どうで死ぬ身の一踊り/西村賢太

いまどき、まだこんな私小説が成立するのかと正直驚いた。この手のものは車谷長吉が最後なんじゃないかと思ってたのだが、まだこんな人がいたとは。作者自身の強烈なキャラクターがテクストに色濃く反映されているわけで、ほぼ私小説と言ってしまって間違いはないんだろうけれども、ただ、しかし、単なるルサンチマンの吐露には終わっていない。

主人公は下手に繊細なところがあるかと思えばその場に任せて直情的に行動する。
女に手を上げたかと思えば未練たらたらに女にすがり、とにかく情けない。こういう男は今でもどこにでもいるかもしれない。

が、しかし、芝区芝公園内で凍死した作家、藤澤清造のこととなると尋常ではない執念と執着を見せる。藤澤清造のためならば借金してまでも文献を買い買いあさり、お墓がある金沢のお寺へ足しげく通う。挙句は藤澤清造のお墓の隣に、自身の生前墓までつくる始末だ。

小説内で、藤澤清造への執着は相当なものなのだが、藤澤清造については冒頭に少し触れられているぐらいで、具体的なことはほとんど語られない。彼が藤澤清造の文学のどこに惹かれているのか、そもそも藤澤清造はどんな小説を書いていたのかというようなことはわからない。(読み手に知ってもらおうという意図していない)
主人公にとって、執着の中心となるものの周辺だけがピックアップされて、その「中心」は、主人公にある意味無視されてしまっているわけだ。(藤澤清造を知ってるもの以外は。ほとんどの人は多分知らないだろうけど)
読者はなぜ、主人公がこれほどまでに藤澤清造に固執するのかを知る術がない。だからこそ主人公が藤澤清造に持つ感情やこだわりが、より一層滑稽なものとして浮かび上がってくる。

読み進めていくと、誰もが主人公への嫌悪感を募らせるだろうし、彼のどうしようもなさに苛立ちを覚えるだろう。それは、この小説の核でもある「藤澤清造」の空洞化も貢献しているのではないだろうか。傍から見ればどうしようもない無意味なものに執着する主人公の姿がより情けなく、惨めに映ってくるし、その惨めさや情けなさが、実は「藤澤清造」の「中心」を埋め合わせるものだったりするという構造も、意図的なものかどうかはわからないけど面白い。

どうで死ぬ身の一踊り
どうで死ぬ身の一踊り西村 賢太

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