引用で登場してくる「立体的な風景(ランドスケープ)」をデザインしていく力だということなのだろう。逆に言えば、それができなければクリエイターではないということだ。
消費者との関係で、メディアとメッセージをどのようにミックスしていくかということを、具体的に考えてみたんですが、一つは、商品のデザインから始まってパッケージ、ディスプレイ、POPなど、商品の流れに沿ったコミュニケーションがあるでしょう。それ以外に、もう一つ、情報の流れに沿ったコミュニケーションもあります。マス・メディアとか、PC、モバイル、OOHといった多様なメディアで、デザインやコンセプトを統一させながら、消費者のコンタクト・ポイントに応じて、クリエイティブやメッセージ表現を変えて発信していく。こういう立体的な風景(ランドスケープ)づくりというものが、これからの情報装置としての広告に必要になってくるのではないでしょうか。(秋山:P.142)

広告会社の一線で活躍するクリエイターの意識は、こういうところに向かっているのかとちょっと驚いた。広告会社にとってクリエイティブ力はもっとも重要な競争力の源泉だということは、多くの人が語っていることだが、ここで言う「クリエイティブ力」という言葉が照射する範囲は、僕が個人的に考えていた、規定していイメージよりもっともっと大きなものだったのだ。

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2004/03/16 00:52

2004年03月14日

凡人が最強営業マンに変わる魔法のセールストーク

凡人が最強営業マンに変わる魔法のセールストーク

凡人が最強営業マンに変わる魔法のセールストーク

本書はセールス手法、テクニックについての本だ。本書の最後で著者は「マーケティング」が終わった後に始まるのが「セールス」だというようなことを言っている。つまり、見込み客を集めたり、ユーザーの興味を惹いたり、問い合わせをもたらしたりするところまでがマーケティングで、そのキッカケをクロージングにつなげるのが「セールス」。なので、本書のテクニックにいくら磨きをかけても、「問い合わせ」が1件もなければ、顧客は獲得できない。ということを前提としても1300円の価値は十分ある本だと思う。特に対面での販売を行うような業種、業態では有用と思われる実践的テクニックがいくつか紹介されている。

内容としては、「売り込まなくても売れる! ― 説得いらずの高確率セールス」と、ほぼ同じようなことを語っているけれども、より日本の風土にあっているという感じはした。「高確率セールス」にもなるほど!と思うところは少なからずあったけれども、それをこのままやっても多分日本じゃぁ通用しない。本書のほうは全てではないけれど、具体的に現場で利用できるイメージは持てた。つまりアレンジせずにそのまま明日の営業活動からでも使える、という確かな実感が本書にはあったわけだ。そこは大きな違いだ。

具体的なイメージを抱けたというのも、それは、
魔法のセールストーク・4ステップ」として示された4つのステップのうち、ステップ1とステップ2については、ボク自身が無意識的にやっていたからかもしれない。

今日、○○○なわけですが、いまの×××に何かご不満でもおありなのですか?

という質問を投げかけるというのがステップ1だ。
このステップは単純な話、お客さんの本当のニーズを知るためにある。著者は、「お客はドリルを買いたいのではなく、穴を開けるという結果を求めてる」という例で説明している。(この例は、マーケティングの話ではよく出てくる。原典は、おそらくT・レビットだと思うけど、どうなんだろう?)
お客さんは本当に自分が欲しいものをしらない。

「○○○していただこうとすると、だいたいいくらぐらいかかりますか?」
「御社では○○○○業界でのコンサルティング実績などはありますでしょうか?」
お客さんがこんな風に聞いてきたとき、どう答えるか?先の穴あき文例の穴をそのまま埋めればいい。

「今回、○○○○するための費用についてお尋ねになられているわけですが、何かお困りのことでもおありなんですか?」
「○○○○業界についての実績を聞かれていらっしゃるわけですが、何かお悩みのことでもおありなんですか?」

こんな風に返す。ここからお客さんの本当のニーズに遡っていくキッカケをつくるわけだ。

「ウェブサイトをリニューアルしたいのだけど、いくらかかるんだろう?」と聞いてくるお客さんは多い。こんなとき「何ページぐらいですか?」「どんな機能が必要ですか?」と聞くのではなく、「ウェブサイトをリニューアルしたいということですが、現状のウェブサイトについて何かお困り、お悩みのことがおありなんですか?」と訊いたほうが良いわけだ。

そして、ステップ2ではお客が語る言葉をより具体的に、より深くつっこんでいく。その行為を著者は、

  1. お客の語る言葉の「あいまいな表現」を具体的にする質問
    「たとえば?」
    「(もう少し)具体的に言うと?」
  2. 根拠を聞きだす質問(極端化)
    「○○だと、何か××すぎるのですか?」

の二つの質問パターンとしてまとめている。

この二つのステップについては、ボクも近いことはしていると思う。
ボクが意識しているのは、「それはどういうこと?」と疑問をどんどん遡っていくことだけだ。
お客さんが語る表面的な悩みや課題ではなく、その悩みや課題をもたらしている根源的な問題をつきつめるようと、質問を続けること。意識しているのはそこだけなのだが、結果的には著者の考え方に通じているところはある。

ただ、ステップ3についてはボクはあまり得意ではない。ここらを曖昧にしてしまう癖がある。ステップ1と2で疲れてしまって、ここらでいいかと自分で見切りをつけてしまうのだ。ステップ3は「お客の要望を整理して、相手に確認させる」ステップであり、ステップ4は、「お客の欲求を持たしている部分、満たしていない部分を明確にしたうえで、提案内容を説明する(P.104)」ステップだ。ステップ3で出来ないのは、「本当に、これで確かですかね?」という念押しだ。うーん。これってやっぱり必要なのだろうか。あと、最終ステップに進む前に「優先事項を聞いておく」ということ。これは多分、重要だろう。ステップ4において、予算内ですべての課題を解決できる提案を行えることは少ない。この場合、提案時に実施フェイズを分けていくなどの提案を行うわけだけど、当たり前ながらヒアリング時にきちんと最優先事項は聞いておかなきゃならない。

魔法のセールストークも面白かったけど、個人的に一番興味深かったのは、なんといってもお客さんから予算を聞き出す方法。これは早速次からでもやってみよう。本書では予算を聞き出す方法と、その聞き出した予算から、アッパーリミットギリギリのラインと、予算としては割安感を感じることができる価格帯を導き出す簡単な方法を教えてくれる。
特に、そこに根拠があるわけではなく、著者自身の経験からでききたある数値の掛け算をするだけなのだが、自分がクルマを購入したときや、家を探すときなどの例を思い浮かべて、そのとき自分が口にした予算にその数値をかけてみると、確かにその通りだった。
興味がある人はそこだけでも立ち読みしてもいいかも。

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2004/03/14 01:27

2004年03月02日

小さな会社は「1通の感謝コミ」で儲けなさい―まごころを伝えるはがき、FAX、メールの総活用法

小さな会社は「1通の感謝コミ」で儲けなさい―まごころを伝えるはがき、FAX、メールの総活用法

小さな会社は「1通の感謝コミ」で儲けなさい―まごころを伝えるはがき、FAX、メールの総活用法

今日は九州出張。朝一で京都を出て、新幹線での日帰り往復。
京都からだと新幹線の方が楽だ。乗り換えが要らないので、一定時間考え事ができるし、本も読める。ということで、行きの新幹線でこの本を読んだ。(残り時間はほとんど爆睡してました...最近ある理由で睡眠時間が異常に短いのです。先週は1日あたり平均2時間ぐらいしか寝られてなくて、ふとした折に睡魔に襲われて、移動中などはコトンと眠りに落ちてしまう)

帰りは別の本を読んだのだけれど、そちらの本とこの本の対比が面白かった。帰りに読んだ本についてはまた機会があったら書くが、本書の竹田さんの考え方と全く違う考え方が展開されていて、それはそれで面白かった。

ところで、ボクがランチェスター理論(法則)に出会ったのは東京に出たばかりの頃だから7~8年前になるだろうか。神田の古本屋街を流していたときにサンマーク出版の「ランチェスター販売戦略」(田岡信夫さん)のシリーズがまとめ売りされていたのを手にした。ずいぶんと古い本だけれど、その理論には少しも古くささを感じず、夢中になって読んだ。(古くささを感じなかったのは単にボクが、ランチェスター理論について無知だったからかもしれないけど)

ランチェスター理論は不況になるとブームになるなんて言われているらしい。今、竹田さんの本に注目が集まるのは時代の要請ってところもあるのかもしれない。

田岡さんの「ランチェスター理論」は、「マーケティングの科学」的側面がかなり強く、戦略部分に重きが置かれているけれど、竹田さんの「ランチェスター理論」には、根本に「経営とは何か」「会社とは何か」という命題があり、そこから「会社のあり方」としてのランチェスター理論が提唱されている。

竹田さんの本は、「小さな会社・儲けのルール―ランチェスター経営7つの成功戦略」と、本書しか読んでないけれど、ボクはこの人の考え方にはすごく共感できる。それは竹田さんの考え方の根本にある部分に共感できるからだろう。

竹田さんの考え方の中心・根本にあるのは「会社は粗利益で生きている」「粗利益はお客からしか生まれない」「しかし、商品をどこで買うかはお客が100%決める。こちら側には1%も決定権がない」という至極当たり前の事実だ。

この当たり前の事実がある以上、会社経営とは、「お客を出発点にして」どのようにお客を獲得し、維持していくのかということを考え、実践していくことだ。これらに全力で取り組まなければならない、と竹田さんは説く。

経営要因をまとめると、以下の4大要因になる。この4大要因はランチェスターの法則の応用からウィイト付けできる。


  1. 営業関連(地域、客層、営業方法、顧客維持):53%
  2. 商品関連(有料のサービス):27%
  3. 組織関連:13%
  4. 資金関連:7%

「1」と「2」をまとめて「お客作り関連」とすると「80%」になり、「3」と「4」をまとめ「内部関連」とすると「20%」になる。「お客作り」と「内部関連」は「4:1」のウィイト配分にしなければならないわけだ。

つまり、1日あたりの業務時間を仮に10時間と考えた場合(普通8時間だろうけど、この業界だと10時間以上はざらだと思うんで....というようことを言ってると御上からお叱りを受けるけど)、8時間は「お客作り」に費やさなきゃならないということだ。
また、当然資金を投入する際にも、この比率が参考になる。「お客作り」に関係する部分にはケチってはいけない、というのが竹田さんの主張だ。

たとえば、電話やFAX。電話しても話中がないようにするために余裕をもった回線を引きなさい、電話やFAXはお客との重要な接点なのだから、そこをケチっていては経営は成り立たないと竹田さんは言う。
そういえば、うちの会社も最近時々話中になることがある。FAXも1台しかないけれど、ページの修正依頼などが大量に舞い込むときには、通話中になることが多い。このあたりは見直しが必要かも。

「お客作り」に関係することを「お客視点」から総チェックして、出来る限りお客に不便を与えてはならない。竹田さんの人間性や人柄が伝わってくる熱い主張だ。たとえば電話の取次ぎも、「お名前は?」「要件は?」というような確認をとらず、すぐに担当に取り次ぐこと。マナー研修では、必ず「お名前」「ご要件」の確認という「取調べ」を教えてもらうけれど、中小企業は、そんな必要はなく、すぐに取り次ぐべきだと竹田さんは言う。さらに、「古参」の社員から電話をとるようにしないさい、とも言う。

こういう主張に接すると、うちの会社などもしかしたら大企業病に罹ってしまう一歩前なのかもしれないと不安になる。電話をとるのは決まって新人だ。、新人が電話をとって、きちんと要件を聞いてから取り次ぐ、なんていう大企業ルールが適用されてしまっている。
これはボクらマネージャーの意識の問題なんだろうな。取り次がれて電話に出たら先物取引の営業や、求人の営業だったりして嫌気が差したりするのだけれども、考えてみれば、当然「お客さん」からの電話の方が圧倒的に多い。営業の電話を断るのだって3分もかかりはしない。なのに不要な電話に出てしまったことが最悪の事態かのように新人を叱ってしまったりする。これは猛省しなくては。

新人は取引先やお客の名前を知らないけれど、古参の社員になればなるほど、そのあたりの知識も豊富なわけなので、ちょっと気の利いた一言だって発せるかもしれない。取次ぎなどもないのでお客さんに不便をかけたりすることもない。上のものが積極的に電話に出るというのは中小企業なら「当たり前」のことかもしれない。「当たり前」のことが出来なくなる、わからなくなるというのは、危険な兆候だ。

本書では、このウェイトの重い「お客作り」に関して、特に「お客の維持」部分についての戦略と戦術を詳しく解説している。
タイトルどおり「感謝コミ」という「感謝」のコミュニケーション量をいかにして増やすかということだ。
たとえば、面白いのは「報・連・相」を実行するときの1番目の対象は「お客」でなければならない(P.94)、なんていう意見。この考え方には「はっ」とされられるものがあった。1番が「お客」。2番目が「上司や社内の関係者」。3番目が「仕入先」。こんなことは考えたこともなかった。このあたりも目からウロコという感じ。

P.97~110にかけていろいろな業界やシーンで「お礼状」を出しているかどうかというアンケート結果が掲載されているのだけれど、この結果を見ると、確かにきちんと「感謝コミ」を実行すれば、それだけでもお客からは驚かれ、喜ばれるだろうなということが想像できる。
そういえば、この業界では知ってる人も多いだろうけれど、今は買収されてしまってなくなったあるメール専門の広告代理店の社長は、お会いしたときや、何かの折には必ず自筆の熱いメッセージが書かれたFAXを送ってきてくれた。(あえて名前を出さなかったけど、わかる人にはわかるよね) 初めてFAXを受け取ったときには、かなり驚いたし、その方の人柄やマメさには関心したものだ。一度FAXを受け取ったら忘れないし、誰かに紹介する時も自信を持って紹介できる。あれも一種の「感謝コミ」なのだろう。

「感謝コミ」の実行は多分、むちゃくちゃ大変なことだ。大変なことだからこそ効果があるのだろうが、これを実行し続けていくことはかなり難しいだろう。たいていの場合、日々の業務に負われて、できなくなってしまうんじゃないだろうか。なので竹田さんは「感謝コミ」を日常業務の一部として習慣にまでしてしまわなければならないと語り、そのための考え方と方法を説明している。
竹田さんは、「感謝コミ」が実行できるかどうかは社長に責任があると言うが、まさにそうだろ。社長(あるいはそれ相応の地位にいる人)が「感謝コミ」の環境や仕組みをきちんとつくって実践していかなければ、社員やスタッフが出来るわけがない。社長やマネージャー陣の責任は重い。

本書を読んでいろんな面でかなり反省させられるところがあった。単なる反省に留まらず、会社内の知識としてきちんと理解し、行動に移せるように、まず出来ることからマネージャー陣が率先してやっていかないとなんないなぁ。

マネージャー陣、本書はぜひ読んでくだされ。CSもね。
(これは身内に向けたメッセージ)

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2004/03/02 00:25

2004年02月29日

「紫の牛」を売れ!

「紫の牛」を売れ!

「紫の牛」を売れ!

セス・ゴーディングの新刊だ。
「紫の牛」とは「PURPLE COW」、つまり、「常識破り」な製品のことだ。セスは「紫の牛」こそがマーケティングの4Pに新たに加わる「P」だと言う。
いまや誰も製品や広告に注意を払わない。これは「パーミッションマーケティング」の時からのセスの一貫した主張だ。そんな世界におけるマーケティングは単に製品を売る、販売するというものではなく、製品そのものに人々の注意を集め、話題を起こさせるような「常識破り」のものがなければならない。

製品のマーケティングの成功そのものを製品自体に組み込む、市場中心のデザインである。

[略]

製品を考案し、デザインし、それに影響を及ぼし、状況にあわせて調整し、最終的に破棄することができないマーケターは、もはやマーケターとは言えない。ただの、でくのぼうだ。(P.130)

「マスマーケティング時代」ではアーリー・マジョリティ、レイト・マジョリティーをターゲットとしていた。「キャズム」ではイノベーターやアーリー・アドプターと、アーリー・マジョリティの間にある溝をどう乗り越えるかということがテーマになっていたわけだけれど、(ちなみに、このキャズムの考え方だけれども、「製品ライフサイクル」理論では、市場シェア10%前後の頃に、プラトー現象という頭打ちの状態がある。ボクは「キャズム」と「プラトー現象」は多分同じものだと思うんだけど。違うかいな?)
キャズムを乗り越えて、マジョリティに製品が受け入れられるようになると、企業は莫大な利益を得ることができる。

こういう考え方の場合、マジョリティに価値があると考えてしまいがちだれけれども、セスは、価値が高いのは、イノベーターやアーリー・アドプターだという。彼らに注目され、熱狂的に愛され、口コミが誘発されるような「常識破り」なものを生み出さなきゃ、「キャズム」を超えることはできないよ、というわけだ。
イノベーターやアーリー・アドプターに注目されようと思えば、大多数(マジョリティ)が受け入れるような「安全で一般的な製品」「誰もが可もなく不可もなく」というような凡庸な製品をつくっていてはダメというわけ。

セスの主張自体は、「パーミションマーケティング―ブランドからパーミションへ」に初めて出会ったときの驚きみたいなものはなかったけど、それなりに面白く楽しめた。
この人の本には事例が豊富なのと、レトリックが独特の毒を持ってる。「パーミッションマーケティング」だって、根本はダイレクトマーケティングなわけだけど、語り口が過激なんで、注目を浴びたといえる。

そう、その意味ではセスはセス自身、セスの書くものがすべて「紫の牛」なわけだね。

セスは「パーミッションマーケティング」や「バイラルマーケティング」にかなり注目が集まっていたけど、「セス・ゴーディンの生き残るだけなんてつまらない!―「ズーム」と進化がビジネスの未来を拓く」はそれほど話題にならなかった気がする。
でも、ボクは「ズーム」が一番面白かった。特に会社経営やマネジメントに携わっている人なら、一読をオススメしやす。

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2004/02/29 23:59

2004年02月25日

感情価格決定法ってただの受容価格帯調査じゃ...

一瞬でキャッシュを生む!価格戦略プロジェクト

一瞬でキャッシュを生む!価格戦略プロジェクト

「一瞬で」ということは、要は、価格を上げて売れりゃ、今までより多くのキャッシュを生むという意味だ。価格を上げる分には、ほとんどコストがかからない。「価格を上げる」というのが中小企業の売上増、粗利増に効果がある。そんなことを著者は力説する。ごもっとも。
でも、じゃぁ自分の商品やサービスがどの程度の価格なら売れるのかってのはよくわからない。つまり、プライシングへの科学がないと。ということで紹介されるのは「感情価格決定法」。

見込み客への簡単なアンケートから最適な価格を知ることができるという調査手法だ。うーむ。しかし、著者はさも凄いことのように語っているけど、「感情価格決定法」ってどこからどう見てもただのPSM(Price Sensitivity Meter)分析。これってそんなに知られていない手法でしょうか?

この手法は「米国コンサルタント、マーティン・シェナルド氏が開発したノウハウ」で、神田氏はマーティン氏の「ノウハウについて数千万円の投資を行い、日本での独占ライセンスを得」たそうで、ものすご~く貴重なノウハウと著者は思い込んでいる節があるけれど、この程度のものなら、いまやデスクトップリサーチでも簡単にできる。

マクロミルのQuick-ANALYZE-PSM分析
http://www.macromill.com/client/service/quickanalyze/index.html

この本で公開されなくとも、たとえば「シンプルマーケティング」の著者森さんのページ(シストラットコーポレーション)でも「最適価格の調査手法」は紹介されている。もちろん無料で。
Googleで「PSM分析」で検索すればいくらでも出てくる。

この程度の情報をパッケージングを変えることや、見せ方を変えることで、ものすごく貴重な情報やノウハウのように見せてしまうのが神田さんの凄いところなのかもしれないけど。

ボクは神田さんの「顧客獲得実践会」には入ってないけど、多分、あそこで紹介されているのは、ダイレクトマーケティングや、一般的なマーケティング・リサーチなどでは当たり前のノウハウの焼き直しがほとんどなんだろうな。ま、本書では神田さんは単なる「監修」だけど。

本書で繰り返し訴えられている「価格を上げる努力をしよう」という意見には反対するところもないし、そもそもPSM分析などを知らない普通の中小企業には、こういう調査方法があるということを知るだけでも自信になるだろう。それはそれで良いことだとは思う。
ただ、PSM分析がまるで神のノウハウかのように扱われているのは、ちょっとまずいような気がする。実際、PSM分析にも問題はあるし、当然、これでプライシングの全てが解決するわけではないからだ。


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2004/02/25 09:33

2004年02月14日

広告の天才たちが気づいている51の法則

広告の天才たちが気づいている51の法則

広告の天才たちが気づいている51の法則

1998年の全米最優秀ビジネス書に選ばれた本らしい。この本のなかにでてくる比喩や逸話、たとえ話、レトリックはものすごく秀逸だと思う。翻訳本を読んでるに過ぎないとはゆえ、これぞ「言葉の力」と思わせるものがこの本にはある。

この手のマーケティング書ってのはたいていの場合、著者の主張を裏付けたり、説得力を高めたりするために、精緻な調査の結果得られたデータや情報を持ってきたり、心理学的な実験や研究成果をひっぱってきたりする。
しかしながら、この本のなかでは、(おそらく)意図的にそのような「科学的な説明」は避けられている。

たとえば、広告キャンペーンを打つことは、エンコしたクルマを押すことに喩えられる。エンコしたクルマを押すとき、最初に少しでも動き始めるまでには相当な力必要だが、動き始めればあとは慣性の法則に従って、最初に必要としたほどの力も必要なく動かすことができる。
広告キャンペーンも同じだ。効果を出すまでの第一歩は大変だけれど、一度効果が出始めれば、たとえやめてもしばらくの間は効果が持続する
広告キャンペーンにも「静止している場合はその静止状態を続け、動いている場合には、同じ方向に動き続けようとする」慣性の性質があるということだ。

なるほどと思う。このようなたとえ話は、信憑性云々よりも読み手のなかにすっと入りこんできてしまう。大量のデータやそれを裏付ける調査結果、事例をいくつも提示されるよりも馴染みやすく覚えやすい。
「法則」みたいなものは、比喩やたとえ話に絡めると、実はすごく覚えやすいのだなということがわかった。本書では51の法則(といえないものも多いけど)が説明されているけれど、おそらく普通のマーケティング・ビジネス書類でこれだけの数の法則が書かれたらまず覚えきれない。でも、本書の場合なら、広告とはまったく関係のない話や身近に転がっている事例などに絡めて、重要なことが語られているので、一読しただけでかなりの数の法則が身についたような気がする。

1つ1つの話もコンパクトにまとめらているので、どこから読みはじめてもいい。とりあえず手元においておいて、ちょっとした時間にぱらぱらとページをめくるだけでも役に立ちそうだ。

法則26「ということは、つまり」
売り込みの文句の最後には「ということはつまり」ということばをさりげなく添える。すると、自然と製品の「特長」ではなく、「効用」を自然と話せるようになる。

「このクルマのエンジンはV8です。ということはつまり、長持ちする、ということになります。小さなエンジンのように目いっぱい仕事をさせる必要がないからです。そのうえ、追い越すときのパワーも十分、そして、これが最も大切なことですが、事故に巻き込まれそうなときにも、一気に加速して回避するだけの能力があるわけです。」 「このダイヤモンドの透明度はSI-1です。ということはつまり、人間の目には全く不純物が見えない、このすばらしい美しさを損なうものは全く何もない、だれかが手にとって確かめても、このダイアモンドの欠陥は突き止められないだろう、ということです。」
なるほど。

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2004/02/14 02:46

2004年02月13日

儲けを生みだす表現力の魔法―感動は設計できる

儲けを生みだす表現力の魔法―感動は設計できる

儲けを生みだす表現力の魔法―感動は設計できる

人身事故で新幹線がとまっていたときに読んだ本。
著者は「100万人感動倶楽部」なる会員組織を主催する自称「感動プロデューサー」だ。

下手するとそれこそ30分もかからないうちに読み終えてしまいそうなぐらいに文字数が少ない本だし(やけに空白が多い。1ページの文字数が少ない。小林恭二の小説みたいだ)、書かれてあること自体は他でもよく見られるものでとりててて目新しさはないのだけど、説明や考え方の見本として使われる題材や比喩が演劇や映画、歌舞伎といった分野だったりして、ボクにとってはちょっと新鮮だった。ボクはもともと8mm映画を撮ってた人間なので、映画や演劇のことはある程度知っているつもりだったけど、たとえば、戦略を「脚本」、戦術を「演出」、「戦闘」を「表現力にたとえるような発想は全然なかった。(著者は「戦略」や「戦術」「ターゲット」「攻略」といった言葉が、「戦争用語」だという点に疑問を感じる。「誰に勝つ負ける」なのかと。こういう考え方・視点は面白い)

著者が主張しているのは実に単純なことで、とにかく顧客を感動させようということだ。それも心の底から、本当に感動させなくちゃならないと。感情を揺さぶるには表現力を鍛えるしかない。では、その表現力を誰に学ぶか。それはそれを一番知ってる人に学ぶのが良い。それは常にお客さんが感動したかどうかを価値基準とし、それを実行している演劇の役者や脚本家、映画監督、俳優、ディズニーランドのキャストといった人達を参考にしようということだ。

著者自身、演劇をやってきたことで、演劇とマーケティングを融合させ生み出した「感情」に働きかけるマーケティング手法を生み出し、それを著者は「ドラマティックマーケティング」と名づける。

マーケティング手法の名前はどうでもいいけど、神田さんは自身のマーケティング手法をはじめ「エモーショナルマーケティング」と言った。こちらも顧客の「感情」という普遍的で変わらないもの(と、神田さん自身は考えている)と考え、そこに焦点をあわせたマーケティング手法だった。
神田さんがダイレクトマーケティング業界で培われてきた考え方や、心理学的アプローチを採用し、顧客の心理的側面、反応をマーケティングにうまくいかすための施策を語るのに対して、平野さんは、顧客の感情を階段を上るようにして、これでもかこれでもかと高めさせていくことで、「感激」してもらうことが大事だと説く。
神田さんが「変化球タイプ」なら、平野さんは「直球勝負タイプ」といったところだろうか。もちろんどちらが大事とか重要とか偉いとか、そういう話ではない。重なる部分は多いけれど、タイプとしては全然違う。

顧客の感情段階とは
著者は「感動は設計できる」と主張している。「感動」は「顧客満足」という次元にはない。そのことをわかりやすく次のような公式を使って表現している。

顧客の期待>実行
は不満・クレームにつながり、
顧客の期待>>実行
は、怒りや「こんな商品買っちゃいけない」という口コミにもつながる。

顧客の期待=実行
ならどうか? もちろんこれなら「顧客満足」につながろうだろう。でも実は「顧客満足」が高くてもブランドスイッチは起こる。本書でも取り上げられているGMの調査は有名だ。90%の顧客が「満足した」「とても満足した」と答えたのにも関わらず、買い替え時にGMの車を選んだのは僅かだったという結果だ。この結果はよく単なる「顧客満足」では、ブランドスイッチを防ぐことはできないという事例の典型としてよく使われる。

では、著者はどう考えるか。
顧客<実感 を提供することだ言う。
期待通りの「実行」ではなく、期待を超えた「実感」を提供すること、これしか成功の秘訣はないと言い切る。

さらに、
顧客<<実感
では顧客は感激し、
顧客<<<実感
では感謝や熱狂のレベルになる。

つまり、提供すべき感情のレベルは、

怒り<不満<満足<感動<感激<感謝・熱狂

ということになる。

「満足」という地点に立ち止まらず、「感動」さらには「感激」、そして「感謝・熱狂」という境地にまで顧客の感情を持っていかなければならないというわけだ。

カンカラコモデケア
感動を巻き起こすためには、「表現力」を鍛えなければならない。伝わらなければ、感動など到底起こすことはできない。ということで著者は、「表現力」を磨く方法や、感動させるための表現方法などをレクチャーしてくれる。
いくつか面白いものがあったが、1つだけメモ代わりに取り上げておく。それは「カンカラコモデケア」だ。

毎日新聞広告局長だった故山崎宗次さんが主催した「山崎マスコミ塾」の中で語られた伝説の作文術である「カンカラコモデケア」。
「表現」に「カンカラコモデケア」を盛り込むことで、より伝わる表現になるというものだ。(ボクは「カンカラコモデケア」という言葉は聞いたことがあったが、誰がつくったものかは知らなかった。検索してみると、がんばれ社長では、評論家の扇谷正造さんが著作のなかで書いていたとされている。)


  • カン
    感動」:文章に「感動」を入れる。「はっ」とするような驚きや発見、自分が感じた感情を入れるということ。
  • カラ
    カラフル」:視覚の大きな要素、カラー(色)を入れる

  • 今日性」:旬な話題、情報を入れる。

  • 物語性」:ストーリーを語ること

  • データ」:データを入れる

  • 決意」:強い思いやメッセージを入れる

  • 明るさ」:明るい未来を感じさせるもの、文章自体の明るさ

ボクの書く文章には、基本的に「カンカラコモデケア」が欠けてるなぁと痛感。
「カンカラコモデケアカンカラコモデケアカンカラコモデケア...」と、念仏のように唱えてこれから文章を書くことにしよう。

カンカラコモデケアについては、以下のページにも詳しいことが載っている。参考までに。

カンカラコモデケアの法則
http://www.willseed.co.jp/diary/html/200307/25.htm

がんばれ社長!-文章力を鍛える-
http://www.e-comon.co.jp/magazine_show.php?magid=256

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2004/02/13 01:14

2004年02月12日

なぜ高くても買ってしまうのか 売れる贅沢品は「4つの感情スペース」を満たす

なぜ高くても買ってしまうのか 売れる贅沢品は「4つの感情スペース」を満たす

なぜ高くても買ってしまうのか 売れる贅沢品は「4つの感情スペース」を満たす

決して富裕層ではない普通の人達が「ワンランク上」の商品を買い求める。
これまでの常識では、「価格が高いほど販売量は少なくなる」であったが、従来の商品より高価なものを、一般消費者が買い求め、結果的に従来型のラグジュアリー商品より大量に売れるという現象があらわれている。
そんなちょっと不思議な現象を捉えた消費社会論でもあり、新しいマーケティング、商品開発の考え方を提唱したのが本書。

本書でとりあげらえる例は、アメリカの消費者像や「ニューラグジュアリー」商品(同じカテゴリー内のほかの商品より高品質で、センスもよく、魅力的であるにもかかわらず、手が届かないほど高額ではない商品・サービス)についての分析ではあるが、訳者が最後に述べてるように、日本でも同じような消費傾向がうかがえる。
2003年7月のスーパー食品売上上位では、食用油は花王の健康エコナ・クッキングオイルが金額シェアで14%を占めている。健康エコナは1キログラム換算っでは、二位の日清キャノラー油(9%)の3.8倍もの値段だ。
(P.306)もちろん、ベンツやBMWの普通車市場に占める売上台数シェアが年々増加していることもそうだし、50万円以上の高級機械式時計は販売量で二割を超え、売上規模では五割に達している(P.307)

デフレだ不況だといわれつつも売れている高価なものはある。しかもそれは超富裕層だけが買うのではなく、普通のどこにでもいる人達が買っていたりするのだ。

ニューラグジュアリー商品・サービスには3つのタイプがある。


  1. 手の届く超高級品
    カテゴリー内では最高価格帯にあるが、カテゴリー自体が比較的低価格。
  2. 従来型ラグジュアリー・ブランドの拡張
    富裕層にしか買うことができなかったブランドの廉価版の商品・サービス・
  3. マスステージ商品
    「マス(大衆)」と「プレステージ」を組み合わせた造語。「マス」と「プレステージの中間」の市場でうまみの位置をしめる商品。通常の商品より高価だが、超高級品や従来型のラグジュアリーに比べるとかなり低価。

ニューラグジュアリー商品は幅広いカテゴリーで見られるが、共通する特徴は、「心理面に軸足を置き、消費者もほかのものよりその商品にはるかに強い思い入れを抱いている点」(P.18)だという。

本書でとりあげられた商品には、それまで消費者が思いいれなど抱くとは到底考えられなかったようなものも多くある。たとえば「洗濯機」や「冷蔵庫」。
ボク自身は「白物家電」に愛着や敬愛の念を抱き、心理的な絆や連帯を感じる人なんて想像つかないのだけれど、本書で紹介された「サブゼロの冷蔵庫」や「ワールプールの洗濯機デュエット」などでは、その購入者はまるでそれらの商品を家族の一員のように考えていたり、商品に深い愛情を抱いていたりする。

なぜ、商品にたいしてこのような心理的紐帯を抱くようになったのか。その原因については本書でもさまざまな調査結果に基づき分析されている。

年収5万ドル以上のアメリカ消費者2300人(あらゆる人口属性の人々を含む)を対象とした調査では、次のような結果がでており、非常に興味深い。
「今の生活に満足している」という質問に対して、「そう思う」「非常にそう思う」とと答えた人が62%いたのにも関わらず、「いつも時間が足りない」には55%、「睡眠不足だ」には54%。「働きすぎだ」という人も40%近く、「生活のなかで大きなストレスを感じる」人も37%いる。
さらに、「友達との十分な時間を過ごしていない」(51%)「家族と十分な時間を過ごしていない」(35%)「健康に不安がある」(40%)「将来に不安を感じる」(40%)など。この結果から著者らは、現代アメリカの消費者の姿を、

自分はおおむね幸せだと主張しているが、それはおそらくそう信じたいからであり、その実、時間に追われ、仕事にストレスを感じ、自分にとって大切な人々とのつながりを失っていると感じている姿(P.66)

だと結論づけている。
この調査で導き出される現代の消費者像というのは、日本の消費者の姿にも重なる部分が多いのではないかと思う。もちろんこういった「平均的な」消費者というのは存在しないということは十分理解したうえで、それでもやはりこの調査に回答した人達が、「そのように回答した」「せざるをえなかった」心境はすごくわかる気がした。

このような心理的ストレスを感じている消費者たちにとって、「消費」とは一種のストレス発散の行為でもあり、また自己規定、自己実現、理想的生活への憧れなのだろう。

そして、著者らは実際の消費者らへの調査を通じて、ワンランク上の消費をする時の感情を最終的に四つの「感情スペース」にまとめている。
それは、


  1. 自分を大切にする
  2. 人とのつながり
  3. 探求
  4. 独特のスタイル

だ。
(この「感情スペース」を見出す調査方法は、回答者に44個の言葉を提示し、ワンランク上の消費をする時の気分を表す言葉を選んでもらう。それをグルーピングしていって、最終的に上記4つのグループに集約させるという方法をとった(P.69))

ニューラグジュアリー商品はこれら四つの感情スペースを有している。これら感情スペースを満たすことができる商品に、消費者は深い思い入れや親愛の念を抱くし、そこに心理的な絆を見出すのだ。

とはいっても、当然、こういった感情側面を満たすだけで、その商品がニューラグジュアリー商品になるわけではない。

3段階のベネフィットを満たすこと
ニューラグジュアリー商品として、圧倒的な支持を得、他より高価ながら大量に売れるという商品になるためには、商品としてのベネフィットも他を圧倒しなければならない。著者らはそのベネフィットを「3段階のベネフィット」と定義している。


  1. デザイン面かテクノロジー面、またその両面での技術的な差異。
  2. このような技術的な差異が実際の性能の向上に役立っていること
  3. 技術面と性能面でのベネフィット(およびブランド価値や企業理念などの諸要因)が合わさって、消費者に思い入れをいだかせること。

このような三段階のベネフィットを満たし、且つ消費者の四つの感情スペースを満たすことができた商品は、ニューラグジュアリー商品として成功をおさめられる。本書ではニューラグジュアリー商品として大成功した商品やサービスの魅力的な事例がいくつも取り上げられている。

ニューラグジュアリー商品が出現したカテゴリーでは、市場は完全な二極化をおこし、特徴のない凡庸な中間層の商品、サービスは駆逐されていく。これによって、すべての層の消費者たちが恩恵を蒙ることができる。低価格商品は低価格商品としての確固たる存在感、存在意義を見出すことができるようになり、また最富裕層が購入するようなハイエンドな製品もニューラグジュアリー商品の台頭によって、刺激を受けイノベーションを加速させるからだ。

本書では最後にこのような「ワンランク上の消費」をチャンスに変えていくために企業はどのような商品をどのように開発していけばいいのかというヒントが与えられている。チャンスは「ワンランク上の消費対象となるような商品・サービスがほとんど存在しないカテゴリー」にあるとし、例として、「玩具」「ヘルスクラブ」「浴用およびボディケア製品」「グルメ食品」などがあげられている。(P.267)
また、耐久消費財以外にも、金融・法律、教育・医療、高齢者ケアや保育、ペット・ケア、旅行および不動産、自動車メンテナンス、住宅管理といったサービス業にも、「ワンランク上の消費」機会はひそんでいるという。

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2004/02/12 09:33

2004年02月03日

成功者の告白 5年間の起業ノウハウを3時間で学べる物語

今日は東京日帰り。いつもよりちょい遅め。7時30分の新幹線。行きは神田さんの新書「成功者の告白 5年間の起業ノウハウを3時間で学べる物語」を読んだ。

成功者の告白 5年間の起業ノウハウを3時間で学べる物語

帰りは綿谷りさの芥川受賞作「蹴りたい背中」を読む。
蹴りたい背中

1時間で読める芥川賞作。綿谷りさの方は、別途機会があったらもうちょいじっくり考えてみたい。読後感としては前作「インストール」のほうが不器用さがあった分、良かったというようなもの。「周り」とうまくコミュニケーションがとれない、距離がとれない主人公の「ハツ」は、いかにも類型的なんだけども、
多分、文学少年、文学少女のほとんどが、思春期には同じような感覚を抱くのだろう。ある意味「私」を特別視してるんだけど、特別視していることには嫌悪感を持っている。メタレベルの「私」への遡行。「私」と「周囲」の距離に侵入してくるオタク少年「にな川」。私と「向こう側」と「にな側」。基本的にはこの三点の「距離」に対しての私の視点が描かる。「私」が「にな川」に寄せる視線が、実は「向こう側」に行けない「私」自身への眼差しだったりして。この構図もまた典型的かな。


さて、神田さんの新作
タイトルまんま。神田昌典という人は、ほんと自分の身の周りに起きたことや、課題をビジネスにするのがうまい。その課題の解決手法として持ってくるのは、たいていどこかに「元ネタ」があるのだけれど、一つのストーリーとしてまとめあげてしまう手腕は天才的だ。(「パクり」とかそういうことを批判しているわけではないです)

さて、本書の主要テーマは、「第二創業期」に起きる問題をいかに解決するか、ということ。多くの神田さんフォロワー達が、「一番難しい新規顧客獲得さえうまくいけば、ビジネスは成功する」という段階で留まり続け、「顧客獲得の仕組みづくり」によってビジネスを自動化して、「サルでも出来るビジネス」にしていこう、楽して儲けようと唱え続けるのに対して、神田さんはその段階を超えて、本当に企業が企業になる段階に訪れる組織上の問題に視点を向けている。

「第二創業期」とは、本書の言葉を借りれば、創業時の家族的なフラットな組織でビジネスを行っている段階から、経営システムを整え、経営がチームで運営されるようになるその端境期のこと。
「日本の会社の90%以上が、年商10億円以下の零細・小企業」なのは、この「第二創業期の壁が非常に高い」からだと言う。「年商八億円ぐらいの会社が、来年は10億目指すぞと頑張ったとたんさまざまな問題が起こって、年商六億に後戻りする。」(P.199)

そこで必用なのは「経営のシステム化」だという。
これは「仕事のシステム化」とは違う。今までの神田さんが「仕事のシステム化」の部分にフォーカスしていたのに対して、今回は「経営」だ。


■マネイジメント上の問題にどう対処するか?

チームで機能する会社をつくっていくステップを神田さんは次の3ステップでまとめる。


  1. ステップ1 土台づくり1:母親の出番
  2. ステップ2 土台づくり2:父親の出番
  3. ステップ3 チーム体制の組み立て

子供を教育していくステップをチームの教育ステップに置き換えて考えるわけだ。「子供は母親からのたくさんの愛を感じて、自分は安全である、信頼されているという環境をつくらないと、しつけをどんなに厳しくしてもダメ」「第一に母親的な愛情。その次に父親的なしつけを行うことが大事」。
この順番を間違えることが多い。たいていステップ2が先行する。チームをつくろうとすると、まずルールや決まりごとで社員を統制しようとするようなことだ。
(ネタバレになるが、実はこのステップにはまだ足りない段階がある。それは本書を最後まで読めばわかる)

グッド&ニュー
じゃあ具体的にステップ1ではどんなことをするのか?
ここで神田さんは米国の教育学者が開発した「グッド&ニュー」という手法を提案する。


  1. ゴムでできたカラフルなボールを用意する。
  2. 六人程度でチームをつくる
  3. ボールを持った人は二十四時間以内に起こったいいこと、もしくは新しいことを簡単に話す
  4. 話が終わったら、まわりの人は拍手する
  5. 次の人にボールをまわす。
  6. これを繰り返す。毎日やる。

カラフルなボールを持つのは、ボールを持つと「リラックスして身体が開いてくる」からだそうだ。
この遊びは心理学でいうリフレーミングを習慣化するためのゲーム。要は物事のプラス面を見る訓練。
この手のものは使い方を間違えるといかがわしい自己啓発セミナーになる(いかがわしくな自己啓発セミナーもある)

承認の輪
「グッド&ニュー」以外にも「承認の輪(ヴァリデーション・サークル)」というゲームも紹介されている。
それは、「社員同士で定期的に、社員の会社における存在を承認する」(P.221)を目的として、「お互いの存在を認める言葉を掛け合う」というもの。
『○○さんと一緒に働くことができて、本当によかった。なぜなら…』
と「なぜならの後の文章を完成させる」。
正直、これもかなり気持ち悪い(笑 
「誕生日」なんかにやると効果的なんで「誕生日の輪(バースデー・サークル)とも呼ばれてるらしい。
しかし、みんなでこんなことやってる姿を想像すると、う~んとなってしまう。どうなんでしょうか。やったほうがいいのでしょうか?

クレド
これらが「ステップ1」。「母親の愛情」の次は「父親的な意思の力」の出番だ。ここでは「クレドの導入」が提案されている。
これも単純。会社での憲法をつくる。「会社を運営していく上で、絶対に守ってほしいという項目をいくつか文章化する」(P.224)
クレドとは、リッツ・カールトン・ホテルが会社の価値観・哲学をまとめたものを言う。よくあるような会社理念とは違い、細かな行動上のルールがまとめられている。
(メモ:P.226~227に、実際の「クレド」の一部が掲載されている)

「クレド」の作り方の解説はいかにも神田さん的だ。
「クレド」をつくるときは、まず「部下の行為に対して怒りたくなったこと」を箇条書きにしていくことから始める。
たとえば、「月曜日に休まれること」「入社して間もないのに長期休暇をとったりすること」などのように。まず『○○○してはならない』という文章をいくつもつくる。怒ったことというのは、こちら側の「期待、すなわち価値観に対してズレている行動を示すもの」(P.232)だから、二度と怒らなくていいよう、それを箇条書きにしていく。

で、こうやってできた文章を肯定文に直してみる。「『○○○するな』という表現は非常に厳しく聞こえるので、社員にとってはストレスになる。同じ意味でも『△△する』という形に言い直したほうが、より潜在意識に刻み込まれやすい」(P.232)

『月曜日休んではならない』→『休暇をとる場合には、チームメンバーに迷惑をかけない日にしよう』という具合。

さて、この「クレド」。リッツ・カールトンでは、「ラインナップという朝礼のような短い会議を毎日開く」そうだ。

クレドカードに書かれたベーシックと呼ばれる二十項目について毎日ひとつづつ話し合うんだ。この二十項目に沿って組織全体が無意識に行動できるようになるまで、徹底して教育していくんだ(P.225)

ラインアップの具体的に進め方。
ラインナップリーダーと呼ばれるリーダーがその日の項目を読み上げる。そして、その項目に関連した自分の感想や最近の体験について話し、他のメンバーと共有する。他のメンバーも全員、同じように自分の意見を話しみんなと共有する。すると、たんなる唱和とはまったく異なるメソッドになる。
唱和の目的は、社員を会社の型にはめて、考えない人間をつくることだ。それに対してクレドの目的は、その価値観や行動様式を実際に応用するために、考える人間をつくる

「クレド」に近いことはやってたけど、「ラインナップ」ってのはやってなかったな。これは面白いかもしれない。


企業ドラマを演じる四人の役者

企業ドラマを演じるには四人の役者がいる。
起業家、実務家、管理者、まとめ役の四人。
この四人の誰が活躍するかは会社のライフサイクルごとに異なる。

創業時は、起業家のエネルギーやアイディアを実務家が支援していく。
起業家が長期的な視野にたった壮大な夢を追いかけるのに対して、実務家は日々の業務の細かな部分での体制づくりなどを担う(導入期~成長期前半)。

起業家と実務家によって企業が成長を歩みはじめると、ここに管理者が必要になる。営業面だけじゃなく日常業務をシステム化したり、ルールを決めていったりする人間だ。今度は実務家と管理者が協力して会社の仕組みづくりをしていくことになる。(成長期後半)
最後に「まとめ役」が登場する。社内でお母さんと呼ばれるような存在。スタッフの心を繋ぎとめる存在。

図式はこんな感じ。

実務家──管理者
 │    │
 │    │
起業家──まとめ役

対角線上に位置する役割を担うものは反発しあう。「管理者」と「起業家」。「実務家」と「まとめ役」だ。隣同士になっているものは協力しあう。

これをちと自社の例にあてはめて考えてみる。むむむ。どないでしょう?
ボクには判断しかねます。一人がどれかの役割を全面的に担うというよりは、うちの場合は、いろんな人がいろんな部分をちょっとずつ担っているという感じだろうか。ここで描かれている起業家のイメージに被るキャラクターはうちにはいないしなぁ。

神田さんは、これを桃太郎の物語と登場キャラクター、その順番に沿って説明するのだけど、これまたいかにも神田さんらしい。話を単純化する天才だ。


第二創業期を乗り越えること、会社の倫理観

確かに「第二創業」と呼ばれる時期にはいろいろ問題は出てくるし、多分今、自分が体験していることも似たようなことなので、よくわかるのだけど、そういう悩みを抱える経営者が多いからこそ、この手のビジネスが儲かるというのも事実だ。ボクはどうもこの手の手法には性格的に嫌悪感を持っているところがある。臨床心理学も嫌いなのだ。なので、どうしてもまるごと全部鵜呑みにしてしまうことができない(そういうところがダメなんだろうけど)

でも、本書内に出てきた神田さんの組織に対する考え方にはいくつかものすごく共感できるところがあった。自分が会社や組織の価値観に対して抱いている感情と、その理由を見事に説明してもらえた気がした。

会社には、社長の足りないところを顕在化させるために、問題を起こすのに最適なメンバーが集まっている。だから、その働く場自体を向上させていかなければ、いつになっても同じ問題の繰り返しになる。
また、能力がないからさっさとクビを切るという文化を会社がもってしまえば、こんどは、会社が十分なボーナスをくれなければさっさと辞めるという、相手から奪うという文化を会社のなかに構築することにもなる。もちろんスタイルの違いだからと反論はあるだろうが、私は他人から奪うことを文化として持っている会社が、発展するとは思えないな(P.209)

このあたりの信条は、そのまま自分の信条にもしたい。

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2004/02/03 01:23

2004年02月01日

広告都市・東京―その誕生と死

広告都市・東京―その誕生と死

広告都市・東京―その誕生と死

「社会」みたいに抽象的な概念。共同主観的概念として共有されている「気分」みたいなものの「リアリティ」。これらをどう言葉で捉えることができるのか?
椹木野衣は「ハウスミュージック」に、宮台真司は「コギャル」、そして東浩紀は「オタク」に。「現代社会」の典型的な、あるいは象徴的な構造やシステムを見出し、そして「この社会」における生き方の術を問う。
そして、北田氏は「広告」「メディア」「都市」といった極めて日常的空間にあるものから、それらの変容・変遷を追い、その下部システムを取り出し、今の「社会」の様相を語る。
ここには確かなリアリティがある。これほどまでに自分にとって"ぴったりとくる"社会システム論は読んだことがなくて、正直かなり驚いた。宮台真司や東浩紀といった先人のテクストを下敷きにしつつも、それを乗り越え、「90年代以降」の極めて現代的な「現代」を見事に描き出している。現代消費社会論、メディア論の傑作。


<80年代>の社会システムとリアリティ、不安
<80年代>的な広告=都市の論理とは、「秩序/無秩序」という二項的な解釈図式に「文化」という第三項を導入することであった(P.60)。<80年代>の広告=都市の論理的実践の顕著な例として、セゾン・グループが渋谷をパルコ自体の広告としてラッピングしてしまう戦略や、外部を一切隠蔽し、充足した内部世界を構築するディズニーランドなどが採りあげられる。すべてが「記号」によって覆われた街は、演劇舞台的な装置として機能する。「記号」には「外部」はなく、特権的な視点もなく、ただ表層を漂う「記号」だけが全てという論理が支配する。これらの実践は、ボードリヤールの「消費社会論」や、「記号論」などによっても強化され、<80年代>の社会規範・論理空間を形成していく。

<80年代>的論理空間においては、「記号化された商品を消費することによって自らのアイデンティティを模索していく」(P.83)という「私」を生み出し、それが<80年代>に生きる人々の「リアリティ」を形成していた。

<80年代>の都市遊歩者たちは脅迫的に都市を散策し、<自分らしさ>への息苦しい確信を築きあげていったのである。(P.102)

こういった「広告=都市」は、ミシェル・フーコーの「近代」の分析に倣って「パノプティコン的」と表現できる。それは「見られているかもしれない不安」だ。
空間を支配する者の姿が見えないにもかかわらず、いや見えないからこそ、人びとが「見られているかもしれない」という不安に捕らわれ、支配者の用意する<台本>を進んで受け入れていく

<ポスト80年代>とは
ところが、90年代以降、「「広告=都市」を支える<80年代>的な言説─実践システムが、ある種の臨界点を踏み越えて」しまった。(P.115)
それはセゾン・グループの失調や、ディズニーランドでは頑なに守られていた「外部世界を見せない」という論理が崩壊した「ディズニーシー」の登場、あるいは「渋谷」という町に対する人々のイメージの変遷(「文化」的イコンとしての「渋谷」から、単なるデータベース的情報の集積場としての「渋谷」へ)などから照らし出される。
<ポスト80年代>的な都市遊歩者を特徴づけるのは、「都市を文学作品やテレビドラマ(テクスト)のように「読む」のではなく、むしろCF(もっとも広告らしい広告)のように「見流す」という態度である。」(P.128)

では、<80年代>を支えていた「舞台性」──舞台において、役割を演じることによって保っていた「リアリティ」や「アイデンティティ」は、<ポスト80年代>において、どのように形成されるのであろうか?

<ポスト80年代>において、人々には「見られていないかもしれない不安」が生じているのではないかと、著者は問う。
「見られているかもしれない不安」から「見られていないかもしれない不安」への変遷を、著者は90年代半ば以降のメディア・コミュニケーションの環境の変化に見出す。
<80年代>までの世界を規定したマスメディア的論理空間では「送り手=公的な責任を持つ存在/受け手=指摘に解釈する存在」という役割区分が前提とされていた。
ところが、「見られていないかもしれない不安」を率直に表明するメディアであるウェブサイトにおいては、「送り手/受け手」という役割分担も、「公的/私的」という領域区分も完全に失効してしまっている」(P.142)

伝達される情報の意味やメッセージをフィルタリングしつつ公共空間を構築するというのが、マスメディア的な意味における「社会」の原理であるとするならば、接続指向のコミュニケーション空間における「社会」の原理は、首尾よくつながること、他者にちゃんと覗かれることである。(P.144)

コミュニケーションは、「情報内容の伝達」という側面から「コミュニケーション」自体を目的とする「接続指向のコミュニケーション」の側面が強化されていく。このような「社会」においては、人びとは「覗かれる」ことによって「リアリティ」や「アイデンティティ」を確認する。それは近代的メディアが支配していた価値規範の崩壊に対しする対抗策みたいなものなのだろうか?


自分がBLOGを続けている意味?

自分がBLOGを続けているのは何か?ということを考えるにあたり、「見られていないかもしれない不安」というのは一つのキーワードになりえるのではないかと思う。「手軽である」「ブロードバンド環境の充実」といった背景はもちろんあるのだろうが、しかし、自分がBLOGを続けている意味は多分そこではないような気がする。それは「とりあえずの理由」であり、根本的な理由はやはり「見られていないかもしれない不安」に突き動かされた自己確認行為なのではないかという気がする。(その意味では「ケータイ」のコンサマトリーな利用に飛びつけなかった人間が、BLOGというコミュニケーション・メディアに飛びついた、ということか?)
「気がする」というのもえらく他人事だが、自分自身の行為の意味を完全に理解している人などいない。「誰にかわからないけど、誰かに」「見られている」「覗かれている」ということが、自身のアイデンティティを確認する行為であり、現代における「リアリティ」獲得のための手段なのかもしれない。


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2004/02/01 18:16

2004年01月26日

勝つブランド負けるブランド

勝つブランド負けるブランド―How to build a strong brand

勝つブランド負けるブランド―How to build a strong brand

京都へ戻る新幹線に乗る前に、本屋に寄って購入した。
表紙からは「フォレスト出版/神田さん系」の本を想像していたのだけれど、内容は良くも悪くもまったく違うものだった。

ヴィトンが売れる理由を、ヴィトンに飛びつく人達の育った社会環境、背景から「松任谷由美」ファンの多くがヴィトンに寝返ったというような考え方を披露したり(結論としてはヴィトンは女性にとって「お守り」として機能しているというようなことを言ってるのだけれど)、雪印事件の問題を、インパール作戦の失敗を下敷きに日本文化に特有の「空気」(「失敗の本質―日本軍の組織論的研究」参考)から論じられたりと、ブランド論というよりは「ブランド」というテーマからの社会分析アプローチと考えたほうが良いのかもしれない。

個人的には、全体のロジックよりも、そのロジックを導き出されるために使われる「おかず」の方が面白かった。
ということで、そういった瑣末な「部分」をメモがてら採りあげることにする。

製品ライフサイクル論が通用しない!?

デジタル分野では成熟期には次世代の規格が登場し利益が回収できなくなる(P.25)

つまり、製品ライフサイクル論が通用しないということ。
製品ライフサイクル論では、導入期、成長期への投資を成長後期から成熟期に回収するというマーケティングプランが組み立てられるのだろうが、それが効かなくなってきているわけだ。
これはたとえばADSL分野ではどうだろうか? 
Yahoo!BBが圧倒的なシェアを獲得してはいるけれども、ここには莫大な初期投資が成熟期において回収できるという算段があるからだ。しかし、ADSLのシェアは光ファイバーにとって代わられる可能性が高い。さて、Yahoo!BBは莫大な投資を回収できるだろうか。もちろんYahoo!BBも簡単には乗り換えられないようなシンジケーションをつくろうとしている。ADSLでも光ファイバーと変わらない速さを実現させようとしている。さて、この結末はどうなるのだろうか?

日本語とマンガ脳

漢字は絵に相当し、ルビは吹き出しのセリフに当たる。日本語はマンガだったわけである(P.31)

これは養老孟司さんの考え方を下敷きにしている。
漢字仮名交じり文を読むには、日本語以外のほとんどの言語より2倍の脳を使うらしい。

この話は昔どこかで「ラジオ型言語」と「テレビ型言語」というような分け方で読んだものと同じことかもしれない。英語は「ラジオ型言語」だ。つまり音と言葉が1:1の関係であり、基本的には同音同義語は存在しない。そのため「聞く」だけで意味をつかむことができる。一方、日本語は「テレビ型言語」の典型だと。日本語には同音異義語が多く、1つ1つの言葉の意味はコンテクストによって決定づけられるし、また表記を伴って区別化される。(「橋」「端」「箸」など) つまり、意味は「音声」と「映像」(象形)を伴い理解される。

こういった言語的特長から日本人は「マンガ脳」──すなわち、「ビジュアルに鋭く反応する能力」──を鍛えている。そして商品におけるビジュアルとはデザインのことであり、デザインのキーとなる記号がロゴ・マークやアイコンであることから、企業コンセプトや商品コンセプトをロゴマークやアイコンに語らせるべき、という結論を持ってくる。これも飛躍しすぎの感もある。

ブランド・エクイティ
『ブランド・エクイティ戦略』などの著者D・A・アーカー氏によるブランド資産の構成要素は、以下となる。


  1. ブランドロイヤルティ(あれがどうしても欲しいと消費者が企業・商品・サービスに対して感じる執着度)
  2. ブランド認知(ウイスキーと言えばサントリーのごとく、その企業・商品・サービスが当該市場カテゴリーに属している消費者が感じる認識度)
  3. 知覚品質(セーラーよりもモンブランのほうが書きやすいのごとく、その企業・商品・サービスの利便性が代替対象と品質比較して消費者が感じる認識度)
  4. ブランド連想
  5. その他の資産(特許や商標権、意匠権など)。
    (P.40)

そして、著者はこの5つのうち5を除くとすべてが「知覚の問題」(視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚、温度覚、圧覚)に行き着くとし、特に知覚のなかでも「視覚」が最優先されると言う。
ブランドは知覚の問題である。人々がブランドを使用してその経験を積み重ねる中で、どのように知覚してより良いイメージの総体としての記憶を結んでいくか、これによってブランドの強弱が決まってくる。よって、人々がどのような生活環境で生活しているかが重要であり、その社会、時代とコミュニケートしていかない限り強いブランドに育てていくことはできない。(P.233)

対人恐怖症
ここ近年、女性の対人恐怖症が増えているという。対人恐怖症という神経症は日本独特のものだ。「対人恐怖症の中でも視線恐怖症が、特に日本に特徴的だとする病理学者もいる」(P.67)

岸田秀だったか誰かが日本人の視線恐怖症を分析していた。
手元にないので、これまたうろ覚えだけれども、アメリカ人は「対神恐怖症」であり、日本人は「対人恐怖症」だ、というような対比で精神心理学的なアプローチから民族性を捉えるというようなものだったと思う。
日本には唯一絶対の「神」が存在せず、日本人が忌避するのは周りの人の視線だと。そこから視線恐怖症が生まれる。「出る杭は打たれる」みたいな文化が根付くのもそのせい、みたいなことが書かれていた。

女性の対人恐怖症が増えたというのは、女性の社会進出と関係している。それまでの「女性観」は「控え目でおとなしいことが美徳」(P.70)だった。ところが、現代の女性は「自己主張」が重要なものとなっている。

女性特有の相手への迎合性や従順さや優しさが一方にありながら、一方で自己主張の気持ちが培われてきたという社会的な環境のために、その両方のはざまに立って身動きのとれない状態になっているようである(P.70)

ヴィトンは、こういった女性の自己主張を体現するものであり、一種の強迫観念として存在していると著者は考える。
ナイキとスターバックスのブランディングを担当したスコット・ベドリは、人間の最も上位にある情緒的ニーズの中で重要なのは帰属のニーズだと指摘し、「あるモノを所有することによって、同じようにそのモノを所有するほかの人々と家族のような深いつながりを感じることができる」ようなブランドこそ大成功をおさめることができる、と述べている(P.73)

ヴィトンは女性たちの帰属ニーズを満たすブランドなのだ。

ヴィトンのモノグラム柄は?

慶応三年(1867)に第二回万国博覧会がパリで開催され、徳川幕府と薩摩藩、鍋島藩が参加している。ヴィトンの関係者がパリ博を見物に行き、日本の家紋を見たことからモノグラム柄がデザインされたと言われている。(P.71)

日本人のフェティシズム
山本七平の「空気の研究」から日本人とユダヤ人の人骨に対する接し方の例。

イスラエルで移籍の発掘をしていた際に、日本人とユダヤ人が共同で人骨を運ぶことになったと言う。
作業が一週間ほど続いた頃、ユダヤ人にはなんの変化も表れなかったが、日本人は病人同様になった。しかし、作業が終わると日本人は以前と変わらない元気さを取り戻した。ここから山本氏は、日本人は人骨によってなんらかの心理的影響を受けたとして、それは物質の背後になにかが臨在していると感じたからだとする。(P.83)

ここからに日本人が生命のない対象物に感情移入してしまう傾向が強く、そして、日本人の言論や行動を規定される第一歩がこの感情移入だとする。

Honda Brand Concept
ホンダが社員全員に配布している「Honda Brand Concept」なるパスポート大の冊子がP.160~164に紹介されている。これがうちの会社でつくってるものと凄く似ててびっくりした。この冊子を参考にしたわけではないけれども、うちの会社でもこれに近いものをカードとして社員全員に配布している。

コミュニケーションとは

コミュニケーションには二つの伝達機能がある。情報の伝達と情緒の伝達であり、伝達する相手によって二つの機能に濃淡差が生じる。親しい相手になるにつれ情緒の伝達が濃くなり、疎遠な第三者になるにつれ情報の伝達が濃くなる。(P.232)

果たしてそうだろうか? 相手との関係性がコミュニケーションのニ側面の比重に影響する? 親しかろうが「情報の伝達」が濃いコミュニケーションだって多々ある。しかし、最近のコミュニケーションツールの利用は情報の伝達よりも、情緒の伝達が重視されているだろう。
著者は携帯電話や携帯メールは情報の伝達ではなく、情緒の伝達だと言う。

そういえば、最近の中高生たちは、わざと「ワン切り」して、自分が今、電話に出られる状態であることを相手に伝える、とうようなことをどこかで読んだ。社会的に個人がどんどん孤立化していくなかで、何かに繋がっていたいという「帰属のニーズ」の発露みたいなものか。

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2004/01/26 00:24

2004年01月25日

クルーグマン教授の経済入門

クルーグマン教授の経済入門

クルーグマン教授の経済入門

アマゾンの書評を見ていると、評価が低い人のほとんどが「山形口語訳」に反応しているのが面白い。この手の本には、この手の本に共通の語り方ってものがあって、それら一般的な語り口に比べれば、山形さんの訳というのは、確かに特異なものだと思う。僕は原書にはあたってないので、クルーグマン自身の文章がどのようなものかわからないのだけれど、語り方や文章の構成を読んでいると、原書ではおそらくこう書かれていたんだろうなと想像できるところがあって、それは極めてロジカルで標準的な英語の特徴的な文章だ。実は、山形さんの訳というのは、ニュアンスも含め実は原書に忠実なのではないかなという気がした。

さて、この手のいわゆるマクロ経済学の本は、なかなか流通しにくい難解さを纏っていることが多いけれども、本書は実に分かりやすく、ロジックも明快だ。読むと、「アメリカ経済」の問題の大部分がわかったような気になってしまう。これだけ見通しの良いマクロ経済本は僕は読んだことがない。(といってもジャンルとしてはあまり読んじゃないジャンルだけれども)

読んだことをスグ忘れてしまうので、勉強のためにも内容についてまとめてみようと思う。

いきなり第1部で、著者は「経済のよしあし」は3つしかない、と断言する。それは、生産性、所得分配、失業だ。そして、この3つについて、今のアメリカが良い成績を上げられていないことを問題とし、それぞれについて実にわかりやすく問題の根拠と、それがもたらす害について語る。

生産性成長
「ある国が長期的に見て、生活水準をどれだけ上げられるかを決めるのは、ほどんどすべて、その国が労働者1人あたりの産出をどれだけ増やせるかなんだ」(P.29)

生産性を考えるうえで著者はまず、「アメリカがほかの国といっさい貿易しない」という極端な状況を設定して考える。
(他のところでもこういう方法は頻繁に出てくるが、著者は問題の核心、輪郭を浮かび上がさせるために、あえて極端な状況やモデルから考えてみる、とういことを行う。)

この状況では、「消費するものはすべて、アメリカ国内でつくんなきゃならない」そして、このような状況で、生活水準(人口1人あたりの消費額)を上げるにはどうしたら良いか? 


生産性を上げて、各労働者がもっと財やサービスを生産できるようにする。


総人口の中で、働く人の割合をもっともっと増やす


産出の中で、将来に向けての投資用にとっておく部分を減らして、今すぐ消費するための財やサービスをつくるほうに生産能力をふりむける。

ハは将来消費できる量を犠牲にするため長期的には生活水準を上げないし、ロはすでに総人口の中で職に就いている人の割合は増えているし、これは100%以上にはなりえない、ことから、結論として「イ」しかないと説明する。

じゃぁ、貿易が行われる世界。
産出の一部を輸出して、国民が消費するものの一部を輸入する。
「輸出を増やさないで輸入を増やせば、消費量も増やせるようになる。だったらつまり、1人あたり消費量を増やす方法が2つ増えたわけだ」(P.33)


外国に売る量を増やさずに、もっと輸入すればいい──ということはつまり、増えた輸入代金を支払うために借金をするか、あるいは手持ちの資産を売るしかないってことだ。


輸出品をもっと高く買ってもらえるようにして、借金しなくても輸入を増やして支払えるようにする。

ニはハと同じ。長期的には使えない。借金はいずれ返さなきゃならない。ホはじゃぁ、どうやって「高く買うよう説得するか」ということ。これは結局、生産性の向上ということ。

80年代以降、アメリカの生産性成長は著しく低下した。それは諸説あるけれど、実のところ「だれにもよくわかんないのだ。」

どうしたら生産性成長を加速させることができるのか? これも実はよくわからない。「たとえば教育水準の向上を奨励したり、産業研究コンソーシアムを支援したり。いくつかは試されるだろうし、なかにはちょっとうまくいくヤツだってあるだろう。でも基本的な政治上のコンセンサスでは、低い生産性成長はなんとか我慢できなくもないってことになってる。そのうち何かが起こって、生産性成長が勝手に加速してくれるのを祈りましょう、というわけ」なんて述べる。 

生産性と生活水準の関係を説明したもので、こんなにわかりやすい説明はないんじゃないだろうか。貿易赤字や国際競争力や、そういったものは瑣末な事項にすぎず、貿易が一切行われてない状況だろうが、貿易が行われている状況だろうが、結局は「生産性」を上げなきゃ、生活水準はあがらないわけだ。

所得分配の問題では「金持ちは、ずっと金持ちになった一方で、貧乏人はとてつもなく貧乏になっちゃった」(P.46)状況を統計データなどを紐解き説明するものの、ここでも「なんで不平等が拡大したのか、だれもちゃんとわかっていないこともあ」り、また「このトレンドをひっくり返す手段ってのが、どれも政治的に手の出ないものだ」ということを、こういう施策を講じたらどうなるか、という例をひとつひとつ潰し説明していく。

雇用と失業
失業率の問題は、失業率を下げてしまうとインフレになってしまうこと。「政府がインフレをおさえようとすれば、それは需要をおさえることになって、結局はその水準以上に失業率を上げるしかない。」(P.61)

アメリカの失業率は2000年に3.8%を記録して、その後上昇。2003年3月で5.8%(4月には6.0%)になっているけれど、インフレ率は1.9%におさまっている。本書ではアメリカのNAIRU(インフレをおさえられる最低の失業率)の推定値は5~6%だろうと考えられている。

つまり、「雇用と失業」という分野に関しては、アメリカはインフレを抑えつつ、失業率も6%に抑えているわけで、むちゃくちゃ悪い成績ではないということになる。

相も変わらぬ頭痛のタネ──貿易赤字とインフレ

第1部では経済のもっとも重要な問題を扱っていたけれど、実際はその3つに対して、政府が何かできるかというと、あまり出来ることがない。ということで、2部以降では今の政治上の関心時になる問題が採りあげられる。

アメリカの頭痛の種である「貿易赤字」。日本にとっても他人事ではない問題だ。

「貿易赤字」の何が悪いかと聞くと「アメリカの職が失われるから」と答える人が多い。しかし、実は「貿易赤字」と「職」は何の関係もないと著者は断言する。たとえば90年にアメリカは980億ドルの赤字を出していて、これはGNPの1.8%に相当する。「もしこれだけのドルを国内にとどめておけたら、追加の需要でたぶんあと労働者200万人ほど雇えたって計算になる」(P.73)
ここから、「貿易赤字」が「職を失わせる」と考えてしまうのは無理もない。しかし雇用の問題でいくと、アメリカはむしろ「仕事をつくりだすのを制限している」(P.75)と述べる。
なぜか? それは「インフレ」を招いてしまうからだ。
雇用を促進して、失業率を下げようとすると、物価が上昇しだす。物価が上昇しだすとインフレになる。インフレはさらなるインフレを生み、結果的に、それはアメリカの競争力を低下させる。

そもそも貿易赤字はなぜ起きるのか?

いい例が、アメリカの80年代前半の経験だ。国民貯蓄が低下──つまり国の総収入に占める商品の割合が増えた。でも、国内貯蓄が下がってお金のフローが減っても、それを外国からの資本が穴埋めしてくれたので、投資支出はぜんぜん下がんないで高い水準のままだった。だから、アメリカ経済の総支出は、総収入よりも急速にのびたわけ。でも、ある経済が稼ぐよりたくさん支出するには、輸出するよりたくさん輸入するしかない──つまり、貿易赤字になるということ。(P.87)
 
このへんの語り口は実に明快だ。極端な状況や例、過去の考え方を持ち出しつつそれらの一つ一つを検証し、それらは実は根本的な問題ではなく、結局「総支出が総収入よりも多かった」という当たり前のところに帰着する。

そして、貿易赤字は解消しようと思えば、どんな国でも解消できると、著者は語る。

貿易赤字削減の解決には、2段階必要になる。支出を切り替えて、同時に減らさなきゃダメ。切り替えるというのはつまり、なんとかしてみんなに、外国製品よりアメリカ製品を買ってもらうように説き伏せること─これはドルを切り下げるとか、関税の輸入枠の設定なんかで可能だ。でも、これだけじゃ足りない。こういう政策がたんにインフレを加速するだけになんないよう、国内需要を減らす手だてが必要になる。(P.89)

じゃぁ、国内需要をおさえるにはどうするか?
国の財政を収支トントンにするか、あるいは財政黒字に持っていくことだ(P.89)

「外国製品よりアメリカ製品を買ってもらう」のは、ドル安施策や輸入制限などの保護貿易政策で可能なわけだけど、国内需要を減らさずにこれをやってしまうとどうなるか?
ドル安を起こすためにはドルを刷ればいいだけ。でも、ドルを刷ると「インフレ」が起きる。インフレは競争力を下げる。問題は同じところに落ち着く。

インフレの害は「経済の効率が下がること」と著者は言う。そして「ハイパーインフレ」などの特異な状況による購入意欲の低下や、インフレによってもたらされる税金システムの歪みといった、インフレの害をあげつつも、実際はインフレ率が「10%になったところで、そのコストはたかが知れている。」(P.100)とし、最も重要なのは、「みんながインフレはよくないものだと思っている」(P.100)ことだと論じる。
「インフレ5%がしばらく続くと、労働者はこのインフレが続くものと期待するようになって、それを上回る賃上げ要求をするようになる。企業も、来年の価格改定までにいろんなコストや競争相手の価格も5%上がるだろうってことで、それを含めた値段をつけるようになる。」(P.62)
ということが続くと、インフレがどんどん進行していくことになる。それは結果的に経済の効率を下げ、「競争力を下げる」ことにつながるわけだ。

これだと「インフレ」だけが残って、貿易問題のほうは解決しない。

保護貿易施策で輸入制限をかけたとしても、「アメリカの貯蓄が増えなければ、輸入が減ったら外為替市場に流れるドルが減っちゃうので、ドル高になる。ドル高は輸出にひびいて、制限のかかっていない輸入品はどんどん増える」(P.90)
(保護貿易の害は、「市場がこまぎれになっちゃうから、企業や産業がスケールメリットを活かせなくなる」(P.194))

とうことで、保護貿易施策を打っても貿易赤字の解消にはつながらない。
著者が言うように、貿易赤字問題の解決には、「国内需要を減らすような政策をもってくること」が必要となる。

国内需要を減らすには、「財政赤字の削減」しか方法はない。
しかし「財政赤字」解消はきわめて難しい。著者はここで「医療費」の問題やアメリカの総貯蓄低下の問題を絡めて、それを解決するには、結局、連邦政府として「支出をカットするか、税金を上げるか、その両方をやるしかない」(P.153)と説明する。

つまり現実問題として、支出を減らして赤字解消するには、主に中流層のためのプログラムに手をつけなきゃならないってことだ──特に社会保障、そしてメディケア。(P.154)

著者は、アメリカは貿易赤字を削減する気はないんじゃないか?と問う。
最初に説明したように貿易赤字は雇用には影響しない。「唯一の害は、外国から借金を増やして、今日のツケの支払いを明日の世代にまわしちゃうって点だけ。」(P.177)

著者は最後(5部)で、「シナリオであって予測ではない」としながら、アメリカの未来を3つ容易する。(4つ目のシナリオは問題を先送りせずに、責任ある行動をすぐに決然ととる、というシナリオだが、このシナリオはどう考えてもありそうにもないということで、書かれていない)

第1のシナリオはハッピーエンド。アメリカの生産性成長が復活するというシナリオ。生産性が拡大すれば、「この本で議論してきた問題の多く(全部じゃないよ)はあっさり消えちゃう。」(P.352)
「全部じゃない」というのは、たとえば「失業率」や「インフレ」の問題だ。これらは生産性拡大では解決されないし、また、他にも「金融危機のリスク」も解決できない。
でも、このシナリオで進めば、アメリカは極めてハッピーだ。著者はこのシナリオ確立を20%と見積もっている。

第2のシナリオは「急降下不時着」。
つまり、何をやってもうまく行かず、「大経済危機」が訪れるってもの。
しかし、まずアメリカでは1929年の大恐慌のようなことは起こらないと言う。これまた単純な理由で「ぼくたちは29年依頼ちゃんと勉強して、そして連邦準備銀行はその勉強の成果をうまく活用」(P.357)できるから。例として87年のブラックマンデーがとりあげられている。ブラックマンデーは、実は29年の暗黒の木曜日よりもひどかった。でも、87年では株式の暴落にたいして連邦準備銀行はベースマネーの供給を急いで拡大して、金融パニックを防げた。
(が、「帰ってきた大恐慌経済」では、その説をひっくりかえしている)

じゃぁ、どんな「経済危機」が起こりえるのか?
これはイギリスが80年代に招いた危機と同じようなものだと説明する。それは、失業率が低下して、インフレが加速。その結果、とんでもない不況に陥ってしまったというもの。
また、インフレ不安のせいで国債の満期が短くなると、債務危機を引き起こす可能性もある。短期の負債をかかえると、政府は投資家の不安に翻弄される。要は。満期が短い国債が多くなると、政府は毎月のように満期を迎えて、それを払わなきゃならなくなる。つまり手持ちの現金が枯渇するという不安がでてくる。単純な話。借金を返してもらえなくなるかもしれん、という不安が貸してる側(投資家)に広がる。
この手の不安は、「不安が不安を呼んで本当にそれが現実の事態になっちゃう」(P.364)可能性がある。
こうなると、政府は最悪の事態に追い込まれる。金融危機だ。
(前例は94年末のメキシコ。最近じゃアルゼンチンもでしょう)

最後のシナリオは、「経済政策はこれまでとほとんど変わらない状況で、大きな変化なしに続く」(P.367)というもの。これは著者も「予測に一番近い」としている。
このシナリオでは失業率とインフレ率は低いまま。貿易赤字や財政赤字も続くけど、それほど悲惨な状況もならない。

この本は97年6月に上梓されているわけだけど、一番最後で

これを書いている時点では、アメリカの政治で「長期的な」というとき、それは7年ということだという不文律がある感じだった。それ以降に何が起こるか、誰も話そうとしない。するとこれは、アメリカ経済政策についての世論が2004年くらいにいきなり現実味を持ってくる、ということかもしれない。あるいは、見て見ぬふりや逃げ腰が、その後でさえも続くのかもしれない。2010年より手前のどこかで、押し寄せる年齢的な危機は、だれにでもはっきり見えるようになってくるはず。
人口高齢化の負担が無視できなくなったら、何が起こるんだろうか。現実味のあるシナリオを考えつくのはむずかしい。(P.372)

と語られている。
2004年。まさに今年だ。97年から2004年まで、アメリカはどうだったろう? ブッシュは派手な戦争をはじめたり、減税したりで財政赤字は拡大してるし、(クリントン時代のツケがまわってきたという説もあるが) どう考えても状況はハッピーエンドへは進んでいない。
その意味ではアメリカはかなりバカな大統領を選んでしまった、ともいえるかもしれない。

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2004/01/25 02:12

2004年01月23日

ランチェスター理論からの人生必勝の法則?

随分前に読んだ本だけども、「小さな会社・儲けのルール―ランチェスター経営7つの成功戦略」の最後の方に「人生の成功方程式」ってのがでてくる。

小さな会社・儲けのルール―ランチェスター経営7つの成功戦略

小さな会社・儲けのルール―ランチェスター経営7つの成功戦略

ランチェスター理論の第二法則「攻撃力=兵力数2×武器性能」を仕事や人生に応用するとどうなるかと考え、「y=ax2」って公式を考えたそうな。
「y」は仕事の成果、[a」が素質、そして「x」が時間。
つまり、「成果」は「素質」×「時間」の2乗。これに「過去の実績・b」を足すと、それが人生の法的式になるのではないかと著者は考える。

y(人生)=a(素質)×x2(時間2)+b(過去の蓄積)

「a」は自分の才能や能力ってことになるわけだけど、ランチェスター理論から考えると、けっこう厳しいことが書かれてる。

自分が100人中10位だったら、順位評価でいくと上のほうにみえるでしょう。でも、10位は経済的な力では真ん中あたりなんです。自分の順位が20位だったら見た目は上ですが、実際は中のしたになるんですよ。60位だったら中の下ですが、経済的には下の下。これを「番外」と言います。
才能を経済的に評価すると、100人中3位以下には価値がないのです。

「パレートの法則」で考えてみると、こういうことになってしまう。

「b」には、1.親の財産、2.親の七光り、3.親の事業相続、4.自分のお金、5.不動産、6.学歴などが考えられる。

で、考えて見ると、たいていの人は「a・才能」も「b・過去の蓄積」もない。

aもbも定数で変えることはできない。それでも「y・人生」をより良く送るにはどうしたらいいか。
あとは、xを上げていくしかありません。x=努力=時間。これはいくらでも、自分の意志で上げることが可能なのです。しかもxは2乗になる。
つまり、aもbもなく、それでも人並み以上の成果を望むなら、長時間労働は不可欠なのです。

こんなこと言っちゃったら「お上」のお咎め受けるんじゃないかとちょっと心配なんですが、著者はアメリカ・コロンビア大学のバーナード・O・コープマンがシミュレーションして求めた必勝の法則を例に出す。それは、約3倍を投入するとたいていは勝てるって理論(理論なんだろうか?)
つまり、人の3倍働けばビジネスで成功するってことです。
じゃぁ3倍とはどれぐらいか? 1日7時間労働が平均なら、xは2乗になるので、ルートをかければいい。

7×(ルート3)=12時間

ということで、12時間働けば勝てると。
これを「日」で考えた場合には、中小企業の平均1850時間にルート3をかけて、3200時間ってことになる。

4倍の圧勝型が3700時間、5倍の決死型が4140時間となります。
自分はどうも人より才能や実力が劣ると思った人は4140時間。
これを10年から15年続ければいいのです。

この方程式で勇気付けられて前向きになれる人もいれば、こんな大変なことをしなきゃならないならそれは「良い人生」じゃないんじゃないの、と悲観的になる人もいるだろう。人生をこんな方程式で表すこと自体がバカバカしいし、意味ないことだと考える人もいるだろう。でも、好きな仕事や好きなことなら、多分、これぐらいは平気じゃないと駄目な気もする。(それで「成功」するとか「勝つ」とかそういうことはどうでもいいっちゃいいんじゃないか)
といことで、結局は、これだけの時間を投入しても平気なぐらい好きなことに取り組めれば「良い人生」が送れるってことじゃないかと。好きなことしてりゃ、睡眠時間削ってでも、その時間はとりたいって思うもんなぁ。

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2004/01/23 01:11

2004年01月20日

会社にお金が残らない本当の理由

会社にお金が残らない本当の理由

会社にお金が残らない本当の理由

これまたフォレスト出版で、著者自身も最後に述べているが神田昌典さんの影響が随所に見受けられる。
とはいってもここ最近読んだこの手の本(神田さん系)のなかでは一番面白かった。
普通の人なら多分2時間もかからずに読める。なので会社経営に携わってる人は読んどいたほうがいい。もちろんこの人の言ってること全て肯定できるわけではないけれど。

会社にとって最も重要なのは四つの「数字」だと著者は断言する。その四つの数字とは、


  1. 一人当たり付加価値
  2. 労働分配率
  3. 一人当たり経常利益
  4. ROA(総資本経常利益率)またはCROA(総資本キャッシュフロー率)

のこと。この四つの数字の管理に気を配りましょう。この四つの数字のライバルを上場企業に設定しましょう、と著者は述べる。
幸いなことにボクらの会社の面倒を見ていただいている顧問会計士、税理士さんは、著者が例にあげるような駄目な人達ではないので、このあたりの数値や指標についてもかなり細かく指導してもらっている。
けど、さすがに上場企業をライバル指標にしたことはなかった。同業界の黒字企業平均と、同業界の優良企業の平均値を指標にしてはいるけれど。

なぜ上場企業を目標にするか。著者は「平均」は中小企業の場合、非常に良い会社とその他の悪い会社で分布しているため意味がないからだと説明する。なるほど。確かにそうかもしれない。

一人当たり付加価値
説明するまでもなく、粗利に給与やら賞与、社会保険料なんかを足して、その金額を社員数で割ればいい。アルバイトやパートは単純化して0.5人でもいい。(厳密には一人一人の働いた時間、給与水準などで指標を出すが)

一人当たり付加価値は1500万円以上を目指す、これが著者が掲げる目標。できるならば2000万円以上が望ましい。

労働分配率
粗利(付加価値)をどれぐらい人件費に分配したかという指標。
うちも労働分配率は当然指標として見ているけど、面白いのは「役員報酬」と「社員給与」を分けて考えようという発想。この発想は正直なかった。
で、著者はずばり、「役員報酬を20%、社員給与は30%、合計で50%という分配が適正」だと語ります。(あくまでも「経験則」としてという断りはあるけど) つまり、粗利が1000万円なら200万円を役員報酬に、300万円を社員給与にということ。

一人当たり経常利益
これまた当たり前ながら利益を社員数で割るだけ。
一人当たり経常利益としてどれぐらいが妥当か? ここは経営者の個性によって異なるとしながらも、著者は「私は、一人当たり経常利益は200万円を最低基準にして経営する」と言う。
これまたすごい数字だ。正直、この数字が達成できてたらかなり凄い。うちの会社は全然及びません(といっても、ひど過ぎる数字でもないけど)
ちなみに、一人当たり経常利益200万円というのは日経流通新聞の企業ランクで言うとだいたい20位ぐらいらしい。マツモトキヨシやヤマダ電機などがいるあたりとのこと。

ROA/CROA
ROAは経常利益÷総資産だけども、総資産をキャッシュで見たらCROAになる。
ROAは最低20%。特に総資産が少ない経営初期には50%は欲しい。

一般的には7%あればいいと言われています。しかし、それは大企業の数値です。
利回りは運用資産が少ないほど高くなるというのが常識です。
ですから、大企業のように何百億もの資産を運用するより、何百万円、何千万円の運用の方が利回りが高くなります

と、「平均値」をあっさりと退け、20%、50%という数値目標を出してくる。このあたりの言い切りと具体的な数値目標の設定がわかりやすい。

労働分配率は管理数値なので、それ以外の3つ。
「一人当たり付加価値」「一人当たり経常利益」「ROA/CROA」
この3つの数値で一流企業と競争をしましょうってことだ。これは高い目標ではあるけれど、具体的な目標として示されるとじゃぁどこまでやれる考えてみようって思考になる。これは良いことだ。

別のところで、著者は商品やサービスを高値で売ることは、自分自身のストレッチになる、というようなことを言っている。つまり価格を高くすれば、安い価格よりも売りづらい、さらにお客さんの期待度も高くなる。期待度が高いので裏切られたときの失望は大きい。でも、期待を超えるようなサービスができれば顧客満足に繋がると。そういうシビアなところに身を置くことが、思考を鍛えたり努力することにつながる。すなわちストレッチだと。

この四つの数値の目標もストレッチみたいなものか。「平均」に寄りかかってるだけじゃ鍛えられない。

合法的な裏帳簿
これも中小企業ならよくやっていることだが、役員報酬を高く設定して、利益を出さないようにして、役員報酬から内部留保を作り出すってやつ。
これを上記四つの数値に絡めてきちんと管理する。見かけ上の役員報酬と、本当の役員報酬を区別し、その差分を会社のお金としてきちんと留保すること。これをやって合法的に内部留保を増やしていこうって提案。これはよくやることだけど、実はうちの会社はやってない。このあたりが倫理観なのか社風というべきか。
ただ合法的に利用できるものは、それを利用しない手もない。

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2004/01/20 03:04

2004年01月11日

キャラクター小説の作り方

キャラクター小説の作り方

キャラクター小説の作り方

「小説の書き方」の本ではあるのだけれど、どちらかというと、いわゆる「スニーカー文庫のような小説」の執筆者、それに関わる編集者や出版社へ、自分達の小説ジャンルの可能性や課題に自覚を持ちましょうよ、という呼びかけのようにも思える。

著者は「スニーカー文庫のような小説」を日本の自然主義的な小説の流れと比較して、リアリズムの問題について語る。

日本で日本語によって書かれている小説の大半は「自然主義」的な考え方を当然のように採用していて、あまりにも当然のことすぎて誰も気にもとめませんでした。
その中にあって数少ない例外が「スニーカー文庫のような小説」なのです。

自然主義的な小説は、「現実」を「写生」する。そこには必ず現実の人間や肉体を考え方の基準にしているわけだけれども、「スニーカー文庫のような小説」においては、その出自から「現実」というものを「写生」の対象にしていない。「スニーカー文庫のような小説」はアニメやコミックなどの虚構を写生する小説であり、そもそも「小説」が自明的に持っている作法や枠組みから逸脱しているというわけだ。

これは「スニーカー文庫のような小説」の一つの可能性でもあり、また、課題でもある。しかし、「スニーカー文庫のような小説」の書き手も含め、そのことを自覚していない人達がこの業界には多すぎる、ということを問題だと語る。

自然主義的な小説の始まりとして、田山花袋の「蒲団」はよくとりあげられるが、著者はこの小説が新しい時代の始まりにおいて、「新しい現実」を捉えるために「言文一致」が必要であったという構図を見出す。
この構図は、柄谷行人が「日本近代文学の起源」で語ったこととほぼ同じだと思う。(手元に本書がないので、なんて言ってたか正確には覚えていないのだけど)

柄谷も「風景」や「内面」といったものが、文学を通じて発見された(つくりあげられた)というようなことを確か語っていた。
著者が分析している点で、非常に面白かったのは、「芳子」が「私」を獲得しようと必死に「作家」に手紙を送る時、その文章は「言文一致」で書かれるのに対して、夢破れ、帰京して遣す手紙は「候文」で書かれ、そこには「私」は存在しない、という指摘だ。
「私」という仮構を見出すためには、「文学」が必要だったわけだ。

■キャラクター小説の書き方

キャラクター小説の書き方としての実用的な部分では、「テーブルトークRPG」で特訓する方法や、キャラクターの設定方法なども語られているが、僕が個人的に面白かったは、「お話の法則を探す」という章だ。
アメリカの民俗学者アラン・ダンデスの「民話の構造」を下敷きにして語っているのだけど、これは「面白い話」をつくる方法としてはいろいろつかえる。
「面白い話」には次のような構造がある。


  1. 何かが欠けている
  2. 課題が示されている
  3. 課題の解決
  4. 欠けていたものがちゃんとある状態になる

民話の構造分析でもこの四つのプロセスからなるパターンを踏襲されているケースが多い。そして、この四つのプロセスに、いくつかの「サンドイッチの具」が挟み込まれているとする。

サンドイッチの具の例


  • <欠乏><欠乏の解消>
  • <禁止>と<違反>
  • <欺瞞>と<成功>
  • <脱出の試み>

「売れるテキスト」を書く方法なども、神田さんの「PASONAの法則」など、いろいろあるけど、こういった民話や神話の構造分析を応用するという手もあるんじゃないかと思った。
年収900万円!!ラクラク儲けるインターネット通販―だれでも毎日が給料日」では、ストーリーの作り方を、

  1. 問題(お客の疑問・悩み、文章の論点)
  2. 事例(体験から得た解決策・方法論)
  3. 意見(専門家から見た問題の結論)

という順番でパターン化している。
この順番は、「おもしろい話」の構造と同じだ。「問題」では「お客の疑問・悩み」に焦点を絞る。そこれは「何かが欠けている状態」と同じだろう。

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2004/01/11 17:32

2004年01月08日

年収900万円!!ラクラク儲けるインターネット通販―だれでも毎日が給料日

年収900万円!!ラクラク儲けるインターネット通販―だれでも毎日が給料日

年収900万円!!ラクラク儲けるインターネット通販―だれでも毎日が給料日

年間3万円で成功したスーパーインターネット通販―ほったらかしでも儲かった!」「年間3万円でできるスーパーインターネット顧客獲得術―だまっていても集まった!」もそうだったが、この手の本が凄いのは、読むと、「オレでも出来そう」とその気にさせてしまうところがあるところではないかと思う。

「神田昌典系」なんだろうけど、僕がこの手の本を読んで思い出すのは、僕が受験のときにちょっとしたブームになった「有坂誠人の現代文速解例の方法」だ。一種の裏技だ。「問題」を見なくても「解答選択肢」さえ見れば、正しい答えはある程度わかってしまう魔法の方法。

魔法でもなんでもなくて、問題の作り手の立場にたったときに、どのように選択肢をつくるのかというところから考えれば、「正解」を絞り込むことができますよ、と言ってるだけなのだけど。(僕はこの本より前に、清水義範の「国語入試問題必勝法」を読んでいて、その方法を高校のクラスの連中に得意げに話していた。なんで、「例の方法」がブームになっときには、僕のほうが先だってんで、ちょっとしたヒーローになったりした)

確かに、間違ってはいない。そういう方法や考え方はあるときには凄く役に立つ。でも、それだけに全面的に頼っていても、ほとんど「実力」はつかない。公式どおりですべてうまくわけじゃない。ある方法を使えば、あるところは犠牲になることもあるだろうし。
内容が面白くないわけでも役に立たないわけでもない。でもこれに頼り切ってしまうのは危険だと思う。知識としては得ておいて、ケースバイケースで最適な戦略・戦術をとっていくべきだろう。

読後感はそんな感じなのだ。
タイトルが煽情的過ぎたりするのもあるかとは思うし。いくらなんでも「年収900万円」が「ラクラク」なわけあるまい。本書に登場するいくつかの事例も、みんなかなり苦労してるし。

あと、仕方ないのだろうけど、この手の本では必ずといっていいほど「プロ」批判ってのがでる。神田さんが広告会社やコンサルタントを批判したように、本書でも毎度おなじみだけど、プロにサイト構築をまかせたら、○○万円もとられて、トップページで動画がうごくかっこいいページができたけど、問い合わせは0件でした」みたいな表現がでてくる。
で、プロのウェブデザイナーは、FlashやらJavaやら技術のことには明るいけどマーケティングを知らないから駄目だ、というような結論。

もちろんそういうデザイナーや制作会社だってあるのだろうけど、もうちょっと現実を見たほうがいいんじゃないかと。ウェブ制作従事者だってそんな馬鹿じゃないだろう。そんなレベルの仕事しかできないところは、淘汰されていくだろうし。

■メモ
「売れる文章と売れない文章の違い」で、売れない文章は「安さで勝負」、売れる文章は「お得感で勝負」、売れない文章は「商品が主語」売れる文章は「お客の悩みが中心」売れない文章は「現状の問題解決」しか語らず、売れる文章は「ステキな未来像まで語る」
とのこと。

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2004/01/08 01:50

2004年01月06日

アメリカの広告業界がわかればマーケティングが見えてくる

アメリカの広告業界がわかればマーケティングが見えてくる

アメリカの広告業界がわかればマーケティングが見えてくる

WPP、IPG、オムニコムといったいわば「メガエージェンシー」の動向を中心に、アメリカの広告業界でどのような変化が起きつつあるのかを語っている。特に目新しいことはなく、知ってることばかりなので、タイトルは誇張しすぎじゃないかと思う。

どのメガエージェンシーが、どんな広告会社を持っていて、どんなクライアントを抱えているのかってのは、あまりにも複雑すぎて覚えきれない。

ここに書かれてある情報もすぐにまた新しい情報に書き換えられるだろうから、覚えてもあまり意味はないのだけれど、今後を追いかけるためにメモしておく。

WPPにはオグリヴィ&メイザーやJ.ウォルター・トンプソン、ヤング&ルビカム。IPGではマッキャンやロウ・グループ。オムニコムはBBDO、TBWA、グッビー・シルバースタイン&パートナーズあたり。あーややこしい。

自動車会社とエージェンシーの関係でいくと、
WPPはフォード(J.ウォルター・トンプソンがフォード/オグリヴィ&メイザーは、フォード・カスタマーサービス部門/ヤング&ルビカムにリンカーン、マーキュリー、ジャガー、ランドローバー)
IPGはGMか。マッキャンがビューイック、ロウ&パートナーズがGMC、サーブ。キャンベル・エワルドがシボレー...
オムニコムはBBDOがクライスラー・ジープやダッジ。TBWAに日産、インフィニティー、グッビー・シルバースタイン&パートナーズにはいすゞ、サターンと。

トヨタ、レクサスはピュブリシス・グループのサーチ&サーチ、BMWはファロン・ワールドワイド...
今も、このデータは正しいのかしらん。

広告手法としては、テレビ番組や映画に商品やブランドを登場させる「プロダクト・プレースメント」手法が急増しているようで、面白いのは、このような背景に対して、

IPGは投資銀行を使って、作家、放送作家や脚本家の代理人を務める「リテラシー・エージェンシー Lieracy Agency」を買おうとしている。つまり、コンテンツを押さえにかかったのだ。

「プロダクト・プレースメント」の新手法としては、プリンストン・ビデオ・イメージ Princeton Video Imageって会社が開発した技術で、生放送中のテレビ画面に広告やブランドをインサートしちゃうってやつ。

この技術を応用したバーチャル広告を最初に使用したのは、サンフランシスコ・ジャイアンツらしい。「1996年から打撃ボックスの背後にあるブルーの壁にスポンサーのロゴを映し出すようになった。」とのこと。
デジタル処理なんで、時間単位で広告を変えたり、放映する地域によって異なる広告を流したりできる。

著者も言及しているように、放送のデジタル化が進めば、この手の手法はどんどん増えてくるだろうな。僕らがテレビで見ているものは、それが「生放送」だろうがなんだろうが、どれが「リアル」なものそのままを映し出していて、どれが加工されているかなんてわかんなくなる。ビットの世界。

誰かに聞いたけど、アイスホッケー中継なんかでも、パックにセンサーかなんかつけて、シュートが放たれると、テレビ映像ではパックから火が吹くようなCGI処理が動的にインサートされて表示される、なんてことが行われたりしてるらしい。(もちろん生放送で)
すごいねぇ。少林サッカーの世界。その人曰く、それはテレビでしか味わえない「臨場感」なんだそうだ。シミュラークルのシミュラークル。

メモ。bmwfilms.comは、1本300万ドルはかかったと推測されているらしい。1本7分前後とはゆえ、あれだけの監督に、あのキャスト、映像じゃなぁ。しかし、おそろしい金の注ぎ込み方だ。

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2004/01/06 02:24

2004年01月04日

動物化するポストモダン

動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会

動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会

「オタク」を通じて、80年代以降の日本の文化状況の分析しようという試み。「郵便的不安たち#」の仕事の延長なので、そこに語られていることに驚きや感動はない。

さまざまな事例を持ち出しつつ、「ポストモダン」における社会システムがどのようなものかということを、得意の二分法的思考で分析している。しかし、ではそのような世界において、人々はどのように生きるのか、という問いへは踏み込んでいない。それに踏み込むことが大事というわけではもなく、もちろん今、この状況を冷静に相対化するということも重要だろう。精神分析では、自分が自分自身を正確に知ることはできない、という前提に立つが、「自分には自分でも知りえない部分がある」ということを知ることが重要だとされる。それと同じようなものだろう。

以下は読書メモ。
(ほとんど校正などもせずに、思いつくままを引用して、そこで考えたことをまとめただけです。なんで、構成とか無茶苦茶です)

■オタクに特徴的な世界観

オタク達の特徴的な世界観は

「萌え」とは、「キャラクター(シミュラークル)と萌え要素(データベース)の二層構造で成り立っている」

オタク系検索エンジン「TINAMI」は、そのもっとも特徴的な検索システムだ。
「TINAMI」ではキャラクターの部分的な特徴を細かく指定して、自分の好みに合うイラストを効率よく探すことができる。

たとえば、

萌え要素を「猫ミミ」と「メイド」を指定し、「キャラ含有率」を75%以上に、「キャラ年齢」を10歳から15歳に、「ディフォルメ度」を5に設定して目的のサイトを検索する

という具合だ。

僕は「TINAMI」を知らなくて、はじめて使ってみたのだけれど、これは驚きだ。たとえば、「キャラ性別」も「女100%─男0%」から「女25%─男75%」という具合に細かい条件が指定できたりする。うーむ。ほとんど理解不能。

こういった検索システムなどから、東さんは、オタクにおいては、「匿名的に作られた設定(深層にあるデータベース)と、その情報をそれぞれのアーティストが具現化した個々の作品(表層にあるシミュラークル)」が存在するのみであるとし、それがいわば、ポストモダン的な世界観の特徴としても一般化できると言う。

もちろん、データベースからの要素の抽出と、それを組み合わせてつくられるシミュラークルという構図はは何も今に始まったことではない。

キャラクター小説の作り方」で大塚英志は、手塚治虫の自分のまんが絵が「記号」の組み合わせだった、という発言などを例にとりながら、「近世の歌舞伎、そして戦後まんがと、その時代時代の物語表現は常にデータベースからのサンプリング、あらかじめ存在するパターンの組み合わせなのです」と、批判している。

たしかに、「物語」の祖形は、神話や聖書、千一夜物語などに求められるだろうし、その意味では、「データベース的設定」は、オタク文化に特徴的なことではない。

しかし、このシミュラークルとデータベースという二分法の構図において重要なのは、東さんは明言していないが、このようにして生み出されたキャラクターに、オタク達がセクシャリティを抱いているかいなかということだ。
「萌え」とはそもそも、オタク達が虚構のキャラクターに対して感じるセクシャリティを戯画化することで生まれた表現だ。
(このあたりは、斎藤環の「戦闘美少女の精神分析」で、詳しく分析されている)

簡単に言ってしまえば、オタク達はそういった極めて虚構性の高い、単なる要素の組み合わせのキャラクターでさえも「抜ける」ということだ。(僕にはまったく理解不可能なんだけど....)

つまり、オタクは「虚構重視」の姿勢が徹底している..... では、なぜそれほどまでに「虚構重視」の態度が生まれるのだろうか?

■ポストモダンにおけるコミュニケーションのあり方

オタクの行動を特徴づけるのは「虚構重視」の態度であり、それは、単純に虚構と現実の区別がつかなくなっているわけではなく、「社会的現実が与えてくれる価値規範と虚構が与えてくれる価値規範のあいだのどちらかが彼らの人間関係にとって有効なのか」ということを天秤にかけた結果だと分析する。

オタク達が趣味の共同体に閉じこもるのは、彼らが社会性を否定しているからではなく、むしろ、社会的な価値規範がうまく機能せず、別の価値規範を作り上げる必要に迫られているからなのだ

とする。そして社会的価値規範が機能しなくなったのは、お決まりの「大きな物語の凋落」を真因として語っている。

東さんは「オタク一般」として、語っているが、これらのことが「オタク」だけに特徴的な行動や価値観かというと、必ずしもそうではない。
「オタク」はもっとも先鋭的に、極端に、こういった特徴が現れているだけであり、これらの特徴は今を生きる市井の人にほとんど当てはまることだろう。

たとえば、僕たちには、60年代、70年代に力を持ったような「共産主義」的な神話もなければ、それこそ「国家」や「親」あるいは、「出世」といったものもない。辛うじて社会的価値規範として機能していた「マスメディア」でさえも、昨今のテレビ視聴時間の低下などを見るとその役割を果たせなくなりつつあるのではないかという気がする。(テレビ視聴時間の低下は、インターネットやケータイ電話の利用時間にとって変わられているのだろうか?)

社会的な価値規範を妄想的につくりあげようとしたのが「オウム真理教」だったわけで、「オウム真理教」がなぜ、あれほどの高学歴の人達を惹きつけてしまったのか、というのは、単に「馬鹿だった」ということではないだろう。その背景には、「物語」の喪失による「生き難さ」に、麻原の語る「理想」がぴったりとはまってしまったことがあるのだろう。(僕はオウム事件を擁護したりは絶対にしないのだけど)

「社会的な価値規範」が凋落するとコミュニケーションが難しくなる。つまり、簡単に言ってしまえば「話題」がないということだ。つまり、見渡せば私たちの周りには「他者」ばかりということだ。何かしらの共通の言語を有する人達を見つけることは極めて困難になりつつある。

価値規範が断片化すればするほど、コミュニケーションは難しくなってくる。オタク達は、そのような状況に対して、「趣味の共同体」に閉じこもるという行為にでるが、オタクに限らず、多くの人が同じような行動に出ているのではないか。その「趣味」が「アニメ」ではないだけで、ほとんどの人は閉じこもっているのではないか? 閉じこまらざるをえなくなっているのではないか?

現実の必然性はもはや他者との社交性を要求しないため、この新たな社交性は、現実に基盤をもたず、ただ個人の自発性にのみ基づいている。したがって、そこでいくら競争や嫉妬や誹謗中傷のような人間的コミュニケーションが展開されたとしても、それらは本質的にはまねごとであり、いつでも「降りる」ことが可能なものでしかないのだ。

僕がウェブに惹かれるのは、他者のコミュニケーションを、こちらの存在を知らしめることなく、傍観できることと、また自身がそのコミュニケーションに踏み込んだとしても、いつでも「降りる」ことができるからではないか?


■「大きな物語」なき世界での人間性

ポストモダンでは超越性の観念が凋落するとして、ではそこで人間性はどうなってしまうのだか? という問いは、ノベルゲームへのオタクの反応などを分析しつつ以下のように述べている。

ポストモダンの人々は、小さな物語と大きな非物語という二つの水準を、とくに繋げることなく、ただバラバラに共存させていくのだ。分かりやすく言えば、ある作品(小さな物語)に深く感情的に動かされたとしても、それを世界観(大きな物語)に結び付けないで生きていく、そういう術を学ぶのである

そして、最後にこう結論づける。

データベース型の世界の二層構造に対応して、ポストモダンの主体もまた二層化されている。それは、シミュラークルの水準における「小さな物語への欲求」とデータベースの水準における「大きな非物語への欲望」に駆動され、全社では動物化するが、後者では擬似的に形骸化した人間性を維持している。
[略]
この新たな人間を「データベース的動物」と名づけておきたいと思う。
[略]
ポストモダンの人間は、「意味」への渇望を社交性を通しては満たすことができず、むしろ動物的な欲求に還元することで孤独を満たしている。
[略]
世界全体はただ即物的に、だれの生にも大きな意味を与えることなく漂っている。

これは宮台真司が分析している現在の社会状況(「島宇宙化」)とほぼ同じだ。宮台さんは、こういった状況にたいして「ブルセラ少女」の「戦略」を、「生きる術」として獲得すべきと語る。一方で、東さんは、「縦方向ではなく、横方向への超越性、その実践」を行わなければならないと、別のところで語っている。

どちらの戦略が優れている優れていないとうことではなく、結局のところ、もう「大きな物語」なんてないんだという自覚を基盤として、そんな「今」を誇大妄想で埋め合わせなどせずに生きなきゃならないということか。

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2004/01/04 14:05

2004年01月03日

熊の場所

熊の場所

熊の場所

今もっとも、時代とシンクロしている作家じゃないかと勝手に思ってる舞城王太郎の短編集だ。表題作は三島賞候補にあがったが惜しくも落選。その後、昨年「阿修羅ガール」で三島賞を受賞し、名実ともに現代日本文学を代表する書き手になったことは、以前のblogでも書いたとおりだ。

本書におさめられている短編の「熊の場所」と「バット男」は「群像」で既読だったが、「ピコーン!」は書き下ろしということで、改めて読み直そうということで購入した。

舞城の作品を昨今頻発する少年犯罪と絡めて考えたり論じたりするのは、僕は正直あまり意味ないんじゃないかと思っている。「熊の場所」の「まー君」は酒鬼薔薇事件の加害者を安直に呼び寄せてしまうかもしれないが、舞城はまったくといっていいほど「まー君」のプロフィールや出自や思考を描いていない。それを描くことは類型化の道を辿ることになるからだ(柳美里が犯してしまった間違いのように)。だからこそ主人公「僕」の視点を通じて、この不条理な世界や暴力や性について、そんなものはたいしたことじゃないや、考えてもよくわからないや、とにかく「恐怖」の源、それが発生した「場所」に戻るしかないや、というような思考を連ねさせるだけなのではないか。

書評については、舞城王太郎、村上春樹、法月倫太郎を横断しながら、いかにして現代における「親」(小説的規範や社会通念、そして「村上春樹」)を乗り越えるか?を論じた優れた評論「僕たちよ、「熊の場所」へ戻れ」(書評パンチ)を引用しておく。

舞城王太郎は、あきらかに父の世代である村上春樹を乗り越えることをスタートラインとして書きはじめた作家だ。舞城の作品では家族というテーマが、なんども繰り返し描かれる。80年代以降に山ほど描かれた、単純な家庭崩壊劇はもうたくさんだ、俺は家族を崩壊させないままで、暴力に満ちたリアルな世界を生き抜くための倫理を描く、という彼の叫びが聞えてくる。そのためには、子どもはまず、みずからの内なる恐怖心を乗り越えなくてはならない。そうすることが、親を乗り越えることなのだ。

さて、少し視点を変えて、僕が舞城王太郎を現代の書き手だと意識するのは、その文体のスピード感だ。
そのスピード感を生み出しているのは、安直な喩えだけれども、「手紙」と「Eメール」との差異のような気がする。現代を生きる作家であっても、そのほとんどが前時代的な「手紙」的な重量と密度を持って、テクストは綴られるのに対して、舞城の文体には「Eメール」の軽さがまとわりついている。その「軽さ」が極めて現代的なんじゃないかと思うのだ。
それはたとえば、女子高生の間で大流行して、とうとう出版までされてしまった「携帯ノベル」の文体などとは全く異なる。「携帯ノベル」は、単に携帯で読みやすいように書かれているだけであり、その文体はやはり「手紙」の持つ価値や希少性みたいなものを意識している。
ところが舞城の文体には「希少性」が欠けている。文章というものが必然的に持ってしまう「質量」を極力そぎ落とそうというような意識が見える。

「(^^)」や「(^^;」といった顔文字を使うことで、硬くなる意見や主張を和らげたり、恐縮したりしていることを表現するというのは「Eメール」に限らず、チャットや掲示板などでもインターネットにおけるエクリチュールでは頻繁に利用されるだろう。インターネットの世界においては、意味的な厳密さや強度をいかに上げるかということよりも、顔文字のような記号でごまかすことでスピードを上げることのほうが重視されている。

小説技法において、このスピード感は、一種の「逃げ」であり、筆力のなさの裏返しとして捉えられるような風潮があるが、舞城はあえてそこに挑んでいる。なぜなら、そのスピード感こそがリアルだからだ。無為に言葉を積み重ねるよりも、「ララー」「ガツッ」「うふふ」というような感嘆表現や、感嘆符による「驚き」「発見」の表現のほうが、大袈裟な比喩を持ち込むよりもずっとずっとリアルに主人公たちの心の動きが見えるからだ。もちろんこの手の技法はたんなる「技法」としてすぐに朽ちてしまう可能性があるわけだけれども、今、現在においては、小説の「薄っぺらさ」、主人公の思考の「薄っぺらさ」を十分に表現することに成功しているのではないかと思う。(そもそも「内面」みたいなものが重視されること自体が、小説的な形而上学主義ではないか...?)

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2004/01/03 16:04

2004年01月02日

下がり続ける時代の不動産の鉄則

下がり続ける時代の不動産の鉄則

下がり続ける時代の不動産の鉄則

べつに家を買おうなんてこれっぽっちも思っていないのだけど、仕事で、クライアントから「共通言語」をつくりたいので読んでおいて下さいと、この本を含む3冊の本が指定された。ということでまずはこいつ。

書かれてある内容はおそろしく当たり前のことばかりのような気もするのだけど、マスメディアを賑わす言葉は確かに世の常識とは少しずれてるような気がする。
「ピークに比べれば、かなり値下がりした。今が下げのピークだろう」「一部の地域では値が上がりはじめている。不動産は今が買いどき」
そんな言葉がまことしやかに囁かれる。

このような噂をを著者は一掃する。
著者は、不動産の価格下落の真因は、

日本の地価が90年以降、下落を続けているのは、不況による影響は多少あるが、より根本的な要因は「不動産を取り巻く環境が構造的に変化してしまった」こと

と説明する。

そのロジックは明快だ。

  • 小子化、高齢化の加速。日本人口は2006年頃をピークとして減少に転じていくといわれている。50年後には日本の人口は1億人の大台を割り込む可能性がある。
  • 既に日本では、住宅数が総世帯数を上回って空家数が600万戸近くになり、空家率は11.5%。9戸に1戸は利用されていない状況となっており、「家」あまりが顕在化している。
  • 経済のグローバル化や、日本における企業活動のコストの高さを要因として、より低いコストで生産できる地域で企業活動を行う企業が増加。企業が日本に保有する土地を売却したり、賃貸に切り替えるケースが増加。

こういったマクロ的要因を考えれば、不動産が値上がりしていくことはおかしい。すでに日本では「不動産」は余っている状況であり、今後の不動産価格は完全に二極化していくと結論づける。
当たり前といえば当たり前だ。しかし当たり前のことが当たり前にならないのが不動産業界の不思議だ。確かに、家を購入するにあたって、このようなマクロ的視点からきちんとリスクを分析して判断している人は少ないような気がする。

貴重な場所の選定は、「面」ではなく「ポイント」で峻別される時代だ。 その結果、利用目的にピッタリと合致しない不動産は、容赦なく選別され、振り落とされて、価格は驚くほどの低い価格となる。需要の二極化が起きて、それに歩を合わせるように価格の二極化が進むという市場構図になっている。

都道府県別に人口の転入や転出の状況を見ても、

首都圏と愛知県、滋賀県、福岡県、沖縄県などが増加傾向にあるが、その他の府県ではマイナスか、増えていない状況

というデータからビジネスの東京への一極集中化の加速が進むが、その他の地域は今後も地価価格は下落し続けるだろうと説明する。
(著者は1989年に「関西圏から不動産価格が大幅に下落する」を発表し、その予測の正しさを実証したらしいが、その分析も、このような人口動態の分析から導き出されている)

著者は、バブル崩壊後、1994年頃から新築分譲マンションや新築の建売住宅が飛ぶように売れていってる状況を、「住宅バブル」と名づける。
それは住宅取得への金融緩和などにより、無理矢理つくりだされたものだと言う。新築住宅の購入者には全額ないしはそれに近い融資が行われ、「頭金ナシ」でも購入が可能なり、30歳前後の若いシングル、DINKS(子供のいない共働き夫婦)の需要が伸びたからだ。

しかし、不動産保有には維持管理コスト、固定資産税、都市計画税など予想以上のコストがかかる。デフレ時代に借金をして家を購入するということは、いくら低金利とは故、極めて危険な行為だと警告する。構造的なデフレ状況では、給料が上がり続けるとは限らないし、会社も安泰とは限らない。また、いざ不動産を処分しようと思っても、上記のような「家余り」「完全二極化」の状況では、よほど立地の良いところでもない限り、ただ同然でも売り手がつかなくなる可能性がある。

「住宅バブル」の崩壊は、今後、不動産購入者の自己破産の増加などでより著しく顕在化してくるだろうと、著者は予測する。

このような状況の中、不動産所有に対しては以下のような考えを持って対処すべきだ。

これから先の不動産所有の基本的な考え方においては「量より質」を重視する方向転換を図る必要がある。すなわち、質の高い物件を「数少なく」所有する方が効率が良い
住居として、あるいは企業活動に土地が必要になったときは、とりあえず利用する必要最低限度で取得したい。必要以上に購入すれば、そのぶんだけ資産ロスが大きくなってしまう。もちろん、希少性が極めて高い特殊な不動産は別であるが、通常のものであれば、必要以上に買い急ぐことはない。

うちの会社でも最近、マンションや家を購入する人がちらりほらり出てきている。彼らは資産というよりは「住まい」としての利用目的をしっかり考えて、購入している。しかし、家購入者を横目で見ながら、いざとなったら「貸せばいいや」「売ればいいや」的な発想で購入を検討している人もいる。

しかし、著者が言うように、「必要以上に買い急ぐことはない」だろう。
なぜなら、不動産価格は今後も下がり続けるからだ。
少なくとも、本書を読んでから購入を検討しても良いのではないだろうか?

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2004/01/02 22:16

村上春樹と庄司薫の一致

明けましておめでとうございます。(と、とりあえず誰にかわからないけど新年の挨拶をして....)

実家に帰ったので、東浩紀の『存在論的、郵便的 ジャック・デリダについて』を持って帰ろうと思い、探していたのだけど見つからない。いったいどこにいったのか? 『動物かするポストモダン』はようやく読んだので、改めて原点を読んでみようと思ったのだけれど。東京の部屋にあるのかな? (『動物化するポストモダン』も面白かったんで、読んで忘れないうちにまとめとこうと思うが、それはまた後で)

本を探していて、昔読んで面白かった記憶があったものの、それ以来まったく再読していなかったある評論が無性に読みたくなった。

それは、1996年の「群像」6月号に掲載された「由美ちゃんとユミヨシさん」という評論(川田宇一郎)で、第39回群像新人文学賞の評論優秀作だ。

もちろん僕はこの著者名も評論のタイトルもすっかり忘れてて、ただ、村上春樹がいかに庄司薫の影響を受けてるかということをまるでノストラダムスの暗号を解読するかのように書いているのが面白かったなぁという記憶しかなかった。

1992年あたりからの「群像」はほぼすべて実家に置いてあったので(好きな作家の連載ものと、評論、座談会、新人賞受賞作ぐらいしか読んでないんだけど)、すぐにその号は見つかった。

由美ちゃんとは、庄司薫が1969年~1977年にかけて発表した、いわゆる「赤黒白青四部作」の主人公「薫くん」の恋人?である。(薫くんは結局、この四部作を通じて、由美ちゃんとは性交渉を持たない。ずーっとボディガード役に徹するわけだけど)そして、ユミヨシさんとは、村上春樹の『ダンスダンスダンス』に登場するユミヨシさんのことだ。

川田氏は、村上春樹が庄司薫を継ぐ遺志を持って、『風の歌を聴け』からの四部作(『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』『ダンスダンスダンス』)を書いたと推理する。村上春樹のテクストには、庄司薫を匂わせる要素が満載だと。

その推理の根拠探しは奇妙の数値の一致から始まる。
この部分が面白い。

『風の歌を聴け』には「デレク・ハートフィールド」という作家が登場する。主人公の「僕」が「文章についての多く」を学んだ作家だ。

小説の最後でも「ハートフィールド、再び・・・・・(あとがきにかえて)」に、

もしデレク・ハートフィールドという作家に出会わなければ小説なんて書かなかったろう、とまで言うつもりはない。けれど僕の進んだ道が今とはすっかり違ったものになっていたことも確かだと思う。

などと書き、

最後になってしまったが、ハートフィールドの記事に関しては前述したマックリュア氏の労作、「不妊の星々の伝説」(Thomas McClure; Legend of the Sterile Stars: 1968)から幾つか引用させていただいた。感謝する。

1979年5月 村上春樹

で締めくくられている。

ハートフィールドはご存知の通り、架空の人物だ。なので実は「風の歌を聴け」という小説は、一種のメタ小説でもある。小説の最後に「作者」が登場し、ハートフィールドをあたかも実在の人物かのように扱っている。

ハートフィールドという作家については、『風の歌を聴け』のなかで以下のような情報が与えられている。

  • ハートフィールドは1909年にオハイオ州の小さな町に生まれ、そこに育った。
  • 彼の五作目の短編が「ウェアード・テールズ」に売れたの1930年で、稿料は20ドルであった。
  • しかし1938年(1938年6月)に母が死んだ時、彼はニューヨークまででかけてエンパイア・ステート・ビルに上り、屋上から飛び下りて蛙のようにペシャンコになって死んだ。
  • ハートフィールドは21歳で商業的に小説を書き始め、その8年後に自殺する。

さて、「ハートフィールドに影響を受けた」この小説の主人公である「僕」は、1975年5月に「小説」を書いている。小説の舞台1970年8月。その時、「僕」は21歳(誕生日は12月24日)だ。そこから、「僕」は1948年の生まれであることがわかる。
つまり、「僕」は、21歳のときのことを、その8年後に書き始めている。

さらに、ハートフィールドの自殺から「僕」の出生までのインターバルは約10年6ヶ月となる。(1938年6月ハートフィールド没~1948年12月24日「僕」誕生)

また、チャプター1では、僕が「8年間」何も書けずにいたということと、ハートフィールドが、「8年と2ヶ月」小説家として「不毛な闘いを続けそして死んだ」という記述がある。


ここで登場する数値「21歳」「8年2ヶ月」「10年6ヶ月」は、庄司薫の作家活動の年表上の数値と奇妙な一致を見るのだ。

庄司薫の『赤頭巾ちゃんに気をつけて』は1969年5月に中央公論に発表され、その四部作の最後『ぼくの大好きな青髭』は1977年7月に中央公論から刊行されている。その間はずばり「8年と2ヶ月」であり、ハートフィールドが「不毛な闘いを続け」た期間とぴったり一致する。

実質、庄司薫は、この四部作を発表した後、二度目の「沈黙」に入り、小説家としての活動をやめてしまっている。つまり、ハートフィールド8年2ヶ月の活動後に「死んだ」ということと、庄司薫の断筆はアナロジーなのだ。

また、庄司薫自身1958年11月に「喪失」で中央公論新人賞を受賞、作家としてデビューする。1937年4月19日生まれの彼の年齢は21歳。さらにこのデビュー後、『赤頭巾ちゃんに気をつけて』を発表する1969年5月まで、庄司薫は「退却・総退却」と自らが名づける沈黙の時期に入る。
このインターバルもこれまたずばり「10年6ヶ月」だ。つまり、ハートフィールドが死んで、「僕」が生まれるまでのインターバルと一致する。

ものすごいこじつけのような気もするし、村上春樹ぐらいだから、かなり意図的に罠を張り巡らせるかのように、こういったトリックを仕込んだとも考えられる。(村上春樹研究本では、この手の「ノストラダムス的解読」ものが結構多いですよね)
村上春樹自身が何かしら発言することはないと思うので、真相は闇の中ではあるけれども、川田氏の発見したこの数値の一致はひじょーに興味深い。

ただし、
『風の歌を聴け』には、川田氏が指摘する以外にハートフィールドについての記述はいろいろあって、その部分と庄司薫、「薫」くんとの関係などは、一切無視されているわけで、多少乱暴ではあるなぁとも思った。偶然に数値が一致することだってあるかもしれない。

この数値の一致だけではなく、いかに村上春樹のテクストが庄司薫を意識しているか(模倣しているか)ということを、登場人物の関係の一致や、ディティールの一致などで説明はしていくのだけれど、どうも都合のよいところだけをピックアップしてきて相似を見ているだけのような気がしないでもない。
まぁでも、個人的にはこの手の「謎解き」は嫌いではないので、今までまったくといっていいほど僕のなかで関係してこなかった二人の作家が、つながったということだけでも収穫だったと思う。

他、いくつか指摘されている二人の小説の一致をあげておこう。

キズキ君は「赤いN360」で自殺する。 「薫くん」は女の子とのデートの時に「真っ赤なホンダN360」でドライブする。

「キズキ」は『ノルウェーの森』に出てくる「直子」の元彼氏だ。
ちなみに『ノルウェーの森』の「僕(ワタナベトオル)」は、直子と性交渉する段になり、直子が処女であることを知る。つまり「キズキ」と「直子」は性交渉を持っていなかったわけで、「キズキ─直子」の関係と、四部作を通じて性交渉を持たない「薫くん─由美ちゃん」の関係は相似している。

キキ殺しの犯人、五反田君はマセラティを所有する。現実の庄司薫の「ぼくの車は確かマセラーティのエンジンをつんでいてその気になれば相当猛烈にはしるが」(『僕が猫語を話せるわけ』)


「薫くん」の靴はラバーソールである。ビートルズのアルバム「ラバー・ソウル」が『1973年のピンボール』にでてくるし、「ノルウェーの森」が収録されている。ワタナベトオルが緑の家に初めて訪れた時に近所で火事がおこる。庄司薫が中村紘子のマンションを初めて訪れた時も階下で火事がおこる(『ぼくが猫語を話せるわけ』解説)。
ワタナベトオルは日曜は基本的に休む。「薫くん」にとっても「安息日」である。『羊をめぐる冒険』の星形の斑紋の羊と『僕の大好きな青髭』のリンゴ印と星印の女の子。「飼っていた犬は僕が中学校に上がった年に雨に打たれて肺炎で死んだ。それ以来は犬は一匹も飼っていない」(『ダンスダンスダンス』)は、そのまま「薫くん」の飼っているドンという犬である(『赤頭巾ちゃんに気をつけて』)。「僕」の<やれやれ>と「薫くん」の<マイッタマイッタ>。

いくらなんでも「ラバーソウル」はこじつけだろう...なんて思いつつも、よく見つけてきたなぁと関心してしまう。

(ところで、『1973年のピンボール』は、大江健三郎の『万延元年のフットボール』のタイトルのパロディなんでしょうか?)

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2004/01/02 03:25

2003年12月29日

郵便的不安たち#

郵便的不安たち#

郵便的不安たち#

存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて」が徹底的な知的緊張感を保つ言説によって構成された、ある意味純粋なテクストであるとするなら(「コンスタティヴ」>「パフォーマティヴ」)、本書しかり、「網状言論F改―ポストモダン・オタク・セクシュアリティ」に納められたような講演やワークショップ、はたまた、「はてなダイアリー」や「hirokiazuma.com」といったウェブサイトを中心とするインターネットメディアでの活動は、いかにして断片化してしまった小さな共同体間を超越するかというメディア戦略(「コンスタティヴ」<「パフォーマティヴ」)を前提としたテクストと捉えることができるのではないかと思う。

「パフォーマティブ」な効果を狙うためには、カテゴリー横断的な思考が必要だろうし、テクストの意味的濃度・密度を意図的に下げるということも必要だろう。
ということで、本書ではアニメから文芸批評、状況論と、極めて幅広い領域、分野を扱いつつも、そこには一貫して、80年代、90年代以降の、東さんの言葉を借りれば「ますます徹底化しているポストモダン」という社会・文化状況を前提とした分析、批評がなされている。

この試みはおそらく成功していると思う。僕のような素人でも本書を読むとポストモダンの閉塞感を理解し、そこで生きるための「作法」(宮台真司さんが言うような意味での「作法」ではなく)を断片をつかむことができるからだ。(できるように思えてしまう...)
東さんが言う「上向きではない横向きの超越論性について考え、またそれを実践すること」というのは、極めて抽象的ではあるけれども、「1枚のコインの裏表」である本書と「存在論的、郵便的」を読むことで、これらのテクストが確実に自分の中の言語(象徴界的機能としての言語)を揺るがされているような気がする。

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2003/12/29 00:25

2003年12月24日

神はダイスを遊ばない

神はダイスを遊ばない

神はダイスを遊ばない

年末も近いということで、20冊ほど、本を仕入れてきた。年末年始は比較的まとめた時間をとれるので本を読むにはちょうど良いのだ。で、そのなかの一冊がこれ。なぜかボクは年末になると阿佐田哲也の「麻雀放浪記」やらの「ギャンブル小説」が読みたくなる。年末年始には必ずといっていいほど麻雀かオイチョカブをやっていたから、なんとなく「年末年始=博打」という結びつきがボクんなかにできあがってしまってるんだろう。

森巣博のことをは全く知らなかったのだけれど、帯に踊る「阿佐田哲也を越える賭博文学の最高峰」なんていう言葉につられて買ってしまった。
帰りに喫茶店に寄って、手持ち無沙汰なので読み始めたら、とまらなくなって、結局最後まで読んでしまった。(年始用のギャンブル小説をまた買ってこなくては....)

この本を読んで驚いたのは、語り口がいわゆる「小説」してないことなのですね。確かに、これは「ジャンル超越」文学です。著者は、本書を「ファクション Faction」だと定義している。全部が全部「ファクト(fact=事実)」の羅列でもなく、かといって「フィクション(fiction=作り話)」でもない。「無境界」に位置すると。

ボクは「小説」だと思って読み始めたのだけれど、途端に「あれれれ」と肩透かしをくらった。(ということが、いかに「小説」ってものが「小説らしさ」みたいな制度に束縛されているのかといことをよくあらわしているなぁ...)

なるほど「ファクション」とは確かに。

物語は、著者自身と思われる主人公が美人ディーラーと出会って、美人ディーラーと共に、大博打に挑む、っていうような単純なものなのだけど、寄り道、回り道、脱線が繰り返されて、それが面白い。むしろ脱線こそが本書の魅力。(このあたりは、田中小実昌とか小島信夫にも通じるところがあるんじゃないかなぁと)

カシノ(森巣博は「カジノ」とは言わない)世界の話に始まり、博打とは何か、博打における心構えが語られるのは、「賭博文学」だから当たり前なのだろうけど、持って来る引用や喩えが、聖書から漢書、平家物語から西行、フロイト、ミシェル・フーコーとおろしく幅広く、それがまた面白い。絶妙なのだ。
そして、著者の興味、関心は博打のことに留まらず、オーストラリアの文化と日本文化の比較がでてきたり、資本主義とななんぞやと問いはじめたりと、その興味や関心の領域の広さと脱線の面白さに、読むことを中断することができなくなる。すごい筆力だ。

阿佐田哲也はギャンブルを通じて社会の縮図を描いたなんてことを言う人もいるけれども、ボクは、阿佐田哲也はギャンブルのギャンブルたる魅力を、文章という全く違う表現形式で表現してみせた、ということが凄いと思っている。坊や哲や、ドサ健の生き方を、サラリーマン金太郎よろしく「参考にする」ことなんて、えらくしょーむない読み方じゃないだろうか。小説の面白さをわざわざ何か別のものに還元する必要もない。(もちろん、とはいっても阿佐田哲也の小説には明らかに生きることへの教訓が多分に含まれていて、ボクもその影響を少なからず受けているのだけれど)

本書は阿佐田哲也とはまったく逆で、むしろ脱線で語られる薀蓄やトリビアが面白い。それはギャンブル小説が持つ高揚感とか、興奮とは少し違う。

なので、「阿佐田哲也を超えた」というのは正しくないだろう。むしろ、良くも悪くも、ギャンブル小説の潮流が阿佐田哲也という巨人の影響を受けずにおれないところに、その影響は随所に受けながらも、それを消化、吸収し、独自の文体、語り口を生み出し、新しい文学の可能性を切り開いた、というところこそが評価されるべきではないかと思う。

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2003/12/24 00:16

2003年12月23日

オノマトペから筒井

5時過ぎにコタツでそのまま寝てしまい、7時過ぎにうとうとしながら「おはよう朝日です」を見てたら、二度寝に入り、起きたのは10時だった。とりあえず近くのパスタ屋に出かけ、京都新聞を読む。

新しいオノマトペがどんどん生まれているとかなんとかいう話がのってた。それは漫画、コミック文化の影響だとかなんとか。川上弘美や舞城王太郎なんかの新しいオノマトペが紹介されていたけど、オノマトペといえば筒井の「敵」を思い出す。


敵

「敵」では、オノマトペに漢字をあてていてそれが妙に面白かった(こういう手法は今までも存在したんだろうか? でも、手法だけがとりあげられて「面白い」「面白くない」」なんて言うのも変なもんだが) 手元にないので、いろいろとウェブを調べてみると、こんな当て字が使われていたらしい。

「鵜化鵜化と」(ウカウカと)
「慈輪慈輪」(ジワジワ)
「躯躯躯躯躯」(クククク)

ただの当て字ではなく、そのオノマトペが使われるコンテクストと、漢字としての意味をちゃんと考えたうえで選択されていて、オノマトペが本来伝えようとしている感覚的表現をより重厚なものにしている。

筒井自身、「虚航船団の逆襲」の中で、

普通の小説の中で、慣用句となった「どきどき」「はらはら」「わくわく」「いらいら」「がたぴし」などの擬態語、擬声語を濫りに使うのは下品とされているが、どうしてもこの種の語を入れて誰でもが容易に思い浮かべ得る感覚を表現したい時がある。そういう時は辞典を利用して漢字をあてはめればよい。うまく行けばスマートな表現になるし、「やっぱり鬼才だ」などと褒められたりもする。〔………〕やはりこういうものはぶっつながりにやっては泥臭くなり、いやらしい。
あくまで小説中の一カ所で、効果的に使うべきだろう。

というようなことを言ってるらしい。

そもそもオノマトペ自体が、音による動作や状態や泣き声などの表現なわけだけど、それに象形文字としての漢字を組み合わせることによって、視覚的表現にまで拡張するってのは単純だけど、すごいアイディアじゃないだろうか。(最初に使ったのは誰ですかね?)

筒井の一連の実験小説、「残像に口紅を」とか、「虚人たち」とか「朝のガスパール」なんてのは、いろいろと批判も多いけれども、ボクはテキスト表現の習慣性とか、文学の無意識的な前提とか、そういうものを明るみに出すことも、文学の一つのあり方だと思うので、これらの作品も小説家の仕事としては評価されるべきだろうと思う。

(参考)
【ことばをめぐる】(030930)おたく、筒井康隆、松浦寿輝、折口信夫論
http://www.asahi-net.or.jp/~QM4H-IIM/k030930.htm

会議室:「ことば会議室」
筒井康孝「敵」http://www.tok2.com/home/okazima/room_1/BBS_MSG_980205215921.html

筒井康隆『敵』のJIS感字論
http://member.nifty.ne.jp/shikeda/tti.html

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2003/12/23 14:04

2003年12月18日

段取り力

段取り力

段取り力


著者は人間の能力や才能には大きな差はなくて、あるのは「段取り力」の差だ、とまで言い切る。著者に掛かれば、すべてのことは「段取り」というプリズムを通して語られる。イチローの練習方法も、リタヘイワース刑務所からの脱獄も、料理の鉄人も、鉄道のダイヤグラムも、すべて「段取り力」なのだそうだ。つまり人生がうまくいくかどうかは「段取り」にかかっているというわけだ。

確かに、「段取り」という言葉には、事がうまく運ぶように手順をととのえることといった意味があるわけで、段取りがうまくいけば、うまく事が運ぶのだろう。しかし、どうも本書のなかのたとえ話には飛躍がありすぎて、それも「段取り」なの?と突っ込みたくなるところが満載だったりする。

「段取り力」をつけていくには、スケジュールを管理しなければならない。その管理方法として、90分を1ブロックとして1日の予定を3色ボールペンで手帳に書いていくというような方法を解説しているのだが、そんなところでいきなりこんな一節。

そう考えると、時間割はなかなか優れた考え方だ。私たちは学校教育でずいぶん鍛えられているが、時間割は馬鹿にできないパワーを持っている。たぶん時間割を持っている民族と持っていない民族が戦争したら、持っている民族が勝つのではないかと思う。

段取りってのが凄く重要だということを強く強く訴えたいのだろうけど、これはいくらなんでもなぁ...

具体的に「段取り」とはこうする、ああするというような解説本というより、「段取り」がいかに大事か、そして「段取り力」というのは、個々人が自分にあわせた方法でつけて行くことができるのだということを訴える側面が強く、実践書というよりは啓蒙書だ。

最近、個人的に予実管理というものを始めた。
これも一種の「段取り」なのだろうか

ある会社では、退社前に必ず明日、何を何時間やるという予定を入力しなければならないらしい。そして、その予想と結果がどうだったのかを把握して、ズレがあった場合には、そのズレになった「原因」、その「原因」を解消するために、次からどうするか、ということを書き入れていかなければならない。これを毎日繰り返しているそうだだ。

明日何を何時間やるか、とプランを立てるのは、段取りの基本だろう。これを毎日やり続けていれば、おそらくその会社のスタッフは相当な「段取り力」を持っているのだろうと思う。

この会社のやり方を知ってからずーっと気にはなっていたのだけれど、まずは個人レベルでやってみて、それが有意義だということがわかれば会社への導入を提案してみようかと考えている。

段取り力をよくするためにも、動機付けの目標はある程度厳しさがあったほうがいいだろう。納期もなく、コストパフォーマンスもない設定では、段取りがよくなるはずもない。

とうように、多少厳しい目標をたてて、それをどうやって達成するかを考えるということも「段取り力」の強化につながるだろう。
本書でも例にあげられていたが、10%のコスト削減方法で悩んでいた技術者に対して、松下幸之助は、「いっそのこと50%の削減方法を考えてみろ」というようなことを言ったそうだ。つまり、5%、10%をどうするかと考えているときには、「現状」をベースとして、そこからの発想で物事を組み立ててしまう。しかし、50%削減ともなれば、たとえばそのものの素材や、組み立て工程といった根本的なところから見直さざるをえない。そういった視点の導入が、逆にブレイクスルー的なアイディアの発見に役立つのだ、ということらしい。

自分で立てる予定や目標というのは、ついつい余裕をとってしまいがちだが、いっそのこと到底無理だろうと思われるような設定をしてみて、そこから考えることを始めても良いのかもしれない。会社に予実管理を導入するなら、このへんの意識の問題もきちんと説明する必要はあるだろう。てきとうに「予」と「実」が合うように、大雑把にやってもあまり意味はない。
予定より早く業務が終わりすぎることだって、決して良いことではないのだろう。

「裏段取り」を考えてみるというところは面白いなと思った。
「段取り力」をつくるには、すでにある優れたヒット商品やアイディアを元にして、それがどのような「段取り」でつくられたのか、生み出されたのかを考えてみるということをする。

どの領域にも言えることだが、総じて完成形がシンプルに見えているほうが、裏の仕込みは複雑であることが多い。

WEBサイトの構築にせよ、プロモーションプランにせよ、同じことは言えるのではないか。そのシンプルさに落ち着くまでにどのような工程があったのか、どのような段取りがあったのかということを追想することは、単なる想像の世界でしかないとはゆえ、非常に良い訓練になるような気がする。

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2003/12/18 20:11

2003年12月13日

ゲーム理論で勝つ経営 競争と協調のコーペティション戦略

ゲーム理論で勝つ経営 競争と協調のコーペティション戦略 日経ビジネス人文庫

ゲーム理論で勝つ経営 競争と協調のコーペティション戦略 日経ビジネス人文庫

ゲーム理論の応用ってのも一種の流行みたいなものか。

「コーペティション(co-opetition)」とは、「競争(competition)」と「協調(cooperation)」を同時に扱うコンセプトのこと。
たいていのマーケティング理論や、経営戦略論は、この二つをトレードオフ関係にあるという前提のもとに論じられる。勝つものがいれば負けるものがいる、という単純な構図だ。
しかし、本書では、「両者も勝つ」ということだって十分にありえるのだ、ということを実際の事例から示す。
コーペティションコンセプトで最も重要なのは、「補完的生産者」の存在だ。現在のビジネスは「補完的存在者」なしに存在できない。補完的生産者とは、たとえば、ゲームのハード機器メーカーにおける、ソフトウェアメーカーだ。魅力的なソフトがなければゲーム機は売れない。しかし、ゲーム機が売れてなければ、ソフトウェアメーカーはソフトを開発する気にはならない。この両者には相互補完的な関係がある。

補完的生産者の定義は、「自分以外のプレイヤーの製品を顧客が所有したときに、それを所有していないときよりも自分の製品の顧客にとっての価値が増加する場合、そのプレイヤーを補完的生産者と呼ぶ」としている。
逆に、「自分以外のプレイヤーの製品を顧客が所有したときに、それを所有していないときよりも自分の製品の顧客にとっての価値が下落する場合、その自分以外のプレイヤーを競争相手と呼ぶ」

補完的生産者と、競合相手は、対極に位置しているわけだ。
この定義はよくよく考えると当たり前なのだけれど新鮮ではないだろうか。

今までの認識は、「競合相手」を同じ業界に属する自分以外のプレイヤーと見なしていたわけだけれども、ゲームの場がかわれば、実は今まで競合相手だったところも補完的生産者になることもある。また、補完的生産者が競合相手になる場合もある。つまり、プレイヤーの役割というのは、固定的なものではなく、ゲームを見る位置や場面によって変わるということだ。

本書では簡単に、MoMAとグッゲンハイム美術館は、会員や見学に来る人をめぐっては、競争相手になっているけれども、いくつかの美術館を訪ね歩くことができれば、週末にニューヨークに行く人も増えるだろうという例から、MoMAとグッゲンハイムは、競争相手でありながら、補完的生産者でもあると説明してる。

ほとんどの場合、競争相手だと思っているところは補完的生産者でもある。そして、競合を打ち負かすことばかり考えるのではなく、補完的生産者として捉えることで、その市場自体を広げる、開発して、お互いが利益を得るシステムをつくりあげられるかどうかを考えることも重要なのだ。(秋葉原に電気屋が集まっているのは、それぞれは競合関係でありながら、補完的生産者としての関係をつくることで得られるメリットを考えているということですな)

個人的には面白くなくはない本だけれども、
「競争」の場のモデルが、ほとんどの場合、価格競争面から語られるのが気になった。

特に、「ルール」とうい章で、最優遇条項やテイク・オア・ペイ契約によって各プレイヤーにはどのような強制力が働くのか、誰がどんなところで有利になるのかといったことを説明しているのだけれど、そのほとんどが、「顧客は価格を気にする」という前提にたって書かれているような気がした。もちろん「価格」は気にするだろうが、価格を軸として競争が行われるモデルが多くとりあげられているのが違和感がある。それはあまりにも単純すぎるだろう。モデルを単純化するために、ある側面だけをとりあげたのだろうけれど、読み流してしまうと、価格のことばかり気になるんではないかと、ちょっと心配になった。

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2003/12/13 19:28

2003年12月07日

首塚の上のアドバルーン

まとめて。ちなみにAmazonのアフィリエイトやってるけど、金儲けのためではありません。単純に、本紹介するのに楽だというだけです。

首塚の上のアドバルーン

首塚の上のアドバルーン

いやぁ、面白い。
この人はこういうのは天才的だなぁと思う。筒井の場合なら、ひたすらドタバタに傾倒していって抱腹絶倒、これでもかってところまで行くんだろうし、小島信夫なら作者自身もわけがわからなくなってストーリーにもならないのだろうけど、後藤明生の場合には、馬鹿馬鹿しい言葉の連想や、イメージの連なりを維持しつつ、リアリズムと虚構の境をうろうろし続ける。適当に思いついたままに書いていったらこうなった、というように装いつつも、おそろしく緻密に計算してこんな小説をつくってしまえるところがこの人の凄いところか。

しかし、このパターンって、

挟み撃ち

挟み撃ち

と同じなんだよな。まったくといっていいほど。後藤明生のような小説が書ける人って、今だと奥泉ぐらいだろうか。

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2003/12/07 03:50

三月は深き紅の淵を

三月は深き紅の淵を

三月は深き紅の淵を

恩田陸が好き、という人がいたので読んでみた。
「三月は深き紅の淵を」という謎の本をめぐる短編集。それぞれの短編は独立しつつも、メタ小説的な要素があったりと凝ったつくりにはなっているのだけれど...
この手の小説は苦手なんだよなぁ。習作志向というかなんというか。全編、文学研究会所属の巧い学生が書いた、みたいな感じが漂ってくる。それを狙ってるわけでもあるまい。

第三章の「虹と雲と鳥と」なんて、読んじゃおれなかった。心理描写やらストーリーに持って来る装置、比喩がすべて「文学少女、少年」くさい。いわゆる文学的装置みたいなものが成立するという前提のもとに書かれてしまってる。少しでもメタ小説を志向するなら、もう少し「書く」ってことに自覚持ってもいいんじゃないかと思うのだけれど。

これだけじゃわからんなぁーと、とりあえず「まひるの月を追いかけて」も読んでみたら、やっぱり正攻法、直球勝負だったようで。

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2003/12/07 03:33

もっと哲学がわかる神秘学入門

もっと哲学がわかる神秘学入門

もっと哲学がわかる神秘学入門

狙いは良いのになぁ。神秘学の系譜から哲学史を眺めてみるってのはあるようでなかった。でも、著者の寒いギャグが空回りしてんだよねぇ。普通に説明してくりゃいいのに。ちょい期待はずれ。

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2003/12/07 03:10

2003年11月30日

moblog

とりあえず、moblog版とわけてみた。

moblog版

今まで、デジカメとかで何か撮っても、結局誰かと共有するわけでもなく、自分で管理するのも面倒ということで、ほったらかしのことが多かったけど、これだと便利だなぁ。

過去、いろんなところでバラバラと書いてたものをMovableTypeの管理にまとめた。これで楽チンだ。しかし、1997年~1999年代に書いたもののバックアップデータがぶっとんだのは痛いなぁ。創業から東京で始めて生活し始めた頃の日記で、「人殺しに間違えられた事件」「うんこ漏らし事件」「お前何歳やねん事件」などの記録が残ってたのに。

まよなか

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やっぱ冬野さほは良いなぁー。こういう天気の悪いまったりとした日には冬野さほに限る。
冬野さほは偉大な詩人だと思う。ほんとに。心が落ち着く。我が家の猫「牛」も冬野さほが大好きだ。
ポケットの中の君マーガレットコミックス (2172)」や「ツインクルMag comics」もオススメ。


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2003/11/30 17:43

2003年11月29日

ライブマーケティング―「見せる」広告から「まきこむ」広告へ

ライブマーケティング―「見せる」広告から「まきこむ」広告へ

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最近の広告業界というのは、どこを見ても「ブランド」ばかりだけれども、どうも抽象的、学術的な臭いがしてた。本書も言ってしまえばブランドビルディング手法を解説しているのではあるけれど、事例が豊富なのが良い。ブランドをひとつの体験、体験への関与と考え、生活者の生活導線にどのように「仕掛け」を盛り込んでいくのか、世界各国の成功事例が掲載されている。


著者も言うように、この手のマーケティング手法は、サービス提供側が効果測定や指標などの数値をきちんと把握していくことも大事ではあるが、クライアントの体制や理解も欠かせない。今までのように、広報や宣伝といった他の部門とはある種独立した部署や組織として運営されてしまっていると難しい。ドラッガーは企業に必要なのはマーケティングとイノベーションだと断言しているように、マーケティングとは、単なる企業の一部門の機能として成立するものではなく、企業活動そのもの、企業活動のDNAとして全部門、全活動に染み渡っていなければならないわけだ。


ブランド戦略シナリオ―コンテクスト・ブランディング

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「ライブマーケティング」が博報堂で、こっちは電通だ。

ちなみに、ここ最近広告会社が出版したいくつかの本を比べてみると、
ブランドへのアプローチというか捉え方の差異みたいなものが垣間見えて面白い。
オグリヴィーは「ブランディング360度思考」で、読広は「マーケティング・トランスファー8つの法則―顧客創造のアプローチ」と、どれもアプローチは違うが、「ブランド」「ブランドビルディング」を扱っている。どれもそれなりに面白いけれど、ボクは電博のこの2冊がやはり飛びぬけて面白いと思う。オグリヴィは抽象的すぎるし、読広は、新しい消費者像、社会システム論どまりで、共時的な社会しか捉えてない。この手のアプローチはすぐに形骸化する。


本書は「ライブマーケティング」に比べれば、かなり学術的側面が強いし、おそらくとっつきにくい。回帰分析、主成分分析といったアプローチから生活者のなかに眠るブランドのエッセンスを導き出したり、社内に眠るブランド資産の掘り起しと、そこからのコンテクストの作成アプローチなど、よくここまで考えて実際にやったもんだと驚いた。

個人的にはこちらの考え方のほうが水に合うというか、ブランドを考えるときは、それが製品ブランドであろうが、コーポレートブランドであろうが、結局のところ、いかにして生活者が考えるブランドイメージと、企業側が伝えたいブランドアイデンティティの統一、統合をはかるかということが重要なわけで、そのためには、ある体験に巻き込むというやり方だけでは弱いだろうと思う。もちろん「ライブマーケティング」は、ブランドビルディングにおける一側面に過ぎないわけだけれど.... しかし、本書で展開されているようなことをやっていけるのは、ほんの一握りの企業だけだろうし、またやっても成功するとは限らない。


ブランドビルディングって、そもそもコンサル会社や広告会社が入ってあれやこれやして、なんとかなるものなのかなとも思う。結局のところ、一人一人の社員のやる気やモチベーションや、倫理観やらに大きく依存するのだろうし。インターナルマーケティング領域ってのは、まだまだ開拓されきってない。リンク&モチベーションみたな会社が注目をあびるのはそのせいなのだろう(リンク&モチベーションは良い会社だと思うけど。ああいうのは、自然治癒力を引き出すためのきっかけを提供しているだけであって、一番大事なのは、やはり働く一人一人の意志の方だ。)

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2003/11/29 22:28

2003年11月23日

LET IT BE NAKED

Let It Be…Naked (CCCD)
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フィルスペクター(今は殺人容疑者だけど)版を否定していたわけじゃないけど、これ聴くと、やっぱNAKEDのほうがいいわね、となってしまう。
特に、The Long And Winding Road
実は、あまり好きな曲じゃなかったのだが、NAKEDは別だ。この曲だけでもいかにフィルスペクターが「いじり」好きかというのがよくわかる。

I've Got A Feelingの印象も随分変わるな。映画「Let it Be」で、ジョージとポールが喧嘩してたなぁ。そういえば。

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2003/11/23 21:39

2003年11月20日

プロフェッショナル・サービス・ファーム―知識創造企業のマネジメント

プロフェッショナル・サービス・ファーム―知識創造企業のマネジメント


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今、僕のバイブルは、これ。

案件には「頭脳型」「経験型」「効率型」がある。
ファームのスタッフ構造は、シニア(見付け役)/ミドル(目付け役)/ジュニア(こなし役)の3構造になっている。

この三構造のリバレッジ構造こそが、ファームの売上/利益のバランスを決定づける。

なるほど。つまり、シニア時間の請求分をミドルやジュニアによって代替することで、リバレッジが働くという単純明快さ。
そんなもの当たり前なのだけれど、案件3層とスタッフ3層のバランスという構造は目からウロコ。

既存クライアントへのマーケティング戦略アプローチなどなど。勉強になるところが多い。そのまま社内のマニュアルにできる。
おそらくこの本に書かれてあることをきちんとできるプロダクションは、憂慮する必要はないんだろうな。差別化とか下手なこと考えず、まず、この本に提言されている考え方をしっかり理解して、その通りに実行に移していくことが第一歩か。

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2003/11/20 22:11

2003年11月12日

南海ホークスがあったころ―野球ファンとパ・リーグの文化史

南海ホークスがあったころ―野球ファンとパ・リーグの文化史

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僕が物心ついたときには、すでに南海にはパリーグのお荷物球団のレッテルが貼られていた。チームカラーのグリーンもぱっとしないなぁと子供心に思っていたし、大阪球場みたいなおそろしく狭い球場を本拠地にしてるなんて、悲惨な球団だと哀れみの感情さえ持っていた。
関西圏の人なら知っているだろうが、南海電車というのは、その沿線も含めて、あまりガラが良くない。そのイメージもあったのだろうけど。


そうこうしているうちにダイエーに売却されて、大阪球場がなくなるなんてことになったときには、一抹の寂しさも覚えたものだ。大阪球場は、実家から近かったということもあって、よく行った球場だったからだ。今の球場では考えられないほどの急勾配のすり鉢スタジアムで、下の席から上を見上げると、空間がよじれてるような変な感覚を味わえる。ナイターなどは特に良くて、煌々と照りつける照明と、それを取り囲む暗い空が、下からの「歪む空間」の構図のなかにはまると、眩暈に近いものさえ感じるのだ。あんな感覚が味わえる球場は他にはないだろう。


また、難波という梅田とならんで大阪の二大都市の真ん中に、ぽかんと口を開けた大阪球場は、どことなく庶民的で、大阪のシンボルみたいなところもあったのではないだろうか。
僕自身は「大阪人」というイメージが(特にメディアが流布する大阪人の典型的なイメージ)嫌いで仕方がなかったのだけれど、やはり心の底ではどこかで、郷土イズムみたいなところがあって、「後楽園」や「神宮」みたいに、ちょっとおしゃれな(イメージのあった)球場にたいして、いかにも「庶民」「大衆」というようなキーワードがぴったりの大阪球場や、藤井寺球場、西宮球場、甲子園球場といった近畿圏の球場に愛着をもっていたところはあるかもしれない。


本書は、精緻に史実を読み解くことで、プロ野球と地域社会のつながりや、意識変化などを分析している。プロ野球の誕生から今までの史実本としても読めるし、関西という地域における文化を知るための本としても十分に読む価値がある。

この本を読むと、阪神=大阪というような構図がいかに最近できあがったものか、ということがわかるし、球団がどのような意図をもって設立され、なぜ、今のようなパリーグ、セリーグという2リーグ制になっていったのか、など、トリビア知識もつく。


正直言うと、僕はこの本の前半の、プロ野球誕生~南海売却までの史実のところを読んで、なぜか涙が出そうになった。自分でも理由はよくわからないけれど、猛烈なノスタルジーに襲われたのだ。その時代に生きていたわけでもないのだけれど、すべてが無性にになつかしく、心に迫るものがあった。それが史実としてたんたんと語られれば語られるほど、無数の名もなき庶民の躍動や力動みたいなものを感じずにはおれなかった。
小説とか読んでもめったになきそうになることはないので、これは不思議な感じだ。

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2003/11/12 20:50

2003年11月09日

網状言論F改―ポストモダン・オタク・セクシュアリティ

網状言論F改―ポストモダン・オタク・セクシュアリティ

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「動物化するポストモダン」も読まなきゃなーと思いつつ、まだ読んでないのに、こっちを先に読んでしまった。
東さんが現代の世界像を概念化している。

1945年以降の日本のイデオロギー状況を、1970年代までの「ポストモダン以前」(大澤真幸氏によると「理想の時代」)、1970~1995年を「ポストモダン第一期」(虚構の時代)、それ以降を「動物の時代」と呼び、とりあえずそれらのラベル下でのイデオロギーモデルを簡単に説明する。

1970年から1995年にかけて、徐々に「大きな物語」がなくなっていって、1995年以降は、「大きなデータベース」が台頭してきた、と説明しているけれど、このところで、僕はなんとなく怪しさを感じてしまい、立ち止まってしまった。確かにこの説明はすごく明快で的を得ている。「大きな物語」が一つあって、それが世の中にあるさまざまな小さな物語を制御するという構造から、世界のどの部分を読み込むかということによって、人はそれぞれで小さな世界像を得始めたということを、インターネットの登場や『デ・ジ・キャラット』などの、まさに「萌え」要素だけを組み合わせてつくられたキャラクターを例にあげて説明していて、まったくごもっともと思う。

しかし、僕は、簡単にモデル化された世界像に、単純に「なるほど」と考えてしまうような場合には、何かそこにはもっと考えなければならない重要なものが後景化されていて、都合のよい戯れだけをうまく拾い上げられているに違いない、と考える癖があって、この「虚構の時代」と「動物の時代」という時代の構造分析にも、何かトラップがあるのではないかと勘ぐってしまう。でもまぁしかし構造主義的な分析というものというのはたいていそうだ(構造主義自体が悪いとか良いとかそういうわけではないのだけれど。)
といって、立ち止まって考えるけれど、その答えとか、何に違和感を感じたのかとか、そういうことがわかるわけでもない。

「大きな物語」という時、その時代に生きてない僕は、それを「国家」とか「理想」とか「道徳」とか「社会主義」とか、自由」とか「宗教」とか、抽象的な概念で考えるけれども、はたして「大きな物語」というものがほんとに「あった」のか。これまた存在として取り出して、「はい、これが『国家』です」と見せることができないものなので、結果的に、後から現象を捉えて、構造を見出して、「あったに違いない」と思うしかない。

両親などを見ていると、「血縁幻想」的なものに取り付かれているように思えるけれど、これなんかもやはり「大きな物語」の残骸なんだろうか。
マスメディアみたいなものも「大きな物語」を強化する装置だったのだろうけど、考えてみれば、今でも僕らはテレビも見るだろうし、新聞も読むけれど、そこに映し出されているものや、書かれていることが、真実ではないことを知っている。事実として構成しようとしているかもしれないけれど、真実ではない。

あまり関係ないけれど、ゴダールが「映画史」のなかで、僕らが映画と思わされているものは、ハリウッド的なモードにすぎないのであって、あれは映画ではない、というようなことを言っていたけれど、今はみんなそんなこと気づいてるんじゃないか。気づいていて、なおかつそれでも別にいいやと享受しているんじゃないか。

でも、考えてみると、こういう構図が実は、それ自体が一つの大きな物語なんじゃないかという気もしてくる。
大きな物語がなくなった、ということそのものが大きな物語として機能しだす... 誰かがポストモダンは、自分がのっかかっている枝を切り落とすようなものだ、ということを言ってたけれど、まさにそんな感じか。

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2003/11/09 23:54

2003年11月08日

阿修羅ガール

舞城 王太郎 (著)
阿修羅ガール

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『煙か土か食い物』に対して福田和也がこんなことを言ってる。

やれやれ、また、奇天烈な書き手があらわれたもんだね。こいつは、とんでもない、ろくでもない、得体の知れない、厄介な代物だ。本格の仕掛けとゴンゾーな文体、ナメきった世界観と考え抜かれた構成。どっちにしたって救いのない世界での、見境のない馬鹿騒ぎと解決などありえない問いへの安っぽいけれど心情あふれるカタルシスがグッとくる。 やりやがった。 まったく楽しみな奴だよ。


福田和也のこの言葉が契機になったわけでもないだろうが、舞城王太郎という名前は、その後、推理小説という限られた世界から、文学界全般が注目する新生代の書き手の代表名として流布していく。そして、『熊の場所』で三島賞候補となり、ついにこの『阿修羅ガール』で三島賞を受賞。名実ともに、「今」を代表する作家へと駆け上がった。

衝撃的なデビュー作から舞城を追いかけている一ファンとしてはうれしい限りだ。僕は文学ももっと消費されなければならないと思っているから、舞城のような書き手が閉塞感のある文学界の突破口になって欲しいと心から思っている。

「文学界の閉塞感」という言葉を安易に使ったが、それは村上龍、村上春樹、高橋源一郎が70年代後半から80年代初頭にかけて登場し、新しい文学のモードというか、世界や社会と対峙する、再構成する新しい言葉を小説という形式に持ち込み、商業的にもある一つの成果を果たしたような、ブレークスルーが、90年代以降の文学界にはほとんど見られなかったということを意味している。一時期まではそこに確かなる息吹や世界を再構成する言葉がつまっていた詩は、今や完全に死につつあるし、小説界では島田雅彦が大江健三郎批判的な位置から登場したことと、保坂和志のような人がゆっくりとではあるけれど、着実に少しづつカチコチに「小説らしさ」みたいなものに染まりきってしまった小説界に風穴を開けてきた、といような小さな動きは見えたものの、ブレークスルーとなるような、ヘビー級のパンチを繰り出せる若手は登場していなかった。そこには、渋谷系などというラベルをはられて登場したえらく保守的な若い書き手や、今なお「小説」とはこうあるべきという前提を無意識に抱えて、感傷的なストーリーを書く作家たちがいるだけだった。(僕は阿部和重などの一部の若手が嫌いではなかった。いちおう現代に生きる人間として、「今」の作家がどのように世界を捉えようとしているのか、世界に向かおうとしているのかを知ろうと読み続けていた。中には純粋に面白いと思える作品もいくつかあったことは確かだ。しかし、阿部和重の「ニッポニアニッポン」を読んだとき、タブーとされていたテーマに挑むというようなことを、小説家としての矜持と考えているようなところが見えて、そういう態度もそもそもモードなんだということを自覚してるのか、この人は?と疑問に思い、それ以降はあまり彼らの書くものを熱心に読まなくなった。もしかしたら彼らが書いているのは、保坂和志が言うように、絵を描くのに「書かれた絵」を見て、描いている、というようなものなのかもしれない。)

舞城王太郎が面白いなと思うのは、彼のつむぎだす言葉に、確かに「今」の息吹が感じるからだ。現代に生きて、小説を書くというなかで、今が言葉を反映する、あるいは言葉が今をつくりだす、という感覚は軽視しちゃいけないはずだ。

「世界」とか「社会」とか、そういった大きな概念の言葉が嘘っぽく感じられてしまう「今」のなかで、それでも「今」をどうやったら言葉は捉えることができるのか、ということを考えることは小説家にとっては極めて重要な自覚ではないか。
そして、舞城の文体は、それが意図的なものであったとしても、どうやってもこのような文体からしか捉えきれない「今」をつかもうとしている。
知的遊戯としての「文学」ではなく、大衆とか、民衆とか、そういうところから湧き上がる力動が、舞城の文体にはあるんじゃないだろうか。なので、「阿修羅ガール」の最も優れた書評とは、「意味わかんないけど、すげー面白れー」というもので十分なはずだ。意味や解釈を求めなければ、文学や小説が成り立たないわけではないだろう。ここには明らかに「今」が見えるのだから。それで良いのではないか。

今日は会社の掃除で、休みなのに通常の出勤時間より早い時間に事務所に行く羽目になり、結局、午後3時過ぎまで束縛されてしまった。あー、原稿すすまねー。

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2003/11/08 23:58

2003年11月06日

ビル・ゲイツの面接試験―富士山をどう動かしますか?

ビル・ゲイツの面接試験―富士山をどう動かしますか?

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つい最近もテレビでIQを計るなんてのがあったけれど、あの手の「頭の体操」的問題を難なく答えられる人を見ると、僕などは「あの人は頭がいいなぁ」とついつい思ってしまうのは、実はかなり偏ったものの見方、考え方なんだろうなぁ。

僕はパズルは得意な方だとは思うが、それはパズル特有の方式というか、考え方とかを「覚えている」というだけだ。パズルには一定の考え方とか筋道とかがあって、「逆転の発想」とか「ちょっとした工夫」とか、そういうもので簡単に解決できるようにできてるものがほとんどだけれど、それらは同じような問題を見たことがある、やったことがあるだけで、たいてい解けてしまう。

テレビでやってたIQ問題も、解いていたけれど、特に数列とか、数学とか、論理パズル系のものというのは、ほとんどが過去に似たような問題を見たことがあったので、簡単に解けた。

面接でパズルを使うことで、面接特有の質問にあらかじめ答えを準備しておくことを防ぎ、本来のその人の頭の回転の速さとか、そういうものを見る、ということが出来るのかもしれないが、実際、パズル好きの人というのは、多くのパズルのパターンを理解しているので、予め出題されそうな面接官の質問を記憶しているのと同じようなものではないかという気もしないではない。

僕らは子供の頃から、IQというものがあり、IQというのは「知能指数」というやつで、これは勉強ができるできないというよりは、その人の「本当の知性」というものをあらわすものなのだ、というようなことを教えられ、そしてIQをはかる問題というのが、へんてこなパズル問題が多いところから、パズル問題に強い人間というのは、勉強はできなくても知性は高い、というような考え方をいつのまにか植えつけられている。

ここでカッコつきで「本当の知性」という言葉を使ったが、このあたりですでに形而上学的というか、何か「知性」というものが測定可能性を持って存在し、「知性」こそが実は人間にとって重要なのだというような、あやしい観念が漂ってる。

IQという指標は、「勉強ができない」(日本の場合は特に勉強=暗記になるのだろうが)人を救う指標ともなりえるが、その裏返しとして、IQの低い人への蔑視、偏見をはぐくむ可能性も十分にある。(勉強もできず、IQも低い人は、どうすりゃいいのだ?)

そもそも知性や知能を定量化しようという試みが、歴史的にみても、ひどく偏った民族観から生まれてきているわけで、本書にもあるように、IQが高い人間が成功しているわけでもなく、IQが高いか低いかなんてことは、実は人生において、人においてとりたてて重要なことではないわけだ。

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2003/11/06 00:00

2003年11月04日

プロフィット・ゾーン経営戦略―真の利益中心型ビジネスへの革新

プロフィット・ゾーン経営戦略―真の利益中心型ビジネスへの革新

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ザ・プロフィット 利益はどのようにして生まれるのか
の方を先に読んでいて、今回、あらためて「プロフィットゾーン経営戦略」を読んでみた。

「ザ・プロフィット」では、23の利益モデルをあげていたが、「プロフィットゾーン経営戦略」では22である。

「ザ・プロフィット」は、「ゴール」シリーズのように、小説形式で23の利益モデルの解説がなされるわけだが、(あれは小説形式にする必要があったのかどうか。ほとんど意味がないような気がする) 「プロフィットゾーン経営戦略」では、いくつかのモデルをピックアップし、そのモデルを採用した企業の事例と戦略の変遷を土台として、いかに利益というものが、製品やサービスではなく、ビジネスモデルから生まれるかということを説く。

「ビジネスモデル」という言葉を使うと、そこには顧客不在の響きもあるのだが、本書で繰り返し主張されるのは、顧客を中心においてビジネスモデルを考えることだ。

本書でとりあげられているコーラや、インテル、マイクロソフトといった企業は、あまりにも巨大なので、自社のビジネスにはあてはまらないと考えてしまうのは早計だ。これら企業が、いかにしてビジネスモデルを変更してきたか、そこから利益を増やしてきたかということを見ていくと、そこにはどんな業界の、どんなサービス、商品にもあてはまる何かを発見することができるだろう。

利益が生み出されるモデルから、ビジネスモデルを分類するというのは発想として面白いし、なぜ誰もやらなかったのか不思議なぐらいだ。ただ、「ザ・プロフィット」だけを読むと、なにかこの23の利益モデルを自社にあてはめてみたらということで考えてしまい、そこには顧客の観点が入らなくなってしまう恐れがある。「プロフィットゾーン経営戦略」と併せて読むことで、そういった誤読はなくなるだろう。

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2003/11/04 00:05

2003年11月01日

クリティカルチェーン―なぜ、プロジェクトは予定どおりに進まないのか?

クリティカルチェーン―なぜ、プロジェクトは予定どおりに進まないのか?

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シリーズは全部読んでいるけれど、自分自身が抱えている問題とか課題とかに一番近い分野を扱ったのが本書だろう。とはいっても「ゴール」にしても、「思考プロセス」にしても、役に立たなかったかというと、そういうわけではなく、過去3作はすべて、何らかの形で仕事には役立っている。
「ゴール」を読んでからTOC理論には興味を覚え、その関連の本もいくつか漁っている。先にプロジェクトマネイジメント系の本で、クリティカルチェーンなどについては触れていたので、今回は「おさらい」という感じではあったが、それでも面白くて一気に読めた。


今回は、プロジェクトマネイジメントを扱っているわけだが、プロジェクトマネイジメントという世界においても、TOC理論を下敷きにして、今まで常識と思われていた事柄にメスを入れていく。

各プロジェクトのステップで、セーフティを入れているにも関わらず、いつの間にかセーフティを食いつぶし、毎度のように遅れてしまうプロジェクト。天候の原因や、下請け業者が納期を守らなかったなど、さまざまな予測不能な要因が絡まってプロジェクトの遅れは「常識」のように思われてしまう。しかし、精緻に見ていけば、そこには気づいてみれば、あまりにも単純な数々の「おかしい」考え方や、プロセスが横たわっている。

各ステップで作業が早く終わっても、それが平均化されることがなく、結果的にプロジェクトは一連の最も時間のかかるパスの遅れに、すべての遅れが集約されてしまうということ。各ステップにセーフティを置いても、それが学生症候群などでセーフティにならないこと。


ゴールドラットは、プロジェクトでは、クリティカルパスのみにセーフティを置き、クリティカルパスの完了期日のみを管理することを提唱する。クリティカルパスを中心に置き、クリティカルパスに合流するパスにもセーフティを置く(合流バッファ)。非クリティカルパスから生じる遅れからクリティカルパスを守るためだ。1つのプロジェクトを見た場合は、これだけで、各ステップにセーフティを置いていたときより、プロジェクトはよりスムースに進む。

ただし、普通、会社にはいくつものプロジェクトが動いていて、リソースの掛け持ちが行われている。ここでは個々のプロジェクトではなく、すべてのプロジェクトを1つのプロジェクトと見なし、最も長いステップを考える必要がある(クリティカルチェーン)。そしてリソース競合などを起こしているところの業務順位を明確にし、可能な限り個々の業務を同時に動くのではなく、従属関係に配置する。
この場合は、クリティカルパスではなく、クリティカルチェーンを遅らせないようにすることが、全体のスループットの向上になる。

と、まとめてみても、(まとまってないけど)こんな知識はたいしたものではない。


このシリーズの特色はなんといっても、小説形式を採用していることだ。理論的に説明されれば、それはそれで知識として得ることはたやすくなる。
しかし、このシリーズでは、あえて小説という形式を採用し、登場人物達が悩み、仮説をたて、検証していく様を描く。
ストーリーを追うことで、読み手も、そういった思考のプロセスそのものに浸り、単純な言葉や概念の理解ではなく、自分自身の課題や仕事へはどのように応用できるのだろうか?ということを、自然と考えさせられる仕組みを提供しているのだ。

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2003/11/01 00:09

2003年10月31日

早朝会議革命―元気企業トリンプの「即断即決」経営

早朝会議革命―元気企業トリンプの「即断即決」経営

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ここ最近やたらと目にするようになったのが分野の一つに「会議」を扱った本がある。
日本人はよくディスカッションが下手な民族だと言われるが(そういった紋切り型の民族感というのもどうかと思う)、確かに会社という場では、人数が増えれば増えるほど、会議の量、時間は多くなっていく。無駄な会議の時間を削るだけで、相当なコスト削減になるだろうし、会議の生産性をあげれば、会社が変わるというのも、あながち嘘ではないだろう。


日本の会議の特色は、コンセンサスを得ることであり、それが必ずしも悪いわけでもないとは思うが、なんでもかんでも「会議」という言葉で括られると、本来は結論を出さなければいけない会議でも、なんとなくゆるーい共有認識を得た、というレベルで会議が終了してしまい、そこで課題となっていたことや、TODOはほったらかしになってしまう、というようなこともよくあることだろう。

今、世に出ている会議本のほとんどは、会議のテクニック、技法、運営方法を説明した解説本、マニュアル本だ。僕も何冊か読んでいるが、その中身は驚くほど似通っている。そして、その本に書かれてあるとおりにやろうと思うと、結果的に、議事や、議長には相当なスキルと技量が必要だということを思い知らされるだけなことが多い。結果、なかなか続けられない。

この本は、トリンプが16年間にわたって続けている早朝会議をとりあげている。面白いのは、議長の役割は何かとか、ファシリテーターが何をして、とか会議の決まりはどうで、といった会議の技法を説明するのではなく、ある日の早朝会議の模様を、ほぼそのままに近い形で、ライブ形式で収録しているところだ。

ライブを読むだけで、トリンプがいかに決定の早い会社かということがよくわかる。そして、心がけやテクニックや役割といった会議技法そのものについても、ライブ形式のほうが、伝わってくるところがある。

トリンプの会議は、吉越社長が、気になることや、朝得たニュースなどを、担当者にどんどん「訊いて」いくことからはじまる。そして、そのやり取りを通じて、TODOが決まり、TODOが決まると、デッドラインが必ずひかれ、その場で担当はその責任者となる。デッドラインは、どんなに遅くとも1週間であり、1週間以内にどのようなものでも答えを得なければならない。これは絶対的なルールとなっている。
そして、毎朝の早朝会議で、そのTODOの進捗が追いかけられ、デッドラインを過ぎてしまうと、担当者はかなり厳しいお叱りを受けることになる。

関心するのは、吉越社長の質問力だ。とにかく、思いついたことを猛烈なピードで訊いてゆき、その回答を即座に求められる。もちろんん、「わかりません」という回答もあるが、そういった答えにたいしては、「じゃぁ、考えておいて、何日までに回答下さい」というように、さっさっと「誰が」「いつまでに」「何をするか」ということが決められていくのだ。
ライブで収録されている日の会議では、40ものテーマが議題に上っている。しかも1つ1つのテーマに関連性があるわけでもなく、今、吉越社長が気にしていること、興味をもったもの、ふと思い出したこと、などが脈略もなく次々とテーマとしてあげられる。担当者としても、何を訊かれるかわからないことが多く、常に、答えに対しての準備や、考え方の整理というものを求められるわけだ。これが毎朝あるのだとういう。

これは凄い経営スピードだ。

朝にこのような会議を行うことで、与えられた役割を担当はすぐにその日から動き始めることができるというメリットがある。なにせどんなテーマでも期限は最大で1週間しか与えられない。毎日やってると、担当者にはどんどんテーマが与えられていくので、担当者は毎日TODOをこなしていくことに必死になる。

毎朝の会議には現場の担当ももちろんのこと役員も全員でるため、その場ですべてが即決される。16年連続で増収、増益を達成しているというのも頷ける。とにかくスピードを最重要視し、スピードを出すために、活動のフィットが行われているのだ。

この会議が成立しているのは、なんといっても吉越社長のリーダーシップ、カリスマ性によるところが多く、これをまったく同じようにやろうと思っても、他の会社ではなかなかこうはいかないだろう。とにかくトップがどんどん質問し、それに対して、ゴーン流に言えば「コミットメント」を求められるのだ。

しかし、考えて見ると、世にある会議本を読んでも、おそらく本にあるような有意義な会議を恒常的に開くことができる会社はごく僅かだろう。
が、このトリンプ方式では、1人の強烈なリーダーシップを持った、俯瞰力のある人間がいれば出来る可能性もあるという意味では、かもすると、トリンプ方式のほうが、会社の文化として定着せしめ、長続きさせられるものなのかもしれない。

僕はこの手の本を読むと、早速実践してみたくなる。悪い癖でもあり、良い癖でもある。(そしてたいてい長続きしないのだが)

トリンプでも最初は部門会からはじまり、徐々に参加者も増えていき、会社全体に関わる会議になっていったという歴史があるようだし、早速何かしらの会議で同じようにやってみようかな。ということで早くも僕は吉越社長モードだ。

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2003/10/31 00:12

2003年10月29日

書きあぐねている人のための小説入門

書きあぐねている人のための小説入門

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「小説入門」であり、「小説技法入門」ではない。
ある種、保坂作品によせられる数々の紋切り型の批評(ストーリーがないとか)への返答であり、現代小説、小説家の志の低さへの痛烈な批判本ともとれる本書。
この本にも書いてあるように、この本を読んで、この本の通りに、「小説を書くとはこういうことだったのか」と喜ぶような人は小説家にはなれないだろう。

小説とは、"個"が立ち上がるものだということだ。べつの言い方をすれば、社会化されている人間のなかにある社会化されていない部分をいかに言語化するかということで、その社会化されていない部分は、普段の生活ではマイナスになったり、他人から怪訝な顔をされたりするもののことだけれど、小説には絶対に欠かせない。
読み終わったあとに、「これこれこういう人がいて、こういうことが起きて、最後にこうなった」という風に筋をまとめられることが小説(小説を読むこと)だと思っている人が多いが、それは完全に間違いで、小説というのは読んでいる時間の中にしかない


保坂さんの小説感というのは、読んでいて潔い。今、ここまで小説というものに対して志の高い人も少ないのではないか。保坂さんの小説感とは、文章や、テーマが社会的、現代的とかってことや、風景描写がよく描けている、ストーリーが面白い、キャラクタが良いといったもろもろの技法的、技術的なことではなく、読みながらいろいろなことを感じたり、思い出したりするものが小説であって、感じたり思い出したりするものは、その作品に書かれていることから、いかにして全体として、言語化されえない感動を言語化するか、また、何かに抱いた感情や感覚や違和感の、その最初のエネルギーをどうやって文字のなかに引き込むかといったことに関心が集中している。
これは何も小説について言えることだけではなく、アートに関わる人が皆意識しなければならないことだろう。

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2003/10/29 21:18

2003年10月27日

情報アーキテクチャ入門―ウェブサイトとイントラネットの情報整理術

情報アーキテクチャ入門―ウェブサイトとイントラネットの情報整理術

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情報アーキテクチャは可視化しづらい。
僕らは日常生活のなかで、無意識的にアーキテクチャに基づいた情報探査や理解を行っているのだけれど、それがあまりにも自動化してて、自然なため、裏側の構造について考えようとはしないものだ。
当たり前のことだが、テレビを買う人は、テレビ番組を見たいのであって、テレビが番組を受像する仕組みや、映像や音声を流す仕組みを理解したいわけではない。
Web構築をお願いするクライアント側も、別にアーキテクチャについて知りたいわけではないだろう。
ところが、特にビジネスとの親和性の高いWebサイトなどにおいてはクライアント側にもアーキテクチャの重要性に理解してもらわないと、プロセスが破綻してしまう可能性もあるわけだ。

本書では、情報アーキテクチャとは何か?という問いから始まり、情報アーキテクチャはどのようにして構築するのか? 情報アーキテクチャの破綻がもたらす損害などをチャート化している。第一版に比べて、レベルは格段に上がり、内容も、より学術味を帯びている。

しかし、この本で得られることは、情報アーキテクチャに関するほんの一部のことにすぎない。情報アーキテクチャという分野の裏側には認知科学や記号論、文化人類学、心理学といった、さまざまな分野の研究の裏づけが不可欠なのだ。
その意味では、本書はそれらさまざまな学問への「リンク」に近いものであり、本書から奥深い情報アーキテクチャという新しい分野への入り口程度のものだと考えたほうが良いのかもしれない。

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2003/10/27 00:24

2003年10月20日

通販勝ち組が教える! 売れるしくみはこうつくれ

通販勝ち組が教える! 売れるしくみはこうつくれ

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成功の鉄則9ヶ条は正直どうでも良いと思った。
Amazonのレビューではこれを絶賛している人もいたけど。

本のつくりからして、神田さん、アルマック系の臭いがするわけだけど、神田さんがダイレクトマーケティングの知識全般を、天才的な文章力と表現力でロジックを展開しているのに対して、本書はあくまでも、「通販」という限られた分野でのノウハウとポイントを解説している。

なるほどと思う部分は実はけっこうあって、
下手なマーケティング本よりもずっと実践的だ。

「1人のお客さまに広告を見てもらうためのコストの基準値が5円」この数字を基準にすると、20万部発行の週刊誌なら1ページあたりの広告代は「20万部×5円=100万円」。これがこの週刊誌における上限値です。

僕は雑誌広告なんかはよくわからないので、こんな風に言い切られると、「そういうもんか」と鵜呑みにしてしまう。

新規売上の50%を広告宣伝費に回す構造」をつくる

なるほど、つまり通販では新規売上の「50%も」広告宣伝費にまわしてでも、黒字になるようなモデルをつくらなきゃならないということで、それは商品原価や、在庫のリスクをどう軽減させるか、電話オペレーターの人件費をどうやって削減するか、といった考え方につながっていく。

なんにしても、こういう成功体験からもたらされた数値や公式というのは魅力があり、説得力がある。

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2003/10/20 00:28

2003年10月19日

慟哭

慟哭創元推理文庫

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この手の本は手っ取り早く読めるので、暇つぶしで買うことが多い。

北村薫が大絶賛ということで、とりあえず手にしてみた。
北村薫も初期の頃しか読んでないので、なんともいえないのだが。

率直に言うと、確かに仕掛けは面白いだろうし、読み終わるときには「おっ」と思わせられる。
しかし、この「おっ」のために、小説のすべてが捧げられているということに、ボクは読み終わって徒労感しか得られなかった。その文体、その構成、そのストーリー。この小説を構成しているもののほぼすべてが、最後のどんでん返しのために用意されているのだ。
これ以上はネタバレなんで、読もうという気の人は読まないほうがいいです。


この手のレトリック系トリックは、筒井の「ロートレック荘事件」や、綾辻行人の「十角館の殺人」でも使われていた手法だ。(他にもいろいろあるのだろうが、ボクはようしらん)
あるいは、竹本健二あたりのメタ小説系も同類といえるのではないかと思う。(「十角館」は厳密には違うかもしれんね)

いわゆる小説内での謎解きから、メタレベルでの謎解きを盛り込むという手法で、正統なミステリーだと思って読むと肩透かしを食らう。
この「慟哭」もまさにそうなのだけれど、新しかったのがやはり、文体をも意図的、戦略的にその「ミステリー」の設定に使われたということだろう。

でも、個人的にこの手のミステリーは嫌いなんだよね。
読んだあとに、その驚きだけがすべてだったという結果に、なんかむなしくなる。

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2003/10/19 19:55

2003年10月15日

真夜中のマーチ

真夜中のマーチ

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なんかこの人の書くものはどんどん軽くなっている気がする。
「軽さ」といっても別にそれが悪いわけではないのだけれど、「イン・ザ・プール」以降というのは、文体もテーマも含めて、えらく軽くなったなぁと。

ストーリーテーラーとしての才能は天才的なものがあると思うし、本書の展開の面白さ、スピード感も、関心させられるところは多いのだけれど、あまりにも軽すぎる。。。

イタロ・カルヴィーノは次代の小説に必要なものとして、確か、「軽さ」みたいなことを言ってたけど、カルヴィーノが言う「軽さ」と、文体とか構成とかの「軽さ」は根本的に違うんだと思う。

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2003/10/15 00:30

2003年10月12日

OUT

OUT 上 講談社文庫 き 32-3

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OUT 下 講談社文庫 き 32-4

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以前から読もうかな読もうかなと思ってて、なかなか手が出せてなかったのがこれ。でもとうとう手にしていまった。
手にするととまらなくなって、寝る間をおしんで一気に読んでしまった。(上が終わって、我慢しきれず、深夜に本屋を探し回って、下を手にいれた)

解説が松浦理恵子といのもいいね。
松浦理恵子ぐらい信頼のおける「読み手」はいないんじゃないかと、僕は勝手に思ってる。

感想はまた後ほど書くことにしようかな。

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2003/10/12 00:34

2003年10月01日

カンバセイション・ピース

カンバセイション・ピース

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保坂和志の書くものは、小説に限らず、コラム、思想書(まがいのもの?)、エッセイなど、ほとんどのものには目を通している。
最初の出会いは講談社文庫で読んだ「草の上の朝食/プレーンソング」(この文庫は絶版?)で、これを読んだときにはかなりたまげた。閉塞感があった現代文学に少し光明が差した気さえした、といえば大袈裟だけれど、ほんとにあぁこういう小説と出会えてよかったと心から思ったものだ。

保坂さんの書くものというのは、とにかく「考える」ということを休まない。それは小説でもそうで、小説の主人公はつねに考える。考えることさえ考える、というレベルで、徹底して考える。そんなのに意味あるのか?と問われれば、私たちが生きているそのほとんどのことは本質的に意味はない、というところから考えはじめる。
保坂さんの書くものを読むと、僕はいつも「考える」ことの素敵さを実感する。
ドラッカーが「重要なことは、正しい答えを見つけることではない。正しい問いを探すことである。」というようなことを言っているけれども、保坂さんの書くものというのはつねに、「正しい問い」を探すプロセスそのものだったりする。
もちろん「正しい」ということについても、保坂さんなら考えはじめるわけだ。

さて、このカンバセーションピース。
これはもう保坂さんの現時点での集大成的な小説だろうと思う。おそらく保坂さんを知らない人が初めてこの小説を読むと面食らうだろうなとは思うけど、ずーっと保坂さんを読んでた人なら、ここまできちゃったか、と思うところもあるのではないだろうか。
いつものように特にストーリーらしきストーリーもなく、ただひたすら会話と日々のなんでもない情景を通じて「僕」が考えたことを、その考えるプロセスをひたすら克明に記録したような小説だ。エンターテイメント性などという言葉とは正反対に位置する小説だけれども、「考える」といことがこれほどまでにわくわくすることなのか、と感じさせてくれる意味では、実は下手な娯楽小説、大衆小説よりもずっとスリルで面白い。

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2003/10/01 00:37

2003年09月09日

PMプロジェクト・マネジメント

PMプロジェクト・マネジメント

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プロジェクト管理の概念として、
時間を扱うときには、「可変時間作業」と「固定時間作業」に分けて考えることが大事らしいです。

当たり前の話なんですが、以前から、どうもクライアントや代理店が「人を増やせば時間が短縮できるだろう」「このスケジュールでできないのは体制が不足しているだろう」というようなことを言われることがちょくちょくあり、どう説明するのが一番わかってもらえるだろうかと頭を悩ませていたので、この言葉に出会ったときに、「これだ」と思ったわけです。

「可変時間作業」とはすなわち、「人・モノ・カネ」の「資源」の量によって所要期間が変わる作業。
「固定時間作業」とは、「資源」の増減によって所要期間が変わらない作業。たとえば、東京から仙台まで機械装置を運ぶのに4トントラックで5時間かかるとする。この業務は、人を増やしても時間が短縮されるわけではないと。

ウェブ構築のプロジェクトにおいても、業務を解体した後は、それぞれの業務が、「固定作業時間」なのか「可変作業時間」なのかを明確にすれば、クライアントにも説明しやすくなるのかなと思いました。

また、「可変作業時間」の場合、「じゃぁ人(カネ、モノ)をもっと増やして、時間を短縮してよ、というようなオーダーがあった場合は、他の作業時間に「変数」が加わるということも重要です。

プロジェクト管理では、「40時間の法則」というものがあります。これは、あるプロジェクトのWBSを作成した場合に、もっとも末端レベルの個々の作業は、40時間以下で完了できるものにしなければならない、というものです。

プロジェクトとは、40時間以下のMECEな個々の作業の集まりとして考えられるわけですが、個々の作業時間に対して見積もった時間(最初に見積もる場合には、過去の経験則などからこれぐらいだろうという予測によって数値を入れる)に対して、「変数」を加えていくのです。

たとえば、この作業に似た作業は過去に経験があるが、過去の経験と少し異なるところがあるので、+20%の変数。あるいは、この作業の管理者は経験豊富だが、実作業を行う人間が経験不足しているので+10%とかっぐいにね。(もちろん、作業時間短縮要因になる変数もある)

先の例でいくと、可変時間作業に対して、人を投入した場合、可変作業時間自体は減りますが、それによる管理工数が増えるところを、変数として何パーセントかということを決定して、該当作業につけておく。

すると、作業時間の見積もりには、「初期見積もり時間」と「バッファを見た見積もり時間」の両方を同時につくれるというわけです。

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2003/09/09 00:51

2003年06月04日

亡国のイージス

亡国のイージス 上

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亡国のイージス 下

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亡国のイージスを読んで、主体性ということをかんがえた。

戦後思想と主体性なんてテーマはさんざん語りつくされてきた。日本という国家、民族の主体性は何か? 日本人ぐらい「主体性」という問題を問いかける民族はいないのではないか? 江藤淳にせよ、加藤典洋にせよ、「主体性」のオンパレードだ。

「主体性」という言葉が持ち出されるとき、それがそもそも何を意味しているのかという問題はあるが、主体性という言葉で言い表されるような、主体の能動的態度というか決意というか、そういうものをわざわざ意識して持ち出さなきゃならないことこそが、日本の主体性のなきことを露呈しているのではないか。

主体性というものを必要とするというその事態にこそ、主体性の問題は潜んでいないか。

そもそもだ。主体性という言葉にぴったりあてはまる言葉は欧米には存在しないのではないか? subjectivity は違うだろう。subjectそのものが違うのではないか。主体は自足的なもので、わざわざ確認しなきゃならないものなのだろうか。

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2003/06/04 18:17

2003年05月23日

ノヴァーリスの引用

ノヴァーリスの引用集英社文庫

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新幹線に乗る前には必ず本を買う。
昨日も大阪に帰る新幹線に乗る前に、東京駅構内の本屋に立ち寄り、本漁りをしていたところ、「ノヴァーリスの引用」が文庫本として平積みされていた。

奥泉光は昔から好きで、ハードカバーで発売されるや買ってる。文芸誌に掲載されれば普段は買わない文芸誌も買う。「ノヴァーリスの引用」についても、随分前に読んでいる。もうほとんど内容も覚えてないので、読み返してみるか、ということで購入することにした。

奥泉さんの書く小説の根本には、いつも現実というものがおそろしく危うい基盤に立っているという認識がある。
「ノヴァーリスの引用」も、大学時代に自殺したと思われる男とそれにまつわる物語を、同級生たちがふとしたおりに探偵趣味よろしく、「あれは他殺ではなかったか?」と推理をめぐらせることから始まる。推論の過程で、「過去」という「物語」が自分の都合のよいようにつくられていくのか、ということが明るみになっていくのだ。
しかし、「推理小説」との決定的断絶は、推理小説がある一点の真理(真犯人/トリック)というものに向かって、物語は収斂していくのにたいして、この小説では、むしろ「現実」の多義性というか多層性というものにむかって拡散していくところか。

登場人物達は、その人物の「死」にさまざまな物語を付与していく。この遊戯は、「死」という特異状況を題材にしつつも、実は私たちが普段から何気なくしている思考様式の相対化ではないか。

寺山修司はかつて、現実と虚構というニ項対立があるのではなく、虚構的虚構と虚構的現実の対立なのだ、というようなことを言っていた。

過去も現実も未来も。私たちはつねに「物語」を生きる。
社会や国家が提供してくれた巨大な物語が崩壊した今、わたしたちはわたしたち自身の物語化(虚構化)を行い、たえず生を活性化させていかなければいけない存在なのだ。

マーケティングには何の関係もないように思えるが、マーケティングもやはり大きく変わった。それは現実に生きる人々が依拠する「物語」が変わったからではないだろうか。(あまりにも強引すぎるか....)

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2003/05/23 03:22

2003年05月19日

グレートゲーム・オブ・ビジネス―社員の能力をフルに引き出す最強のマネジメント

グレートゲーム・オブ・ビジネス―社員の能力をフルに引き出す最強のマネジメント

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今日の「がんばれ社長
に『グレートゲーム・オブ・ビジネス』がとりあげられていたので、読み返してみることにした。

『グレートゲーム・オブ・ビジネス』では「オープンブック・マネイジメント」というマネイジメント手法をビジネスに持ち込むことが提案されている。

「オープンブック・マネイジメント」の考え方は至極単純で明快だ。会社の財務情報を社員にきちんと公開すること。そして数字の意味、判断の仕方を社員に教育すること。これにより、ゲームに参加する感覚で社員に事業に参加してもらうというただこれだけだ。

この手法では、まず原価の抑制が効く。徹底したベンチマークをそこに持ち込めば、社員一人一人に原価の低減という意識が生まれる。

しかし、原価を抑制してもそれは売上向上には繋がらないのではないだろうか? 個人的にはオープンブックマネイジメントは、成熟産業、製造業では極めて効果的かもしれないが、無形財ビジネス(サービス業や情報産業)では、効果がないわけではないだろうが、著者が社長を務めた会社のような成功は難しいのではないかと思うのだ。

財務諸表の数字をいくらいじくっても、売上をあげるための施策というのはなかなな導き出せない。なぜか? キャッシュインは、顧客からもたらされるからだ。財務諸表上では顧客に関する情報は極めて少ない。通常のP/Lでは、入ってくるお金の項目は営業外を除けば「売上」だけなのに対して、出て行くお金はそれでも細かい。細かくしようと思えばいくらでもできる。この「ゲーム」で売上をあげていくためには、もっと「顧客」の情報を増やした独自の財務諸表が必要だろう。それは各業界や業種によって異なるものかもしれない。

(かといって、ABC分析やRFM分析をやって、おー、うちの売上も80:20の法則にあてはまってるぞ、などと分析することでもないことはもちろんのこと)


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2003/05/19 18:07

2003年05月16日

ブランド!ブランド!ブランド!

ブランド!ブランド!ブランド!

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英国鉄道の重役たちが、アラン・ブランディー&マーシュ社を訪れた際、彼らは受付で無礼な応対を受けた。さんざん待たされた挙げ句、彼らを会議室に案内したのはボサボサ頭の従業員だった。しかも、案内された部屋は汚れ、食べ残しが散らかっていた。さらに待たされて、話をしに入ったのは、やる気のなさそうな連中だった。
 彼らが気分を害して部屋を出ていこうとしたとき、広告会社の人間が言った。「皆さん、今日は特別な対応をさせていただきました。英国鉄道の顧客がどういうサービスを受けているかを示すためです。貴社が抱えている本当の問題は、広告ではなく、従業員です。広告の仕事を始める前に、従業員教育のお手伝いを提案します」。こうして、この広告会社は仕事を手に入れた。
 もちろん、ピーター・ドラッカーが言うように、「事業の成果は、従業員の幸福ではない。満足して製品を何度も買ってくれる顧客である」。

ブランド構築のためには「関係」が非常に大事で、その「関係」はあらゆる顧客接点において考えられなければならない。広告や商品やロゴマークだけの問題ではなく、従業員、販売員も含め、すべての[]コンタクトポイント[]でブランドの約束を守らなければならないわけだ。

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2003/05/16 03:31

2003年05月09日

バカ売れの法則 ~この女性を口説くには?~

バカ売れの法則 ~この女性を口説くには?~

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文章の構成方法はエロサイトに学べ、と主張しているが、これはごもっとも。文章に限らず、あらゆることはエロサイトで学べる。たとえば、今流行りのSEO。検索エンジンの上位にヒットさせるという手法だが、こんなものは何年も前からエロサイトは手がけている。SEOから見ると「スパム行為」にあたることも多いが、エロサイトは実に貪欲だ。検索エンジン側といたちごっこを繰り返し、つねに一歩先、一歩先を行く。

ユーザビリティに関してもエロサイトには学ぶところはある。エロサイトの玄関ページでは、「入り口」と書かれたリンクやらバナーが所狭しと並べられていて、本当の入り口がどこかよくわからないということは屡々だ。これって「逆ユーザビリティ」というか、ここまでひどくなくても、多くの企業サイトも同じような過ちはけっこう犯しているものじゃないだろうか。

神田昌典さん批判ともうけとれるような箇所があって笑えた。神田さんがMBAホルダーのコンサルタントや広告代理店を敵にして、自分がいかにだまされ続けたかということを訴えたように、原崎さんも感情をベースとしたマーケティングを唱えるコンサルタントにだまされたことを語る。

このあたりは似ている。もちろん似ているから悪いというものでもない。事実であろうとなかろうと、ビジネス書やマーケティング本の多くは、同分野の今までの手法や考え方をいかにして「過去のもの」にするか、あるいは「欠陥品」かということを知らしめるかを語ることが多い。

しかし、ボク個人的には、神田さんも凄いなと思うし、原崎さんも凄いなと思う。どちらか一方の考え方や方法に傾倒するというわけではなく、両者の良いところをうまく使いたいと思う。(そういう美味しいところどり、が部分最適にしかならないから駄目と言われるのももちろん覚悟しつつ)

「バカ売れ型文章公式」と「PASONAの法則」はどちらが凄い、どちらが役立つというより、両方の考え方をしっかりと理解して両方使いたいわけだ。

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2003/05/09 23:11

2003年01月05日

マネーロンダリング

マネーロンダリング

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ハードボイルド金融小説とでも言うべきか。著者の金融関連の知識には目を見張るものがある。
しかし、それを単なる社会派、ジャーナリズム的お利口小説にはせず、一級のエンターテイメントに仕上げたのは、すばらしい。
ただ、おそらくだが、この人、小説家としてこの作品を超えるものはもう二度と書けないだろう。

「お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方」の方はひどかったものなぁ。

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2003/01/05 03:36

2002年11月08日

マドンナ

マドンナ

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また奥田和朗。いいかげん飽きてきたな。
でも表題作はちょい身にしみた。奥田和朗は「あぁこういうことはあるなぁ」という「共感」を描くことがおそろしくうまい。
それを実に軽快なトーンで描いて笑い話にしてくれるところが良い。

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2002/11/08 03:39

2002年08月20日

営業の「聴く技術」―SPIN「4つの質問」「3つの説明」

営業の「聴く技術」―SPIN「4つの質問」「3つの説明」


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SPIN営業の基本は、
4つの質問-2つのニーズ-3つの説明
で成り立ちます。

4つの質問は、SPINですな。2つのニーズとは、潜在的ニーズと、顕在的ニーズです。潜在的ニーズをいかにして顕在ニーズとするのかが、「示唆質問」の役割。

3つの説明とは、商品・サービスの説明です。これは3方面があり、

  1. 特徴(Features)
  2. 利点(Advantages)
  3. 利益(Benefits)


だとしてます。(頭文字をとって、FAB(ファブ))

「特徴」だけを説明すると、顧客の関心は「価格」に向く傾向が顕著。

「利点」を説明すると、「当社は特別だけど、~なことはできますか?」と1年に1度あるかないかの例外事項で「反論」してくるケースが多い。

顧客の顕在ニーズに合わせた「利益」をどう満たすか、買い手側の論理を説明すると、おおむね、賛同(納得)が得えられやすくなる。

SPINをうまく絡め、これらの質問を使いながら、FABを説明していくのが、コンプレックス商品のセールスにとって肝になります。

FAB説明の順番としては、

B - F A B
─────>

B
このシステムをご採用頂きますと、年間●●万円の売上向上が期待できます。

F
なぜなら、このシステムは、~という特徴、機能があります。

A
そのため、現在の~が、~となります。

B
したがいまして、シュミレーションによれば、~が●●、~が●●、~が●●となり、年間●●万円の売上向上が期待できます。

というパターン。

結論(利益)から入り、最後に結論を繰り返す


利点と利益の違い

利点と利益。言葉だけ見ると、似てますが、意味合いは異なります。
ここでは簡単に説明します。

利益とは、「定量化できるものである」ということです。

逆に言うと、「定量化ができないもの」はすべて、「利点」です。
なるほど。

利点は、顧客に「一般的に」どう役立つかの説明であって、説明が「形容詞」になるケースが多く、具体性にかけます。

「利益」は、「顧客のニーズ」をどう満たすかの証明であり、数値化されるものです。


提案書への応用

SPIN-FABモデルにのっとる形式をそのまま提案書などに応用すると、以下のような流れになります。

S[状況質問]----------> 1.貴社の現状

P[問題質問]----------> 2.貴社の問題点

I[示唆質問]----------> 3.問題の原因と課題

N[解決質問]----------> 4.課題の解決策(FAB)

当然、「解決策」は、可能なかぎり、顧客の「問題」「課題」に対して、「定量的」な「利益」を訴求するほうが良いということになります。

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2002/08/20 12:32

2001年11月03日

センセイの鞄

申し込みをキャンセルしたにも関わらずYahoo!BBからモデムが届いた。まったく。
会社にBBを利用している人はいて、話によると「悪くない」とのことだが、ウリだった価格だって、他があれだけ値下げしてしまえば、たいした魅力でもない。

センセイの鞄

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川上弘美の「センセイの鞄」。川上弘美の魅力は、あのあまりにも淡々とした描写と、そんなことはありえないだろうという状況をあるがままに受け止めてしまう登場人物の不条理さなのだが、今回は徹底的に清潔に清潔な世界だけを構築してしまった。
カッコつきの「文学」「純文学」としては、洗練されていて、ひとつひとつの言葉の選び方も繊細ではある。「よい小説」としての体裁は完璧といっていいほどかねそろえている。でも、何か決定的に欠けているのだ。それは川上弘美という優れた作家が、このような優等生純文学を書くという理由そのものかもしれない。

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2001/11/03 23:29

2001年10月24日

明け方の猫

明け方の猫

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保坂和志の「明け方の猫」を買ってしまった。というか、群像に掲載されたやつ読んでるし....併載の「揺藍」もホームページで読んだし。よく調べて買えばよかった。ここ最近、保坂和志の書くものは無条件で信じてしまっているので、ついついBK1で買ってしまったのだ。しかし「明け方の猫」なんて掲載された群像もまだ持っているというのに。
でもまぁ、せっかく買ったんで、読み直してみるが、やっぱり面白い。
「揺藍」は彼のデビュー前の作品で、ホームページではいろいろと語っていたが、やはりこの語り口ってのは単純に田中小実昌の影響がもろにでているという感じがする。
「明け方の猫」のほうは彼の哲学的思索を小説に束ねた感じがする。ここに登場するモチーフは、自己同一性とか、身体論とか、まぁあげていけば現代思想のひとつの象徴的な題材ばかりなのかもしれないけど、あれは思想を、そこにあるものとして書くのではなく、あくまでも思考の道筋として示そうとしているところが面白い。現代思想はけっきょくのところカラタニ氏が言うように、自分がのっかっている枝を自ら切るというようなことをしているだけなのかもしれないが、僕が常々いやらしいなと感じていたのは、なんだかんだいっても、思想は、たいていの場合、ぽん、とそこに投げだれて、もともとあったかのごとく語られるということだ。このニュアンスを語ることは難しくてうまく表現できないけど。散文という形式でも、島田雅彦とかになっちゃうと、ぐんと思想が「ある」ように扱ってしまう。保坂和志という人の散文は島田雅彦なんかよりもずっとずっと自由だし、力強いんじゃないかと思うんだな。何をいってるのかよーわからんようになってきたけど。

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2001/10/24 00:46

2001年09月09日

ヴィアン

今週末はFireWorksを買いにいこうと思っていたのだ。
なにに自宅待機だ。まったくしがない仕事だと思う。
FireWorksには驚いた。世の中はどんどん便利になっていくのだなぁ。昔はほんと馬鹿高いPhotoShopやらillustratorやらでしかできなかったことが、簡単にできてしまうのだから。

ボリス・ヴィアン全集 (4)ボリス・ヴィアン全集 4
※なんで画像ねーんだー

まぁ、ここんとこあまりにもの忙しさであまり本を読んでなかったので、待機がてら久々にどっぷり読書につかるのも悪くはないか。日記のタイトルにかけたわけでもないが、ヴィアンの「北京の秋」を見つけて思わず買ってしまったものの読んでないので、今日はこれを読もう。「北京の秋」は大学の頃に、ある女の子に薦められて読んだが、正直いってよくわからなかった。ヴィアンは「泡沫の日々」しか読んだことがなかったので、そのイメージが先行していたからかもしれない。でも、その後に知ったのだが、「泡沫の日々」はむしろヴィアンにしてみればヴィアンらしくない作品だったようだ。いや、ヴィアンというのは「~らしい」というような安易な批評を拒絶する存在なのかもしれない。

そんなことを考えつつ、とりあえず出前でもとろう。

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2001/09/09 13:07