PhotoGRAPHICA Vol.11 佐内正史

PhotoGRAPHICA Vol.11

PhotoGRAPHICA Vol.11は佐内正史がフィーチャーされていた。自主レーベル「対照」から発売された「浮浪」と「DUST」という2冊の写真集と、同レーベルからの第三弾写真集の「Trouble in mind」。さらに9月発売予定の「arka (仮題)」、11月発売予定の「CR EVANGELION LANDSCAPE(仮題)」、2009年発売予定の「赤い車(仮題)」について語っている。

まず、何よりもこれだけのペースで写真集をつくり続けるということに驚く。11月に予定されている「CR EVANGELION  LANDSCAPE」にいたっては、あのパチンコのエヴァンゲリオンを撮ったものだそうだ。パチンコの中に15万分の1や1500万分の1の確率でしかでないような風景がでてくる。その一瞬の風景にドキドキすると佐内さんは語っているが、しかし、いまだかつてパチンコ台そのものを写真集にした人、しようとした人がいるだろうか。

 

さて、このブログでも書いてるけれどもボクは「対照」から出ている二冊の写真集は両方とも持っている。ボクは「浮浪」には もう今はそこにないかもしれないと思わせるもの、かけがえのなさが漂う、と書いた。一方で「DUST」にあるのは「変わらない日常」を捉えた空虚感みたいなものだ、と書いてる。

 

佐内さんはインタビューの中で、「浮浪」は好きな時間、「DUST 」は好きな場所。「時間」と「場所」の違いだよ、と言っている。なるほど、ボクが「浮浪」に感じる「かけがえのなさ」ってのは「時間」という意識がこの写真集を構成しているからなのだろうか。「DUST」は「場所」を捉えてるがゆえに、その場所が西新宿という大都市であるがゆえに、空虚感を醸し出しているということだろうか。

 

しかし、一方で、多分、佐内さん自身は、このように写真集から何かより高次っぽく見えるような意味が見え隠れしてしまうことを最も嫌っているのかもしれない。「DUST」の収録されている作品に佐内さん自身がコメントを入れてるが、それらのコメントがいかにも佐内さんらしい。「そのままズバっと。」とか「パリっとしているのがいいなと思って」「すごく強い写真だと思う。個人的なところから離れているところが好きなのかもしれない」「俺はあんまり気持ちの表現は好きじゃないんだけど、まぁいいか。最初のほうはパキパキだから、このへんは気持ちの表現があってもいいかもね」

写真そのものに余分なものをまとわりつかせたくないのかもしれない。「ズバっと」や「パリっと」「パキパキ」みたいな擬音語や、「個人的なところから離れた」などのコメントは、写真は写真そのものであり、それ以外はどうでもいいだろうという強い意志のようなものを感じる。

 

他、インタビューから、いかにも佐内さんらしいなと思ういくつかの発言を抜粋しておきたい。彼のいかにも適当に無作為に撮っているかのように思える写真が、写真そのものの本質に真摯に向き合って、そこから出てきているものであることがよくわかる。

 

(20代の頃い撮った自分の写真に対して)

「雰囲気写真みたいなものがいやで、できるだけ雰囲気は出したくない。でも、雰囲気って写りやすいから、そういう写真はボツにした。雰囲気じゃなくて、記号がいい。記号から受けるある感覚だけをやりたいと思っていた。写真から、何かしらの感覚だけを受け取れればいい」

 

「写真って、もっと複雑な奇々怪々の世界じゃない。写真という怪物を撮りたい。日常生活を撮りたいなんて思ってないから(笑)。車だってそう。車が好きで撮っているわけじゃない。カーキチじゃないだから(笑)。それはちゃんと言っておきたい、写真という怪物に向き合うために撮っているんだから」

 

 「ポートレートを撮るときに、その人の内面を撮るとかそういう感じはまったくない。シャッターを押す、その瞬間を撮りたいだけ。人間性とかって、写真を撮らなくても話し合えばわかるでしょ。トークで十分。」

 

こういった佐内さんの発言を読みながら、写真集を眺めていると、ついついボクは文学のことを考えてしまう。例えば、ジョン・バースや高橋源一郎といったいわゆるポストモダンの作家たちが持った意識と非常に近いものを感じるのだ。書き出してしまえば、それが小説になってしまうこと、小説という散文形式を引き寄せてしまい、どうしても自由になれないこと、どのような描写も描写そのものとして成立せず、「意味」を漂わせてしまうこと。

上で佐内さんが言う「雰囲気を出したくない」という意識や、「カメラという怪物に向き合う」という言葉などと、とても近い考え方なのではないかという気がする。もちろんカメラと文学はまったく違うもので、それらを同じ概念で括り付けて考えるのは無理があるかもしれない。しかし、先鋭的な表現者がアーチストであれば、ジャンルが違うにせよ、同じような問題意識に行き着くということは十分ありえるだろう。

 

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