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2006年01月07日

小倉昌男「経営学」

小倉昌男 経営学
4822241564小倉 昌男

日経BP社 1999-10
売り上げランキング : 1,267

おすすめ平均star
star経営の真実と戦略の本質を学べる一冊
starわかりやすくてよい。
starミスター ロジカル

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今まで読んでなかったことをかなり後悔した。ヤマト運輸の2代目社長小倉昌男が、どのようにして「宅急便」というサービスをつくりあげたかを語った本ではあるのだが、しかし、内容は単なる「成功譚」ではない。ここに詰まってるのは「企業戦略」のすべてだ。「戦略」を学びたければ、ポーターやコトラーを読む前に本書を読むべきかもしれない。マネージャークラスは必読書だろう。

そもそもヤマト運輸が「宅急便」を開始するまでは、一般家庭、個人をターゲットとした宅配事業は、絶対に赤字になると誰もが思っていたわけだ。個人相手の宅配は需要は偶発的でつかみずらいし、また集配してみるまでどこへ届けるかかわらない。郵便小包より料金は高くとれないとなると、どう贔屓目に見ても赤字にしかならない。誰もがそう考える。しかし、小倉さんは、個人向け宅配市場のデメリットだけでなく、一般家庭は値切らないことや、現金で払ってくれること、百貨店などの配送業務では繁忙期と閑散期の差が激しいが、個人宅配は一度サービスが成り立ち、そのネットワークを小荷物が流れ始めれば、時期による大きな波もなく、安定した収益を確保できるといったメリットをも勘案し、個人向け宅配事業への進出を決断する。「JALパック」をヒントに、無形サービスの「商品化」(=規格化、マニュアル化)を行い、個人というターゲットのニーズや特性を多方面から検証し、取次店制度や地帯別均一料金といった新機軸を次々を打ち出す。同時に、圧倒的な優位性や差別化を築くために、「翌日配送」を掲げ、それを実現するためのオペレーションを整えていく。

小倉さん自身は本書のなかで経営には「戦略的思考」が必要であると語る。
ある時は「シェア第一」「売上第一」と語り、決算が近づくと「利益第一」、その時々で「環境第一」や「安全第一」というようなころころと「第一」を変えては、スローガンを掲げているような経営者は戦術思考しかできていないと言い切る。

「第一を強調するには、第二を設定すれば良い」

単純だけど、これを徹底するのは極めて難しい。しかし、小倉さんは「宅急便」の事業をスタートさせる際は「サービスが先、利益は後」というスローガンを掲げ、それを徹底する。ヤマト運輸では宅急便事業が開始するまでは、毎月支店長を集め、各支店ごとの月次収支を基に実績検討会議というものが開かれていた。しかし宅急便事業を開始する際、会議の冒頭で小倉さんはこう宣言する。「これからは収支は議題としたないで、サービスレベルだけを問題にする」。

小倉さんはこんな事例で語ってる。「たとえば過疎地に集配のための営業所を作るとする。当然、家賃などの固定費をベースから荷物を移送する(横持ちする)ための車両経費が増える。人件費は所長一名分が増える。ドライバーの分は、集配の能率が上がる分だけ安くなるかもしれないが一応変わらないとしよう。総体的に経費は増える。一方で、過疎地の翌日配達が確実になるなど、サービスは飛躍的に向上する。」
さて、このような場合、どのような思考で判断するか?

普通ならば、プラス要素とマイナス要素を比較検討して差引きプラスならば営業所の新規設置の決断を下す、というような答えになるのではないだろうか。

しかし、小倉さんはこの考え方ははたして正解だろうかと疑問を投げかけるのだ。

「宅急便を始めた以上、荷物の密度がある線以上になれば黒字になり、ある線以下ならば赤字になる。したがって荷物の密度をできるだけ早く“濃く”するのは至上命令である。そのためにはサービスを向上して差別化を図らなければならない。コストが上がるから止める、というのはこの場合、考え方としておかしい。サービスとコストはトレードオフだが、両方の条件を比較検討して選択するという問題ではない。どちらを優先するかの判断の問題なのである。」

この例は、すべての業態においてあてはまるわけでは当然ない。重要なのは、個人向け宅配サービスという業態においては、荷物の密度、つまり配送ネットワーク内に流れる荷物量を最大化させることを何よりも優先させなければならず、そのためにはサービスを向上させる、ということをまず第一に据えなければならない。その背景と優先順位にのっとって、決断を下す、という、その一連の思考プロセスの一貫性なのだ。

業態が違えば「第一」とするもの「第二」とするものは変わるだろう。しかし、一番やってはならないことは、「第一」がころころと変わるような「戦術的レベル」の思考、決断だ。
「毎年、期の始めになると、売上高の目標は対前年10%と示され、絶対に目標を達成せよと厳命が下される。半期が終わり、売り上げはそこそこ目標に近づいたが、営業利益が目標より低いと、売り上げは多少足りなくなってもいいから、利益率の低い仕事はやめ、利益の目標は達成せよと指令が下りる。安全月間になるともちろん“安全第一”の号令が下る。製品クレームが来ると、品質第一で頑張れと命令が下る。(略) だが、“第二”がなく、“第一”ばかりあるということは、本当の第一がない、ということを表していないだろうか」

うーむ。経営に携わるものとしてはかなり身につまされる思いだ。
形こそ違えど、ボクがやってることなど、まさにここでダメな例としてあげられる社長像そのままではないか... このような戦術的思考に陥ってしまうというのは、そもそも「戦略」がないからだろう。いや、あると思っている「戦略」が「戦略」ではないということだろう。要は戦略レベルまで自社の「業態」がどういうものなのか、それにふさわしいハードウェア、ソフトウェア、ヒューマンウェアが何なのかとことを考えきれていないということなのだろう。

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2006/01/07 19:50

2006年01月06日

岩井克人「会社はこれからどうなるのか」

会社はこれからどうなるのか
4582829775岩井 克人

平凡社 2003-02
売り上げランキング : 4,681

おすすめ平均 star
star優れたミクロ分析
star「ほぼ日刊イトイ新聞」で知った
star非常にわかりやすい

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岩井克人さんが描き出す「証明」の美しさに驚いた。経営者やマネジメントに興味ある人は必読の一冊だろう。

会社とはそもそも何なのかという根本的な問いを、「ヒトとモノ」の関係から実に見事に解き明かすや、そこから株主主権型アメリカ的の会社システムの矛盾点や問題点を明らかにする。同時に終身雇用制度や、株式の持ち合いによる緩やかな連携、系列を重視するような日本型の企業システムが決して会社という本質から脱線しているものではないということを鮮やかに証明してみせる。まるで数学の証明問題を解くかのようにロジカルに展開されるので、反論がつけいる隙もないままに、納得させられてしまう。その証明過程はおそろしくスリリングで、刺激的だ。そして、岩井さんが単に曖昧な概念にはっきりとした輪郭を与えたり、「法人名目説」と「法人実在説」の狭間で繰り広げられる「法人論争」に決着をつけたりするといった、「現状の把握」に留まらず、そこから今後のポスト産業資本主義時代における企業のあり方や、理想の企業システム、会社形態といったものへの一通りの回答までをも用意する。

会社にとって重要なことは変わらない。それは「差異」を生み出すことだ。そしてポスト産業資本主義時代においては、「差異」を生み出すために最も重要な資産は人だ。「会社にとって中核となるコア・コンピタンスとは、個別の技術や製品ではなく、まさに差異性のある技術や製品を次々と生み出していくことのできる組織に固有の人的資産である」(P.263) ポスト産業主義において企業は「人的資産」に目を向け、それを守り、育て、育んでいかなければならないというわけだ。
組織デザインとしては、「中央集権的な階層組織ではなく、自由で独立した環境」や「指揮系統を水平化」や「外部の人間との知的交流を促す」ことや、「オフィスを居心地の良いものする」といった、ソフトインセンティブはもとより、ハードインセンティブ、つまり報酬面での制度も重要な役割を担う。この報酬制度として、ポスト産業資本主義的な企業に有効なのが「会社利益の一定割合を積み立てていく会社別年金制度や退職金制度、長期的なキャリアパスを明確に設計した昇進制度、さらには長期雇用者への暖簾分け制度」といった「地道なインセンティブ」ではないかと岩井さんは考える。人をやる気にさせ、長期的に企業に留まらせるためのシステムだ。そしてこのシステムは、実は戦後日本企業が採用してきたマネジメント手法に多くのヒントがある。

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2006/01/06 01:25

2006年01月04日

伊坂幸太郎「ラッシュライフ」

ラッシュライフ
4101250227伊坂 幸太郎

新潮社 2005-04
売り上げランキング : 4,534

おすすめ平均star
starエッシャー的小説
star無限ループからの脱出
star傑作

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正月もそろそろ終わりで、積み残してたり先延ばしにしてたことをやり始めるのだけれど、なかなか手につかず、ふらりと本屋に行って買ってきた本書を一気に読んだ。
巻頭のエッシャーのだまし絵と、5つの物語が並行して進んでいく構成から、ピンとくる人にはすぐにピンとくる仕掛けだ。謎解きを愉しむというよりは、どうこの物語を収斂させるのか、どこに「騙し絵」を入れているのか、そんなことを期待しながら読み進めよう。

物語の始まりでは、5つの物語が野良犬、エッシャー展、駅前に立ち道行く人たちに好きな言葉を書いてもらうガイジンなどを介在して、5つの物語が並行して静かに語られる。そしてそれら物語は登場人物達が口にする「リレー」という言葉に集約されるかのように、あるいはエッシャーの騙し絵を見るかのように、あるところで交錯し、循環を描く。こういう仕掛けだろうなということはわかりつつ読んでいながらも、怒濤のように繋がりを生み出し収束していく物語は、一度読み始めると、最後まで読み進めたくなる強力な引力を持っている。終盤に物語全体の「謎」を一気に明るみに出していくところは、キャラクタに大部分を語らせてすませてしまうなどかなり強引とも思える構成だし、ニヒルな登場人物達の「気の利いた」台詞はいかにも作り物めいてはいるのだけど、物語そのものの作り込みは良くできていて、充分に愉しめる小説に仕上がっていると思う。

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2006/01/04 13:23

2006年01月03日

首藤 瓜於「脳男」

脳男
脳男首藤 瓜於

講談社 2003-09
売り上げランキング : 221,168

おすすめ平均 star
star惹かれるものがあり購入したが
starなかなか
starさて、

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同居人が古本屋で仕入れてきた本。なかなか面白いよ、と薦められたので読んでみた。ボクは江戸川乱歩賞をあまり信じていなくて(かなり読んでいるが、どれもたいして面白くないし、仕掛けや構成の大胆さやみたいなところは面白くても、文章があまりにも稚拙な作品が多くという気がする)、あまり期待はしていなかった。が、期待していなかったこともあったのか、実際はかなり愉しめた。

連続爆弾犯として逮捕された鈴木一郎。男の精神鑑定を重ねるなか精神科医の鷲谷真梨子は、鈴木一郎には「感情」がないことを発見する。
ストーリーの展開に沿って、鈴木一郎の過去が明らかになるとともに、彼の人間離れした恐ろしい能力が次々と発揮されていく。一読するとそんな馬鹿なと思ってしまいそうだが、サヴァン症候群の例などを調べていると、あながち夢見物語りではないのではないのかもしれない。(鈴木一郎のキャラクタ設定は、サヴァン症候群の症例からつくられているだろう) ただ、あまりにもフィクションとしての突拍子もなさを科学的見地から打ち消そうという趣向が鼻につきすぎるきらいはあるのは否めないが。

本書には脳医学や精神科学的なタームや考え方があちこちに散らばっている。これらの考え方が最近の研究からまともな考え方なのかどうかというのは、素人の私にはまったくわからないのだけど、「感情」というものが自我を綜合する役割を持つという考え方を、ミステリーを成立させる装置として利用するというのは面白いなと思った。

「感情がない」とはどういうことか。
真梨子はこんな風に考える。

「たとえば、鈴木一郎は、異性を愛したことなど一度もないに違いなかった。好きな人が傍にきただけで胸がときめくということも、手に手を重ねられただけで胸のつかえがおり疲れが吹き飛ぶような経験をしたこともないだろう。人間はたえず感情の吐露をしあい、感情を共有しようとする。人生の大部分はそのことだけについやされるといってもいいくらいだ。それができないとしたら、気分転換もできなければ疲れを癒すこともできず、一瞬たりとも自我から解放されることがない。それは等身大の檻に一生閉じこめられているようなものだ。
しかしそれだけではない。感情がなければ、なにかを美しいと感じたり、神秘的な感情を抱いたりすることもできない。美しさや神秘感は、抽象的な思考ではなく肉感的な感情であるからだ。人間は世界を概念としてとらえている訳ではない。世界は美しいもの、神秘的なもの、荘厳なもの、あるいは卑俗なもの、喜劇的なものに対する感覚で充満している。だからこそ人間は世界に触れることができ、世界のなかに同胞たちと存在していると実感することができるのだ。抽象的な概念や数式では、世界を説明することはできても、世界を実感することはできない。」

また、同じように、
「大半の人間が、おれがおれでありつづけているのは感情などという低級なもののせいではなく、難解な思想や気高い信念をもつからこそだと思いたがるけど、思想も信念もただの言葉よ。言葉というのは他人のもので、わたしたちはそれを勝手気儘に剽窃してきてそれを組み立てたり壊したりしているにすぎない。いくらでも更新できるし、消去することもできるわ。その証拠に、思想や信念を変更しても自己はもとの自己でありつづける。それに反して感情は、気分や気持ちといったものだけど、途切れることがない。」とも語る。

そもそも自我がなぜ必要なのか、自我がどのようにして生まれるのかということについては、本書内でも真梨子は「よくわからない」という立場をとっている。が、生み出された自我を自我として成立させつづけるのは、他人からの借り物の言語(思想、信念)ではなく、「感情」なのではないかという発見。そしてその考え方がこの小説を貫く一つのテーマとなり、また「鈴木一郎」が「鈴木一郎」としての役割を演じることの大きな理由となっている。

ボクは「感情」の大部分も他人からの借り物なのではないかという気がしていて、ここで真梨子が語るような「神秘的な感情」や「美しさや神秘感」みたいなものは、むしろ後天的に学ばれるのではないかと考えている。つまりこれらの感情もある意味「言葉」によって成立してるのではなにかと。が、そういう言い方も安易なのだがプリミティブな感情みたいなものは確かにあって(動物には自我はないけど、感情はある)、それが自我をつなぎ止める何かしらの役割を担っているのではないかとも思う。

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2006/01/03 15:12

小川洋子「博士の愛した数式」

博士の愛した数式博士の愛した数式
小川 洋子


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今ごろになってこの小説を読んだのは、文庫本になっていたこともあるが、映画化が決定してしかもその主演が深津絵里だというのが大きい。深津絵里のファンである私は、深津絵里がどんな役所を演じるのかという興味からだけで本書を手にした。

小川洋子さんの名前はもちろん知っていて、ミーハーは私は芥川賞を受賞した「妊娠カレンダー」 も読んではいるのだけど、どうしてもそれ以降の作品を手にする気にはなれなかった。それはあまりにも彼女の作品が優等生すぎる感じがしたからだ。当時ボクはどちらかというと既存の文学を超える、あるいはポストモダンと呼ばれるような自分で自分の首を絞めるような文学に興味が先行していて、「伝統的な」文学のレールの上に乗っかかってるように思われる作品はどうしても魅力を感じなかったのだ。そういう文学は三島由紀夫までで充分だと思っていた。まったく若気の至りとしか言いようがない。
本書を読んで、正統な(という言い方も容易に文学の形而上学的な妄想を引き寄せるけど)文学の面白さというか、緻密に計算されて、綿密に練り込まれた小宇宙の素晴らしさを改めて味わうことができた。

随分と話題になった小説なので、粗筋などはたいていの人が知っているかとは思うので紹介はしない。この小説の魅力は粗筋などではないからだ。この小説の最大のの魅力は、その設定の巧さと数学という素材を介して登場人物達の交流や友情の芽生えを極めて自然に作り出すことに成功していることだ。

80分しか記憶が持たない元数学者である博士と、その家政婦として雇われることになったシングルマザー。そして、博士に「どんな数字でも嫌がらず自分の中にかくまってやる偉大な記号だ」と「ルート」という愛称を授けられる阪神タイガースを愛してやまない家政婦の息子。自然主義的な小説としてはいささか設定が劇画すぎてるきらいもあるのだが、小川洋子さんの淡々とした静かな文章がその過剰さをうまく包み込み、物語そのものは静謐な印象を漂わせる。この設定に博士を中心として「数学」が物語に重層感をもたらしていて、単に「数学」を小説を盛り上げるための意匠としてでなく、実に自然に溶け込んでいる。

例えば、家政婦の誕生日が2月20日だと知り、自身が大学時代にとった学長賞の賞品についた歴代No.284との関係を語るシーン。「~220の約数の和は284。284の約数の和は220。友愛数だ。滅多に存在しない組合せだよ。フェルマーだってデカルトだって一組づつしか見つけられなかった。神の計らいを受けた絆で結ばれ合った筋なんだ。美しいと思わないかい? 君の誕生日と、僕の手首に刻まれた数字が、これほど見事なチェーンでつながり合ってるなんて」家政婦はこの博士の言葉を反芻する。小説内には「愛情」や「友情」やといった言葉は一切出てこないが、こういった言葉では表現してしまうや否や陳腐に響く独特の気持ちの揺らぎみたいなものを「数学」を介在して実に巧く表現している。

小説内には3つの時間が交錯する。80分という限られた記憶しか保持できない博士を中心とした時間と、家政婦や息子が暮らす時間。そして1975年での博士の記憶。小説内の時間の流れはルートが好きな1992年の阪神タイガースの戦いを通じて描かれる。1975年で記憶が止まってしまった博士にとっての阪神タイガースは、江夏がいる阪神タイガースであり、家政婦とルートはその事実を悟られないよう細心の注意を払いながら博士と共に80分の交流をはぐくむ。そして博士の好きな江夏豊の背番号は28。自分以外の約数を全部足すとその数字となる完全数「28」を背負った大投手江夏豊。この演出、仕掛けの巧さに思わず舌を巻く。

「数学」を素材として主人公や登場人物たちの交流や感情を表現するとなれば、どうしても素材の料理の仕方に実験的な性格が付与してしまうところ、小川洋子さんはそれを実に自然に納めるべき場所に納め、そういう手法や仕掛けが、仕掛けとして目立ちすぎないよう充分に配慮して筆を進めている。とても素人には真似のできない(こんなものを真似したら大火傷しそうだ)技だ。

正直、映画化はかなり難しいんじゃないかと思う。「数学」によって語られる微妙な感情の揺らぎみたいなものは映像になってしまうと、あまりにもダイレクトすぎるんじゃないかという気もする。まぁボクとしては深津絵里がどんな風に家政婦を演じるのかだけが興味の対象なので、映画自体の出来はどうでも良いことなのだが...

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2006/01/03 13:26