網状言論F改―ポストモダン・オタク・セクシュアリティ

網状言論F改―ポストモダン・オタク・セクシュアリティ

cover

「動物化するポストモダン」も読まなきゃなーと思いつつ、まだ読んでないのに、こっちを先に読んでしまった。
東さんが現代の世界像を概念化している。

1945年以降の日本のイデオロギー状況を、1970年代までの「ポストモダン以前」(大澤真幸氏によると「理想の時代」)、1970~1995年を「ポストモダン第一期」(虚構の時代)、それ以降を「動物の時代」と呼び、とりあえずそれらのラベル下でのイデオロギーモデルを簡単に説明する。

1970年から1995年にかけて、徐々に「大きな物語」がなくなっていって、1995年以降は、「大きなデータベース」が台頭してきた、と説明しているけれど、このところで、僕はなんとなく怪しさを感じてしまい、立ち止まってしまった。確かにこの説明はすごく明快で的を得ている。「大きな物語」が一つあって、それが世の中にあるさまざまな小さな物語を制御するという構造から、世界のどの部分を読み込むかということによって、人はそれぞれで小さな世界像を得始めたということを、インターネットの登場や『デ・ジ・キャラット』などの、まさに「萌え」要素だけを組み合わせてつくられたキャラクターを例にあげて説明していて、まったくごもっともと思う。

しかし、僕は、簡単にモデル化された世界像に、単純に「なるほど」と考えてしまうような場合には、何かそこにはもっと考えなければならない重要なものが後景化されていて、都合のよい戯れだけをうまく拾い上げられているに違いない、と考える癖があって、この「虚構の時代」と「動物の時代」という時代の構造分析にも、何かトラップがあるのではないかと勘ぐってしまう。でもまぁしかし構造主義的な分析というものというのはたいていそうだ(構造主義自体が悪いとか良いとかそういうわけではないのだけれど。)
といって、立ち止まって考えるけれど、その答えとか、何に違和感を感じたのかとか、そういうことがわかるわけでもない。

「大きな物語」という時、その時代に生きてない僕は、それを「国家」とか「理想」とか「道徳」とか「社会主義」とか、自由」とか「宗教」とか、抽象的な概念で考えるけれども、はたして「大きな物語」というものがほんとに「あった」のか。これまた存在として取り出して、「はい、これが『国家』です」と見せることができないものなので、結果的に、後から現象を捉えて、構造を見出して、「あったに違いない」と思うしかない。

両親などを見ていると、「血縁幻想」的なものに取り付かれているように思えるけれど、これなんかもやはり「大きな物語」の残骸なんだろうか。
マスメディアみたいなものも「大きな物語」を強化する装置だったのだろうけど、考えてみれば、今でも僕らはテレビも見るだろうし、新聞も読むけれど、そこに映し出されているものや、書かれていることが、真実ではないことを知っている。事実として構成しようとしているかもしれないけれど、真実ではない。

あまり関係ないけれど、ゴダールが「映画史」のなかで、僕らが映画と思わされているものは、ハリウッド的なモードにすぎないのであって、あれは映画ではない、というようなことを言っていたけれど、今はみんなそんなこと気づいてるんじゃないか。気づいていて、なおかつそれでも別にいいやと享受しているんじゃないか。

でも、考えてみると、こういう構図が実は、それ自体が一つの大きな物語なんじゃないかという気もしてくる。
大きな物語がなくなった、ということそのものが大きな物語として機能しだす… 誰かがポストモダンは、自分がのっかかっている枝を切り落とすようなものだ、ということを言ってたけれど、まさにそんな感じか。

スポンサーリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

スポンサーリンク

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です