大森荘蔵「時間と自我」


大森荘蔵の「時間と自我」を読み続けている。なかなか読み終わらないのは、よくわからなくて何度も何度も読み返しつつだからだ。

時間の性質といのは物理学的な時間からはいくら遡及してもわからないだろう。点の集合は決して時間にはならないし、時間は物理学の法則上だけに存在しているものではない。ボクらは普通に「今」なんて言うけれどもこの「今」にはもちろん空間や場所がしっかりと結びついている。大森さんは、時間の原初的な性質みたいなものを探ることで、時間とは何か、という問いに少しでも近づこうとしている。

保坂和志の「季節の記憶」という小説のなかで、幼い息子が主人公のパパに「時間って何?」という質問を投げかけ、パパが悩みながら説明する場面があった。手元に本がないのでうろ覚えだけれども、パパは確か時間を空間的な広がりを持った概念として絵で説明していたと思う。ある点がもやもやとどんどん広がっていってすべてがそれに飲み込まれていくようなイメージだったのではないか。ベルクソンも時間を物理的な時間と空間的な時間とに分けて語っているけれども、このパパが考える時間は明らかに後者の空間的な時間だろう。

この小説のなかでパパはクイちゃんに積極的に言葉を覚えてもらいたくない、というような態度をとる。言葉を覚えることによって、混沌とした世界そのものが整理される。それによってクイちゃんが見ている世界が平凡で単純化された世界になることをパパは嫌うのだ。その態度や考え方と、この時間の説明は結びついている。パパは(保坂さん)はおそらくすでに当たり前のものとして受け止められてしまっている物理学的なリニアな時間を疑っているということだろう。クイちゃんにはまだ時間の概念がない。時間を単純に時計のメタファで点の集合による以前から今、そして未来へとつがなるような直線的なも霧消のとして説明することは簡単だれども、そういう規定の概念に支配されることで、クイちゃんが今、接している原初的な時間(それはすでに「時間」ではないのだろうけど)は霧消してしまうだろう。

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コメント

  1. mutu より:

    すごいっすー
    高校生の頃読んで、全然、解らないのに
    他我とか全然理解できてないのに
    やっぱり「大森荘蔵ってすげーよー」っていってた、気がする。

    その後、結局僕は永井均になっちゃうんだけど。。。

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