IMCは日本の広告を活性化する
宣伝会議3月号の「IMCは日本の広告を活性化する」という青山学院大学教授・商学博士小林保彦さんのコラムは、短いけど日本とアメリカの広告の違いや、IMCの概念がまとまっている。
- 米国の「Advertising」と日本の「広告」は同じではない
- 日本の広告は、アメリカのPRであり、日本のSPはアメリカの広告である
- 日本語の「宣伝」はマーケティングを包括する活動であり、「広告はマーケティングの一機能」ではなく、「マーケティングが広告の一機能」となる。この発想がIMCに近い。
- 日本にIMC概念が積極的に導入されなかったのは、1つは日本の「広告宣伝」にIMC感覚が内包されいたこと、2つめはマスメディア取引市場が自由でなく、広告会社、広告制作会社、媒体社の諸機能を企画に合わせて選び合わせることができないこと、3つめは日本では1業種1社が根付いてないので米国型IMCの導入は広告取引の問題を明らかにしたから。
コミュニケーション(訴求)は大きく、経済的訴求(企業の訴求活動)と宣伝・Propagandaにわかれる。宣伝・Propagandaは、経済的な訴求に対して、政治や宗教、教育という領域だ。
経済的訴求はさらに、「4Pのプロモーションに該当する「販売訴求」と、企業全体を伝えていく「全経営的訴求」となる。販売訴求は「個別的販売訴求」(マスメディアを使わない、人間による販売メッセージ伝達)と「集団的販売訴求」(マスメディアによる不特定多数への大量伝達)に分かれる。」
一方、全社的訴求(PR)は、「社内広報」と「パブリシティ」(外部意向形成/世論形成)という下部構造を持つ。
これがコミュニケーション体系のツリーだ。
このツリー上の、「経済的訴求」を根とする一連の構造が「IMC」(統合型マーケティングコミュニケーション)と位置づけれられている。
確かに、このようなツリーからIMCを考えてみると、日本の「広告代理店」が担っていた領域は、ほぼこれらすべてであり、電通のスローガンの通り、日本の広告、宣伝には「コミュニケーション」という考え方が前提としてあったことが良くわかる。
著者は1990年代の経済環境の変化、メディアの多様化、消費者の変質などがIMCの再評価を迫ったと書き、現代におていは既存メディア思考を超えたメディアプランニング、「メディアニュートラル」現象がIMCを必要としているとする。
IMCの本格的な導入は、日本の広告業界に「プランニング志向性」を根付かせることになるだろうか。メディア発想ではなく、プランニング発想。広告会社だけじゃなく、当然クライアントも変わっていく必要があるだろう。その変化は広告会社にとっては今までの既得権益を蔑ろにして、自らの首を絞めるような行為になる可能性だってある。
でも、タグボートをはじめとして、電通や博報堂を独立した優秀なクリエイターたちの成功は、この業界が変わろうとしつつある予兆なのかもしれない。
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