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2006年01月02日

ほぼ日手帳を買った理由

ここ最近はえらい手帳ブームのようだ。本屋のビジネス書コーナーに立ち寄るたびに、手帳の活用本が増えている気がする。手帳ブームの火付け役がGMOの熊谷さんなのか、誰なのかはよくわからない。ボク自身がフランクリンプランナーを使い出したのは2004年の5月からで、このきっかけは熊谷さんの本を読んだことや、同時期にボクがよく読んでいるブログのオーナーの方たちが自身の手帳活用について語ってたりしたことが重なって、随分前に読んだもののピンとこなかった「7つの習慣」を再読したことだった。以後、手帳は活用しつづけ、ずぼらなボクにしてはえらくきちんとファイリングしたり、索引をつけたりして2004年、2005年を終えた。
今年もフランクリンプランナーは使い続けるとは思うが、実は年末にもう1つ手帳を購入した。それが「ほぼ日刊イトイ新聞」から生まれた「ほぼ日手帳」だ。

ほぼ日手帳の秘密―10万人が使って、10万人がつくる手帳。
ほぼ日手帳の秘密―10万人が使って、10万人がつくる手帳。山田 浩子 ほぼ日刊イトイ新聞

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ロフトで皮仕様のものを購入した。なぜフランクリンがあるのにわざわざもう1冊手帳なんだと問われればよくわからないのだが、なぜかフランクリンには「日記」を書く気になれないというのがその理由かもしれない。日記というより「ログ」と言ったほうが近いのだろうけど、ボクは自分の活動とか行動の履歴みたいなものを残しておきたいという欲求がかなり昔からあるようなのだ。(と他人事のように書くのは自分でもその欲求がよくわからないからだ)

大学時代は、ちくまの文庫手帳を愛用していた。文庫本と同じサイズと厚みで持ち運びに便利なことで、手帳というより日記帳として利用していた。その日読んだ本や観た映画、麻雀の成績や、行ったところなどを走り書きしたりする。もちろん簡単なスケジュール帳としても利用するので普段から持ち歩いてて、ちょっとしたことをメモする。そうすると、「ログ」だけじゃなくて、祇園会館やスペースベンゲットなどの映画館のスケジュールをぴあから切り抜いて貼り付けたり、サークルの人たちの電話連絡表を貼り付けたり、大学の講義出席表をつけたりと、だんだんそこに「自分」を中心とした情報が集まってくる。すると、ますます手放せなくなる。これはかなり自己陶酔的な行為かもしれないけど、それが嬉しかったりする。その手帳さえあれば、自分のログと直近の予定ややりたいことが最小限分かるということが嬉しいのだ。

ところがフランクリンではどうしてもそういう使い方ができない、というよりする気にならない。どうも仕事に偏ってしまうし、日々の細かい雑事やら、自分の小さな興味やら関心やらといったものを記録するには、あまりにも大げさすぎる気がしてしまうのだ。ビジネス上のTODOを日々、あるいは月次で管理していったり、中長期的な目標から日々の活動へブレイクダウンしていくという、かなり高尚な?利用方法では威力を発揮するのだろうけれども、日々の生活なんてものは、その殆どは何か目的や目標に向かって進むための布石みたいなものとしてあるのではなく、何の目的も目標もなく、ただそれが愉しいからという理由だけで無意味に時間をつぶすことも多いだろう。フランクリン的思想ではそういうのは「無駄」なのかもしれないけど、ボクはそういうものを無駄なものとして切り捨てるなんてことがどうしても出来ない。

そういう記録を付けたいということであれば、日記帳を買えば良いじゃないかと言われるかもしれないけれど、これは日記帳ではやはりダメなのだ。日記帳を持ち歩いている30歳台の男性ってちょっと気持ち悪いし、日記みたいに書くことがそのまま内面の吐露とかにつながって、そのまま書くことが自己目的化していくような世界ってのと「ログを残す」ってのはやはり少しというかかなり違う。

で、同じようなことを本書のなかで糸井重里さんが語っている。

その日の予定や約束が書いてあって、個人の内面まで自由に書いてあったら、それはもう日記じゃないか、とも言えますね。実際、日記として豊かに使っている人たちもたくさんいる。
でも、じゃあ、手帳じゃなくて日記帳でいいのかというと、これがそうじゃないんですね。これは、はじめからそう考えてつくったというよりも、この手帳がどう使われているかというのを見ていくうちに発見した、あとづけの発明みたいなものなんですけども。
なにかというと、ほぼ日手帳というのは、日記のように使えるけれども、体裁上はあくまでも手帳なんですね。体裁だけじゃなく、実際に使う人は持ち歩くわけだし、ビジネスの場所でも開いたりするわけです。
 そうするとどうなるかというと、個人の部分を書きながらも、内面に耽溺しなくなるんです。
 日記つて、内面の深いところを記さなくてはいけないと、みんな思い込んでいる節があるんですよ。ほら、日記文学じゃないですけど。でも、それを持って歩くと思ったとたんに、内面をさらしすぎなくてすむんです。
 つまり、「なにかのときに人が見るかもしれないぞ」っていう、ちょっとした注意深さが自然に生まれるんです。そういうふうに書かれた日記というのは長すぎるし、少し冷静に綴られるぶんだけ、あとから自分でたのしく読み返すことがえきるんです。(略)
手帳に書いた自分の内面というのは、深さとしてちょうどいいんです。

「手帳に書いた自分の内面というのは、深さとしてちょうどいいんです」というところに随分と共感した。糸井さん自身「あとづけの発明」とは言ってるけど、その「あとづけの発明」をより強力なものにするために、2006年度版のほぼ日手帳はさらに強化され、ウェブサイトを見ているだけでワクワクしてしまった。で、ロフトに行って皮カバー版の2006年手帳を買ってしまった、というのが顛末だ。

さて、手帳のブームってのはやっぱりブログブームに連動しているのではないかという気がしてきた。ブログに火がつく前にも、個人ホームページで日記を書く人は多くいた。しかし、それが大きなムーブメントにならなかったのに、ブログがあっという間にブレイクしたのは、MovableTypeやらココログやらといった便利なブログホスティングサービスが登場したからだけでななく、「日記」というものが「書く」というところにとても重きを置いてしまう表現形態を容易に呼び寄せてしまう言葉なのに対して、「ブログ」という言葉からは、単なる「ログ」としての気楽さや冷静さみたいなものを連想させ、それが新たなブログの書き手を生み出していったからではないかとか。

じゃぁ、なぜ「深さとしてちょうどいい」内面をさらしたいという欲求はどこから生まれるのだろうか。そんなことはボクは全くわからないし、あまり考えたくもないのだけど、社会分析的には、「広告都市・東京―その誕生と死」で北田さんが分析したように、ポスト80年代以降の「見られていないかもしれない不安」という文化的なコンテクストの影響も大きいのかもしれない。(文化的なコンテクストが先なのか、それともコンテクトが発見されて初めて、そこに「在る」ように思えてしまったのか。文化人類学でも記号学でもそうなんだろうけど、やっぱりこういう学問ってのは、それがそこにあったかのように「発見」されるわけだけど、どうもそこに作り物的な形而上学主義を感じずにいられないんだなぁ)

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2006/01/02 22:06

奥泉光「モーダルな事象」

あけましておめでとうございます。
先ほど同居人は突如、「新潟に行ってくる」と言い残し出ていきました。
「なんで新潟?」と訊くと、「やっぱり人間は旅をしないと駄目だ」とわけのわからないことを答えるのみ。青春18切符で新潟へ行くそうです。私は年末にボードに行ったり、私事でいろいろな用事があったりして、今日久々に家に帰ってきてメールをチェックしたりしてるというわけです。

モーダルな事象
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新年一発目に読んだのは、本書と小川洋子の「博士の愛した数式」でやした。

桑幸やフォギーなど、奥泉作品を読んできた人ならピンとくる名前が登場し、「鳥類学者のファンタジア」や「バナールな現象」といった作品群とのメタ交錯があったりと、ある意味で本書「外」での愉しみもちりばめながら、正当なミステリーとしても成立させる力量はさすがだなぁと思う。諸前作を読んでいたほうが面白いには違いないが、もちろん本書から手にとっても充分に愉しめる一作だ。
桑幸を中心とした物語は大学に巣くう人たちの俗物ぶりや馬鹿さを嗤い、北川アキと諸橋倫敦の『夫婦刑事』を中心とした物語は本格的な謎解き、ミステリーとしての装いを軸とする。この二つの側面は奥泉さんお得意のもので安心して読める。そして笑える。

語り口は相変わらずの饒舌体だ。
確かに、千野帽子が指摘するように、彼のテクストは「芸術としての文学」が追い求めた語り手の擬似透明性とは対局に立って「神の視点」に立つ語り手の優位性を充分に発揮し、むしろ読者を小説内に入り込ませるのではなく、小説との一定距離を保てと言わんばかりに過剰な語りを続ける。

奥泉さんの小説を読むといつも思うのは、小説の語り口の面白さとは、決して「矛盾しない視点」であるとか、「透明な語り手」といったカルチャースクールなどの「小説教室」が教える規範や原則によって確保されるものではなく、むしろ三人称視点や一人称主観の視点がめまぐるしく交錯したり、語り手が登場人物の時間に割り込んだりという「運動」のなかに在るということだ。もちろんこういったレトリックは技巧としては決して新しいものではないのだろうけれど(奥泉さん自身も指摘しているがドフトエフスキーなども小説規則的なところから言えばむちゃくちゃなことを結構している)、自然主義的文体を志向とする文学界や文芸批評の抑圧が強い「純文学」のなかではとても新鮮に感じる。
(一方千野さんが指摘するように、エンターテイメント小説では、これらの語り口は、脈々と受け継がれてきたわけだけど)

もちろん奥泉さんはこれらのレトリックを風刺や批評としてのみ利用、採用しているのではなく、「物語」を面白く物語るための必要なレトリックとして戦略的に利用している。
「物語」にちりばめられたアトランティスのコインやらロンギヌス物質やらといったかなり大げさな装置や、また「夫婦刑事」があちこちに旅行しては謎に少しづつ迫っていくという本格ミステリーにはあまりにも紋切り型の手法は、奥泉さんの過剰な語り口によって吸収され、魅力的な「物語」として生成するのだ。


奥泉小説は単なるミステリーファンよりもどちらかというと、筒井康隆、後藤明生、小島信夫、阿部和重といったメタフィクションや語り口を意図的あるいは無意識的に操作するような作家が好きな人たちに向いてると言えるだろう。

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2006/01/02 17:07

2005年12月26日

ブランディング360°思考

セスの本を読んで、そういえば『ホリスティックマーケティング』やこの本にも同じようなことが書いてあったなぁと思い出した。

ブランディング360度思考
マーク・ブレア, オグルヴィ&メイザー・ジャパン, メイザー・ジャパン



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ブランドで世界を覆う
アジア各国のブランディング事例が面白い

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「ホリスティック・コミュニケーション」は社内のデザイナー陣にもウケが良かったようで、自主的に勉強会なども開いてくれたりした。「ホリスティック・コミュニケーション」を面白いと感じたなら、この本も読んどいたほうがいいんじゃないかということで、随分前に読んだ本だけれど紹介しておくことにする。

実践的なブランディングアプローチ手法とその事例が紹介されている。特にアジアを中心とした事例は面白いし参考になる。
「ホリスティック・コミュニケーション」の勉強会でもそうだったけれども、「ホリスティック」というような抽象的な概念は、何かしらの定義や言葉よりも、近い事例をいくつも知っていくほうが、イメージはつきやすいのではないだろうか。
新しいブランディングのあり方やコミュニケーション活動みたいなものも、理論や考え方も大事だけど、やはり事例から学べることのほうが多い。その意味では本書は事例と理論のバランスも良くて「教科書」としては丁度良い。

本書で展開されている考え方もいわば「ホリスティック・コミュニケーション」と同じだ。本書では「360°ブランド・コミュニケーション」というような言葉が使われているが根っこはまったく同じだろう。たとえば、メディアプランの考え方。
「リーチ(延べ人数)やフリクエンシー(ヒット数)、原稿サイズやレスポンス率を忘れて、ブランドが消費者の暮らしのどんな場面、行動、態度に、どんな風に寄り添えるのかについて考え」(P.179)てみることだと提唱している。「ホリスティック・コミュニケーション」のなかで「クリエイティブこそがメディアになる」というような言葉がでてくるけれども、ここでも同じことが語られている。(オグルヴィでは「クリエイティブ」という言葉は「アイディア」という言葉で表現されている。)
そして、「ブランド管理とは、もはや(代理店から提案されたCMの)ストーリーボードにOKを出すことではなく、社会全体でのブランド体験を包括的に管理することである」(P.20)という言葉は、まさしく、「ホリスティック」だ。

しかし、「ブランド」というと、何かクソ難しい理論や概念のように思えるけれども、本書のベースはいたって単純だ。それはブランディングとはロイヤルティを築き、維持することであり、高いロイヤルティは「選好」をもたらし、売上につながる、という考え方だ。まったくもって当たり前のことだけれども、この基本から外れてしまったらどんなにすばらしいアイディアであっても、クリエイティブであっても何の意味もないだろう。

そして、「効果的なブランド体験を創り出すには顧客の「インボルブメント」を高めなければいけない(P.160)」
「真のインボルブメントとは、2つの重要な局面──インテンシティ(強烈さ、ブランド体験をより記憶に残るものにする)とインタープレイ(相互作用、様々な接点を利用して、ブランド体験全体を増幅する)──を強化して、を創り出すものだ。」(P.160)

「ホリスティック・コミュニケーション」のなかにも
消費者のコンタクト・ポイントに応じて、クリエイティブやメッセージ表現を微妙に変えて発信していく。こういう立体的な風景(ランドスケープ)づくりというものが、これからの情報装置としての広告に必要になってくるのではないでしょうか。(P.142 秋山)
「商品」自体が、まず、価値のメディアであるとも言えるわけだが、その価値を増幅するための情報環境づくりが、これからの広告や、マーケティングのテーマになってくる。(P.149)

というような表現がされていて、このあたりはセスの主張にも通じることだ。
結局のところ、企業活動すべてがマーケティングだということなのだ。商品そのものがマーケティングだし、その商品の認知をどのように獲得していくのかというだけでなく、どう消費者の生活のなかで接点を獲得していくのか、デザインしていくのか、すべてに「最適」が求められる。

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2005/12/26 00:40

オマケつき!マーケティング

セスの新作。少し前に買ってほったらかしにしてた。
内容は『パーミッションマーケティング』から『バイラルマーケティング』、そして『「紫の牛」を売れ』へと続く流れの延長線上に位置している。というか「紫の牛」という言葉を「オマケ」という言葉に言い換えただけのようにさえ思える。あいかわらず事例が豊富なので、この手の成功事例を仕入れたい人は読んでおいても損はないかもしれないが、内容は「紫の牛」を読めば充分と言える。

セスの主張は一貫している。パーミッションマーケティングでは、徹底してマスマーケティングの終焉と、パーミッション(許諾)をベースとしたマーケティングへのシフトを説き、その先に、クチコミというマスマーケティングの対局にあるような手法を示した。そしてそれらのベースには、商品やサービスそのものに驚きや、クチコミを誘発させるものが必要という考え方に行き着く。(一方で、セスは組織自体の活性化みたいなことを『セス・ゴーディンの生き残るだけなんてつまらない!―「ズーム」と進化がビジネスの未来を拓く』で語っていて、前にも書いたけれども、実はこの本がセスのなかではボク個人としては一番面白かったのだけれど)

ボク自身はマスマーケティングが不要になるとは到底思えないし、むしろマスが駄目だとか、バズが良いだとか、手法によってチャンネルの善し悪しを考えていくという、そのかんがえかたそのものが今の時代には危険だとは思ってはいるのだけれど、チャンネル最適化や接点管理といういわゆる生活者中心のマーケティングには、どうしても製品やサービスそのものへの視線が欠落しがちだ。商品の魅力を高めるという当たり前のことが、「パーミッションマーケティング」や「バズマーケティング」みたいなある種の偏ったタームのなかで捉えられると、すっかり忘れさられてしまう。「紫の牛」、本書と続けて、この部分について語ったは、そういう偏った考え方への警告の意味も含まれているのかもしれない。

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2005/12/26 00:05

2005年12月25日

岡嶋二人「99%の誘拐」

「誘拐もの」で行けば、やっぱり天藤真の「大誘拐」の方が一枚も二枚も上手だと思うけれども、本書で描かれる「誘拐」も発想は大胆奇抜で面白い。ただ、その奇抜な発想を支えるためのディティールがどうもハイテク頼りになりすぎないかと。
昭和の大傑作小説「大誘拐」と較べるのもなんだけども、「大誘拐」の無茶さは許容できる無茶さなんだよなぁ。

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star岡嶋二人を再評価させる疾走感
starお終いが残念
starちょっと期待はずれでした

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2005/12/25 18:54