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2004年01月04日

動物化するポストモダン

動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会

動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会

「オタク」を通じて、80年代以降の日本の文化状況の分析しようという試み。「郵便的不安たち#」の仕事の延長なので、そこに語られていることに驚きや感動はない。

さまざまな事例を持ち出しつつ、「ポストモダン」における社会システムがどのようなものかということを、得意の二分法的思考で分析している。しかし、ではそのような世界において、人々はどのように生きるのか、という問いへは踏み込んでいない。それに踏み込むことが大事というわけではもなく、もちろん今、この状況を冷静に相対化するということも重要だろう。精神分析では、自分が自分自身を正確に知ることはできない、という前提に立つが、「自分には自分でも知りえない部分がある」ということを知ることが重要だとされる。それと同じようなものだろう。

以下は読書メモ。
(ほとんど校正などもせずに、思いつくままを引用して、そこで考えたことをまとめただけです。なんで、構成とか無茶苦茶です)

■オタクに特徴的な世界観

オタク達の特徴的な世界観は

「萌え」とは、「キャラクター(シミュラークル)と萌え要素(データベース)の二層構造で成り立っている」

オタク系検索エンジン「TINAMI」は、そのもっとも特徴的な検索システムだ。
「TINAMI」ではキャラクターの部分的な特徴を細かく指定して、自分の好みに合うイラストを効率よく探すことができる。

たとえば、

萌え要素を「猫ミミ」と「メイド」を指定し、「キャラ含有率」を75%以上に、「キャラ年齢」を10歳から15歳に、「ディフォルメ度」を5に設定して目的のサイトを検索する

という具合だ。

僕は「TINAMI」を知らなくて、はじめて使ってみたのだけれど、これは驚きだ。たとえば、「キャラ性別」も「女100%─男0%」から「女25%─男75%」という具合に細かい条件が指定できたりする。うーむ。ほとんど理解不能。

こういった検索システムなどから、東さんは、オタクにおいては、「匿名的に作られた設定(深層にあるデータベース)と、その情報をそれぞれのアーティストが具現化した個々の作品(表層にあるシミュラークル)」が存在するのみであるとし、それがいわば、ポストモダン的な世界観の特徴としても一般化できると言う。

もちろん、データベースからの要素の抽出と、それを組み合わせてつくられるシミュラークルという構図はは何も今に始まったことではない。

キャラクター小説の作り方」で大塚英志は、手塚治虫の自分のまんが絵が「記号」の組み合わせだった、という発言などを例にとりながら、「近世の歌舞伎、そして戦後まんがと、その時代時代の物語表現は常にデータベースからのサンプリング、あらかじめ存在するパターンの組み合わせなのです」と、批判している。

たしかに、「物語」の祖形は、神話や聖書、千一夜物語などに求められるだろうし、その意味では、「データベース的設定」は、オタク文化に特徴的なことではない。

しかし、このシミュラークルとデータベースという二分法の構図において重要なのは、東さんは明言していないが、このようにして生み出されたキャラクターに、オタク達がセクシャリティを抱いているかいなかということだ。
「萌え」とはそもそも、オタク達が虚構のキャラクターに対して感じるセクシャリティを戯画化することで生まれた表現だ。
(このあたりは、斎藤環の「戦闘美少女の精神分析」で、詳しく分析されている)

簡単に言ってしまえば、オタク達はそういった極めて虚構性の高い、単なる要素の組み合わせのキャラクターでさえも「抜ける」ということだ。(僕にはまったく理解不可能なんだけど....)

つまり、オタクは「虚構重視」の姿勢が徹底している..... では、なぜそれほどまでに「虚構重視」の態度が生まれるのだろうか?

■ポストモダンにおけるコミュニケーションのあり方

オタクの行動を特徴づけるのは「虚構重視」の態度であり、それは、単純に虚構と現実の区別がつかなくなっているわけではなく、「社会的現実が与えてくれる価値規範と虚構が与えてくれる価値規範のあいだのどちらかが彼らの人間関係にとって有効なのか」ということを天秤にかけた結果だと分析する。

オタク達が趣味の共同体に閉じこもるのは、彼らが社会性を否定しているからではなく、むしろ、社会的な価値規範がうまく機能せず、別の価値規範を作り上げる必要に迫られているからなのだ

とする。そして社会的価値規範が機能しなくなったのは、お決まりの「大きな物語の凋落」を真因として語っている。

東さんは「オタク一般」として、語っているが、これらのことが「オタク」だけに特徴的な行動や価値観かというと、必ずしもそうではない。
「オタク」はもっとも先鋭的に、極端に、こういった特徴が現れているだけであり、これらの特徴は今を生きる市井の人にほとんど当てはまることだろう。

たとえば、僕たちには、60年代、70年代に力を持ったような「共産主義」的な神話もなければ、それこそ「国家」や「親」あるいは、「出世」といったものもない。辛うじて社会的価値規範として機能していた「マスメディア」でさえも、昨今のテレビ視聴時間の低下などを見るとその役割を果たせなくなりつつあるのではないかという気がする。(テレビ視聴時間の低下は、インターネットやケータイ電話の利用時間にとって変わられているのだろうか?)

社会的な価値規範を妄想的につくりあげようとしたのが「オウム真理教」だったわけで、「オウム真理教」がなぜ、あれほどの高学歴の人達を惹きつけてしまったのか、というのは、単に「馬鹿だった」ということではないだろう。その背景には、「物語」の喪失による「生き難さ」に、麻原の語る「理想」がぴったりとはまってしまったことがあるのだろう。(僕はオウム事件を擁護したりは絶対にしないのだけど)

「社会的な価値規範」が凋落するとコミュニケーションが難しくなる。つまり、簡単に言ってしまえば「話題」がないということだ。つまり、見渡せば私たちの周りには「他者」ばかりということだ。何かしらの共通の言語を有する人達を見つけることは極めて困難になりつつある。

価値規範が断片化すればするほど、コミュニケーションは難しくなってくる。オタク達は、そのような状況に対して、「趣味の共同体」に閉じこもるという行為にでるが、オタクに限らず、多くの人が同じような行動に出ているのではないか。その「趣味」が「アニメ」ではないだけで、ほとんどの人は閉じこもっているのではないか? 閉じこまらざるをえなくなっているのではないか?

現実の必然性はもはや他者との社交性を要求しないため、この新たな社交性は、現実に基盤をもたず、ただ個人の自発性にのみ基づいている。したがって、そこでいくら競争や嫉妬や誹謗中傷のような人間的コミュニケーションが展開されたとしても、それらは本質的にはまねごとであり、いつでも「降りる」ことが可能なものでしかないのだ。

僕がウェブに惹かれるのは、他者のコミュニケーションを、こちらの存在を知らしめることなく、傍観できることと、また自身がそのコミュニケーションに踏み込んだとしても、いつでも「降りる」ことができるからではないか?


■「大きな物語」なき世界での人間性

ポストモダンでは超越性の観念が凋落するとして、ではそこで人間性はどうなってしまうのだか? という問いは、ノベルゲームへのオタクの反応などを分析しつつ以下のように述べている。

ポストモダンの人々は、小さな物語と大きな非物語という二つの水準を、とくに繋げることなく、ただバラバラに共存させていくのだ。分かりやすく言えば、ある作品(小さな物語)に深く感情的に動かされたとしても、それを世界観(大きな物語)に結び付けないで生きていく、そういう術を学ぶのである

そして、最後にこう結論づける。

データベース型の世界の二層構造に対応して、ポストモダンの主体もまた二層化されている。それは、シミュラークルの水準における「小さな物語への欲求」とデータベースの水準における「大きな非物語への欲望」に駆動され、全社では動物化するが、後者では擬似的に形骸化した人間性を維持している。
[略]
この新たな人間を「データベース的動物」と名づけておきたいと思う。
[略]
ポストモダンの人間は、「意味」への渇望を社交性を通しては満たすことができず、むしろ動物的な欲求に還元することで孤独を満たしている。
[略]
世界全体はただ即物的に、だれの生にも大きな意味を与えることなく漂っている。

これは宮台真司が分析している現在の社会状況(「島宇宙化」)とほぼ同じだ。宮台さんは、こういった状況にたいして「ブルセラ少女」の「戦略」を、「生きる術」として獲得すべきと語る。一方で、東さんは、「縦方向ではなく、横方向への超越性、その実践」を行わなければならないと、別のところで語っている。

どちらの戦略が優れている優れていないとうことではなく、結局のところ、もう「大きな物語」なんてないんだという自覚を基盤として、そんな「今」を誇大妄想で埋め合わせなどせずに生きなきゃならないということか。

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2004/01/04 14:05

2004年01月03日

熊の場所

熊の場所

熊の場所

今もっとも、時代とシンクロしている作家じゃないかと勝手に思ってる舞城王太郎の短編集だ。表題作は三島賞候補にあがったが惜しくも落選。その後、昨年「阿修羅ガール」で三島賞を受賞し、名実ともに現代日本文学を代表する書き手になったことは、以前のblogでも書いたとおりだ。

本書におさめられている短編の「熊の場所」と「バット男」は「群像」で既読だったが、「ピコーン!」は書き下ろしということで、改めて読み直そうということで購入した。

舞城の作品を昨今頻発する少年犯罪と絡めて考えたり論じたりするのは、僕は正直あまり意味ないんじゃないかと思っている。「熊の場所」の「まー君」は酒鬼薔薇事件の加害者を安直に呼び寄せてしまうかもしれないが、舞城はまったくといっていいほど「まー君」のプロフィールや出自や思考を描いていない。それを描くことは類型化の道を辿ることになるからだ(柳美里が犯してしまった間違いのように)。だからこそ主人公「僕」の視点を通じて、この不条理な世界や暴力や性について、そんなものはたいしたことじゃないや、考えてもよくわからないや、とにかく「恐怖」の源、それが発生した「場所」に戻るしかないや、というような思考を連ねさせるだけなのではないか。

書評については、舞城王太郎、村上春樹、法月倫太郎を横断しながら、いかにして現代における「親」(小説的規範や社会通念、そして「村上春樹」)を乗り越えるか?を論じた優れた評論「僕たちよ、「熊の場所」へ戻れ」(書評パンチ)を引用しておく。

舞城王太郎は、あきらかに父の世代である村上春樹を乗り越えることをスタートラインとして書きはじめた作家だ。舞城の作品では家族というテーマが、なんども繰り返し描かれる。80年代以降に山ほど描かれた、単純な家庭崩壊劇はもうたくさんだ、俺は家族を崩壊させないままで、暴力に満ちたリアルな世界を生き抜くための倫理を描く、という彼の叫びが聞えてくる。そのためには、子どもはまず、みずからの内なる恐怖心を乗り越えなくてはならない。そうすることが、親を乗り越えることなのだ。

さて、少し視点を変えて、僕が舞城王太郎を現代の書き手だと意識するのは、その文体のスピード感だ。
そのスピード感を生み出しているのは、安直な喩えだけれども、「手紙」と「Eメール」との差異のような気がする。現代を生きる作家であっても、そのほとんどが前時代的な「手紙」的な重量と密度を持って、テクストは綴られるのに対して、舞城の文体には「Eメール」の軽さがまとわりついている。その「軽さ」が極めて現代的なんじゃないかと思うのだ。
それはたとえば、女子高生の間で大流行して、とうとう出版までされてしまった「携帯ノベル」の文体などとは全く異なる。「携帯ノベル」は、単に携帯で読みやすいように書かれているだけであり、その文体はやはり「手紙」の持つ価値や希少性みたいなものを意識している。
ところが舞城の文体には「希少性」が欠けている。文章というものが必然的に持ってしまう「質量」を極力そぎ落とそうというような意識が見える。

「(^^)」や「(^^;」といった顔文字を使うことで、硬くなる意見や主張を和らげたり、恐縮したりしていることを表現するというのは「Eメール」に限らず、チャットや掲示板などでもインターネットにおけるエクリチュールでは頻繁に利用されるだろう。インターネットの世界においては、意味的な厳密さや強度をいかに上げるかということよりも、顔文字のような記号でごまかすことでスピードを上げることのほうが重視されている。

小説技法において、このスピード感は、一種の「逃げ」であり、筆力のなさの裏返しとして捉えられるような風潮があるが、舞城はあえてそこに挑んでいる。なぜなら、そのスピード感こそがリアルだからだ。無為に言葉を積み重ねるよりも、「ララー」「ガツッ」「うふふ」というような感嘆表現や、感嘆符による「驚き」「発見」の表現のほうが、大袈裟な比喩を持ち込むよりもずっとずっとリアルに主人公たちの心の動きが見えるからだ。もちろんこの手の技法はたんなる「技法」としてすぐに朽ちてしまう可能性があるわけだけれども、今、現在においては、小説の「薄っぺらさ」、主人公の思考の「薄っぺらさ」を十分に表現することに成功しているのではないかと思う。(そもそも「内面」みたいなものが重視されること自体が、小説的な形而上学主義ではないか...?)

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2004/01/03 16:04

2004年01月02日

下がり続ける時代の不動産の鉄則

下がり続ける時代の不動産の鉄則

下がり続ける時代の不動産の鉄則

べつに家を買おうなんてこれっぽっちも思っていないのだけど、仕事で、クライアントから「共通言語」をつくりたいので読んでおいて下さいと、この本を含む3冊の本が指定された。ということでまずはこいつ。

書かれてある内容はおそろしく当たり前のことばかりのような気もするのだけど、マスメディアを賑わす言葉は確かに世の常識とは少しずれてるような気がする。
「ピークに比べれば、かなり値下がりした。今が下げのピークだろう」「一部の地域では値が上がりはじめている。不動産は今が買いどき」
そんな言葉がまことしやかに囁かれる。

このような噂をを著者は一掃する。
著者は、不動産の価格下落の真因は、

日本の地価が90年以降、下落を続けているのは、不況による影響は多少あるが、より根本的な要因は「不動産を取り巻く環境が構造的に変化してしまった」こと

と説明する。

そのロジックは明快だ。

  • 小子化、高齢化の加速。日本人口は2006年頃をピークとして減少に転じていくといわれている。50年後には日本の人口は1億人の大台を割り込む可能性がある。
  • 既に日本では、住宅数が総世帯数を上回って空家数が600万戸近くになり、空家率は11.5%。9戸に1戸は利用されていない状況となっており、「家」あまりが顕在化している。
  • 経済のグローバル化や、日本における企業活動のコストの高さを要因として、より低いコストで生産できる地域で企業活動を行う企業が増加。企業が日本に保有する土地を売却したり、賃貸に切り替えるケースが増加。

こういったマクロ的要因を考えれば、不動産が値上がりしていくことはおかしい。すでに日本では「不動産」は余っている状況であり、今後の不動産価格は完全に二極化していくと結論づける。
当たり前といえば当たり前だ。しかし当たり前のことが当たり前にならないのが不動産業界の不思議だ。確かに、家を購入するにあたって、このようなマクロ的視点からきちんとリスクを分析して判断している人は少ないような気がする。

貴重な場所の選定は、「面」ではなく「ポイント」で峻別される時代だ。 その結果、利用目的にピッタリと合致しない不動産は、容赦なく選別され、振り落とされて、価格は驚くほどの低い価格となる。需要の二極化が起きて、それに歩を合わせるように価格の二極化が進むという市場構図になっている。

都道府県別に人口の転入や転出の状況を見ても、

首都圏と愛知県、滋賀県、福岡県、沖縄県などが増加傾向にあるが、その他の府県ではマイナスか、増えていない状況

というデータからビジネスの東京への一極集中化の加速が進むが、その他の地域は今後も地価価格は下落し続けるだろうと説明する。
(著者は1989年に「関西圏から不動産価格が大幅に下落する」を発表し、その予測の正しさを実証したらしいが、その分析も、このような人口動態の分析から導き出されている)

著者は、バブル崩壊後、1994年頃から新築分譲マンションや新築の建売住宅が飛ぶように売れていってる状況を、「住宅バブル」と名づける。
それは住宅取得への金融緩和などにより、無理矢理つくりだされたものだと言う。新築住宅の購入者には全額ないしはそれに近い融資が行われ、「頭金ナシ」でも購入が可能なり、30歳前後の若いシングル、DINKS(子供のいない共働き夫婦)の需要が伸びたからだ。

しかし、不動産保有には維持管理コスト、固定資産税、都市計画税など予想以上のコストがかかる。デフレ時代に借金をして家を購入するということは、いくら低金利とは故、極めて危険な行為だと警告する。構造的なデフレ状況では、給料が上がり続けるとは限らないし、会社も安泰とは限らない。また、いざ不動産を処分しようと思っても、上記のような「家余り」「完全二極化」の状況では、よほど立地の良いところでもない限り、ただ同然でも売り手がつかなくなる可能性がある。

「住宅バブル」の崩壊は、今後、不動産購入者の自己破産の増加などでより著しく顕在化してくるだろうと、著者は予測する。

このような状況の中、不動産所有に対しては以下のような考えを持って対処すべきだ。

これから先の不動産所有の基本的な考え方においては「量より質」を重視する方向転換を図る必要がある。すなわち、質の高い物件を「数少なく」所有する方が効率が良い
住居として、あるいは企業活動に土地が必要になったときは、とりあえず利用する必要最低限度で取得したい。必要以上に購入すれば、そのぶんだけ資産ロスが大きくなってしまう。もちろん、希少性が極めて高い特殊な不動産は別であるが、通常のものであれば、必要以上に買い急ぐことはない。

うちの会社でも最近、マンションや家を購入する人がちらりほらり出てきている。彼らは資産というよりは「住まい」としての利用目的をしっかり考えて、購入している。しかし、家購入者を横目で見ながら、いざとなったら「貸せばいいや」「売ればいいや」的な発想で購入を検討している人もいる。

しかし、著者が言うように、「必要以上に買い急ぐことはない」だろう。
なぜなら、不動産価格は今後も下がり続けるからだ。
少なくとも、本書を読んでから購入を検討しても良いのではないだろうか?

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2004/01/02 22:16

村上春樹と庄司薫の一致

明けましておめでとうございます。(と、とりあえず誰にかわからないけど新年の挨拶をして....)

実家に帰ったので、東浩紀の『存在論的、郵便的 ジャック・デリダについて』を持って帰ろうと思い、探していたのだけど見つからない。いったいどこにいったのか? 『動物かするポストモダン』はようやく読んだので、改めて原点を読んでみようと思ったのだけれど。東京の部屋にあるのかな? (『動物化するポストモダン』も面白かったんで、読んで忘れないうちにまとめとこうと思うが、それはまた後で)

本を探していて、昔読んで面白かった記憶があったものの、それ以来まったく再読していなかったある評論が無性に読みたくなった。

それは、1996年の「群像」6月号に掲載された「由美ちゃんとユミヨシさん」という評論(川田宇一郎)で、第39回群像新人文学賞の評論優秀作だ。

もちろん僕はこの著者名も評論のタイトルもすっかり忘れてて、ただ、村上春樹がいかに庄司薫の影響を受けてるかということをまるでノストラダムスの暗号を解読するかのように書いているのが面白かったなぁという記憶しかなかった。

1992年あたりからの「群像」はほぼすべて実家に置いてあったので(好きな作家の連載ものと、評論、座談会、新人賞受賞作ぐらいしか読んでないんだけど)、すぐにその号は見つかった。

由美ちゃんとは、庄司薫が1969年~1977年にかけて発表した、いわゆる「赤黒白青四部作」の主人公「薫くん」の恋人?である。(薫くんは結局、この四部作を通じて、由美ちゃんとは性交渉を持たない。ずーっとボディガード役に徹するわけだけど)そして、ユミヨシさんとは、村上春樹の『ダンスダンスダンス』に登場するユミヨシさんのことだ。

川田氏は、村上春樹が庄司薫を継ぐ遺志を持って、『風の歌を聴け』からの四部作(『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』『ダンスダンスダンス』)を書いたと推理する。村上春樹のテクストには、庄司薫を匂わせる要素が満載だと。

その推理の根拠探しは奇妙の数値の一致から始まる。
この部分が面白い。

『風の歌を聴け』には「デレク・ハートフィールド」という作家が登場する。主人公の「僕」が「文章についての多く」を学んだ作家だ。

小説の最後でも「ハートフィールド、再び・・・・・(あとがきにかえて)」に、

もしデレク・ハートフィールドという作家に出会わなければ小説なんて書かなかったろう、とまで言うつもりはない。けれど僕の進んだ道が今とはすっかり違ったものになっていたことも確かだと思う。

などと書き、

最後になってしまったが、ハートフィールドの記事に関しては前述したマックリュア氏の労作、「不妊の星々の伝説」(Thomas McClure; Legend of the Sterile Stars: 1968)から幾つか引用させていただいた。感謝する。

1979年5月 村上春樹

で締めくくられている。

ハートフィールドはご存知の通り、架空の人物だ。なので実は「風の歌を聴け」という小説は、一種のメタ小説でもある。小説の最後に「作者」が登場し、ハートフィールドをあたかも実在の人物かのように扱っている。

ハートフィールドという作家については、『風の歌を聴け』のなかで以下のような情報が与えられている。

  • ハートフィールドは1909年にオハイオ州の小さな町に生まれ、そこに育った。
  • 彼の五作目の短編が「ウェアード・テールズ」に売れたの1930年で、稿料は20ドルであった。
  • しかし1938年(1938年6月)に母が死んだ時、彼はニューヨークまででかけてエンパイア・ステート・ビルに上り、屋上から飛び下りて蛙のようにペシャンコになって死んだ。
  • ハートフィールドは21歳で商業的に小説を書き始め、その8年後に自殺する。

さて、「ハートフィールドに影響を受けた」この小説の主人公である「僕」は、1975年5月に「小説」を書いている。小説の舞台1970年8月。その時、「僕」は21歳(誕生日は12月24日)だ。そこから、「僕」は1948年の生まれであることがわかる。
つまり、「僕」は、21歳のときのことを、その8年後に書き始めている。

さらに、ハートフィールドの自殺から「僕」の出生までのインターバルは約10年6ヶ月となる。(1938年6月ハートフィールド没~1948年12月24日「僕」誕生)

また、チャプター1では、僕が「8年間」何も書けずにいたということと、ハートフィールドが、「8年と2ヶ月」小説家として「不毛な闘いを続けそして死んだ」という記述がある。


ここで登場する数値「21歳」「8年2ヶ月」「10年6ヶ月」は、庄司薫の作家活動の年表上の数値と奇妙な一致を見るのだ。

庄司薫の『赤頭巾ちゃんに気をつけて』は1969年5月に中央公論に発表され、その四部作の最後『ぼくの大好きな青髭』は1977年7月に中央公論から刊行されている。その間はずばり「8年と2ヶ月」であり、ハートフィールドが「不毛な闘いを続け」た期間とぴったり一致する。

実質、庄司薫は、この四部作を発表した後、二度目の「沈黙」に入り、小説家としての活動をやめてしまっている。つまり、ハートフィールド8年2ヶ月の活動後に「死んだ」ということと、庄司薫の断筆はアナロジーなのだ。

また、庄司薫自身1958年11月に「喪失」で中央公論新人賞を受賞、作家としてデビューする。1937年4月19日生まれの彼の年齢は21歳。さらにこのデビュー後、『赤頭巾ちゃんに気をつけて』を発表する1969年5月まで、庄司薫は「退却・総退却」と自らが名づける沈黙の時期に入る。
このインターバルもこれまたずばり「10年6ヶ月」だ。つまり、ハートフィールドが死んで、「僕」が生まれるまでのインターバルと一致する。

ものすごいこじつけのような気もするし、村上春樹ぐらいだから、かなり意図的に罠を張り巡らせるかのように、こういったトリックを仕込んだとも考えられる。(村上春樹研究本では、この手の「ノストラダムス的解読」ものが結構多いですよね)
村上春樹自身が何かしら発言することはないと思うので、真相は闇の中ではあるけれども、川田氏の発見したこの数値の一致はひじょーに興味深い。

ただし、
『風の歌を聴け』には、川田氏が指摘する以外にハートフィールドについての記述はいろいろあって、その部分と庄司薫、「薫」くんとの関係などは、一切無視されているわけで、多少乱暴ではあるなぁとも思った。偶然に数値が一致することだってあるかもしれない。

この数値の一致だけではなく、いかに村上春樹のテクストが庄司薫を意識しているか(模倣しているか)ということを、登場人物の関係の一致や、ディティールの一致などで説明はしていくのだけれど、どうも都合のよいところだけをピックアップしてきて相似を見ているだけのような気がしないでもない。
まぁでも、個人的にはこの手の「謎解き」は嫌いではないので、今までまったくといっていいほど僕のなかで関係してこなかった二人の作家が、つながったということだけでも収穫だったと思う。

他、いくつか指摘されている二人の小説の一致をあげておこう。

キズキ君は「赤いN360」で自殺する。 「薫くん」は女の子とのデートの時に「真っ赤なホンダN360」でドライブする。

「キズキ」は『ノルウェーの森』に出てくる「直子」の元彼氏だ。
ちなみに『ノルウェーの森』の「僕(ワタナベトオル)」は、直子と性交渉する段になり、直子が処女であることを知る。つまり「キズキ」と「直子」は性交渉を持っていなかったわけで、「キズキ─直子」の関係と、四部作を通じて性交渉を持たない「薫くん─由美ちゃん」の関係は相似している。

キキ殺しの犯人、五反田君はマセラティを所有する。現実の庄司薫の「ぼくの車は確かマセラーティのエンジンをつんでいてその気になれば相当猛烈にはしるが」(『僕が猫語を話せるわけ』)


「薫くん」の靴はラバーソールである。ビートルズのアルバム「ラバー・ソウル」が『1973年のピンボール』にでてくるし、「ノルウェーの森」が収録されている。ワタナベトオルが緑の家に初めて訪れた時に近所で火事がおこる。庄司薫が中村紘子のマンションを初めて訪れた時も階下で火事がおこる(『ぼくが猫語を話せるわけ』解説)。
ワタナベトオルは日曜は基本的に休む。「薫くん」にとっても「安息日」である。『羊をめぐる冒険』の星形の斑紋の羊と『僕の大好きな青髭』のリンゴ印と星印の女の子。「飼っていた犬は僕が中学校に上がった年に雨に打たれて肺炎で死んだ。それ以来は犬は一匹も飼っていない」(『ダンスダンスダンス』)は、そのまま「薫くん」の飼っているドンという犬である(『赤頭巾ちゃんに気をつけて』)。「僕」の<やれやれ>と「薫くん」の<マイッタマイッタ>。

いくらなんでも「ラバーソウル」はこじつけだろう...なんて思いつつも、よく見つけてきたなぁと関心してしまう。

(ところで、『1973年のピンボール』は、大江健三郎の『万延元年のフットボール』のタイトルのパロディなんでしょうか?)

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2004/01/02 03:25

2003年12月29日

郵便的不安たち#

郵便的不安たち#

郵便的不安たち#

存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて」が徹底的な知的緊張感を保つ言説によって構成された、ある意味純粋なテクストであるとするなら(「コンスタティヴ」>「パフォーマティヴ」)、本書しかり、「網状言論F改―ポストモダン・オタク・セクシュアリティ」に納められたような講演やワークショップ、はたまた、「はてなダイアリー」や「hirokiazuma.com」といったウェブサイトを中心とするインターネットメディアでの活動は、いかにして断片化してしまった小さな共同体間を超越するかというメディア戦略(「コンスタティヴ」<「パフォーマティヴ」)を前提としたテクストと捉えることができるのではないかと思う。

「パフォーマティブ」な効果を狙うためには、カテゴリー横断的な思考が必要だろうし、テクストの意味的濃度・密度を意図的に下げるということも必要だろう。
ということで、本書ではアニメから文芸批評、状況論と、極めて幅広い領域、分野を扱いつつも、そこには一貫して、80年代、90年代以降の、東さんの言葉を借りれば「ますます徹底化しているポストモダン」という社会・文化状況を前提とした分析、批評がなされている。

この試みはおそらく成功していると思う。僕のような素人でも本書を読むとポストモダンの閉塞感を理解し、そこで生きるための「作法」(宮台真司さんが言うような意味での「作法」ではなく)を断片をつかむことができるからだ。(できるように思えてしまう...)
東さんが言う「上向きではない横向きの超越論性について考え、またそれを実践すること」というのは、極めて抽象的ではあるけれども、「1枚のコインの裏表」である本書と「存在論的、郵便的」を読むことで、これらのテクストが確実に自分の中の言語(象徴界的機能としての言語)を揺るがされているような気がする。

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2003/12/29 00:25