オノマトペから筒井
5時過ぎにコタツでそのまま寝てしまい、7時過ぎにうとうとしながら「おはよう朝日です」を見てたら、二度寝に入り、起きたのは10時だった。とりあえず近くのパスタ屋に出かけ、京都新聞を読む。
新しいオノマトペがどんどん生まれているとかなんとかいう話がのってた。それは漫画、コミック文化の影響だとかなんとか。川上弘美や舞城王太郎なんかの新しいオノマトペが紹介されていたけど、オノマトペといえば筒井の「敵」を思い出す。
敵
「敵」では、オノマトペに漢字をあてていてそれが妙に面白かった(こういう手法は今までも存在したんだろうか? でも、手法だけがとりあげられて「面白い」「面白くない」」なんて言うのも変なもんだが) 手元にないので、いろいろとウェブを調べてみると、こんな当て字が使われていたらしい。
「鵜化鵜化と」(ウカウカと)
「慈輪慈輪」(ジワジワ)
「躯躯躯躯躯」(クククク)
ただの当て字ではなく、そのオノマトペが使われるコンテクストと、漢字としての意味をちゃんと考えたうえで選択されていて、オノマトペが本来伝えようとしている感覚的表現をより重厚なものにしている。
筒井自身、「虚航船団の逆襲」の中で、
普通の小説の中で、慣用句となった「どきどき」「はらはら」「わくわく」「いらいら」「がたぴし」などの擬態語、擬声語を濫りに使うのは下品とされているが、どうしてもこの種の語を入れて誰でもが容易に思い浮かべ得る感覚を表現したい時がある。そういう時は辞典を利用して漢字をあてはめればよい。うまく行けばスマートな表現になるし、「やっぱり鬼才だ」などと褒められたりもする。〔………〕やはりこういうものはぶっつながりにやっては泥臭くなり、いやらしい。
あくまで小説中の一カ所で、効果的に使うべきだろう。
というようなことを言ってるらしい。
そもそもオノマトペ自体が、音による動作や状態や泣き声などの表現なわけだけど、それに象形文字としての漢字を組み合わせることによって、視覚的表現にまで拡張するってのは単純だけど、すごいアイディアじゃないだろうか。(最初に使ったのは誰ですかね?)
筒井の一連の実験小説、「残像に口紅を」とか、「虚人たち」とか「朝のガスパール」なんてのは、いろいろと批判も多いけれども、ボクはテキスト表現の習慣性とか、文学の無意識的な前提とか、そういうものを明るみに出すことも、文学の一つのあり方だと思うので、これらの作品も小説家の仕事としては評価されるべきだろうと思う。
(参考)
【ことばをめぐる】(030930)おたく、筒井康隆、松浦寿輝、折口信夫論
http://www.asahi-net.or.jp/~QM4H-IIM/k030930.htm
会議室:「ことば会議室」
筒井康孝「敵」http://www.tok2.com/home/okazima/room_1/BBS_MSG_980205215921.html
筒井康隆『敵』のJIS感字論
http://member.nifty.ne.jp/shikeda/tti.html