亡国のイージス

亡国のイージス 上

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亡国のイージス 下

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亡国のイージスを読んで、主体性ということをかんがえた。

戦後思想と主体性なんてテーマはさんざん語りつくされてきた。日本という国家、民族の主体性は何か? 日本人ぐらい「主体性」という問題を問いかける民族はいないのではないか? 江藤淳にせよ、加藤典洋にせよ、「主体性」のオンパレードだ。

「主体性」という言葉が持ち出されるとき、それがそもそも何を意味しているのかという問題はあるが、主体性という言葉で言い表されるような、主体の能動的態度というか決意というか、そういうものをわざわざ意識して持ち出さなきゃならないことこそが、日本の主体性のなきことを露呈しているのではないか。

主体性というものを必要とするというその事態にこそ、主体性の問題は潜んでいないか。

そもそもだ。主体性という言葉にぴったりあてはまる言葉は欧米には存在しないのではないか? subjectivity は違うだろう。subjectそのものが違うのではないか。主体は自足的なもので、わざわざ確認しなきゃならないものなのだろうか。

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