オウム事件裁判のドキュメント「A3」
これはなかなか読み応えがあった。
A3 上 (集英社文庫)
A3 下 (集英社文庫)
Aとはそう、オウム真理教の麻原彰晃のことだ。A3というタイトルは、これに先立ちA、A2という、オウム真理教を追いかけたドキュメンタリー映画があり、それの繫がりとしてA3となっている。しかし、AやA2が「オウム真理教」そのものを扱い、そのタイトルにはオーム(AUM)や、そのドキュメンタリーの主要な被写体であった荒木浩広報副部長(当時)のイニシャル、あるいは煩悶(Agony)や反命題(Antithese)、代案(Alternative)などのAも含めてのタイトルで、実際にはタイトルのAにはたいした意味もなく、単なる記号に過ぎなかったが、このA3は違う、と著者は言い切る。そう、このA3のAは、明確に「麻原彰晃」のことだ。
そう、本書は確かに麻原彰晃、ただその人にフォーカスしたドキュメンタリーではある。しかし、単に麻原の人生や生い立ち、思想や犯罪に至った動機といったものを取材から解き明かしていこうというものではない。どちらかというとこのオウム事件、麻原の裁判を通じての司法制度、報道の在り方を問うような内容になっている。
本書は、麻原の裁判を傍聴し、どう見ても麻原の精神が普通ではない、と感じた著者の疑問から始まる。麻原は狂っている。彼には訴訟能力はないのではないか? そんな疑問から麻原個人の問題を超えて、著者は司法制度、裁判の在り方、そしてマスコミの報道姿勢などについて疑問を呈していく。
本書で触れられている通り、ボク自身もこの本を読むまでは、マスコミによって得られる情報だけから漠然と考えてただけだったので、オウム事件の裁判、麻原の裁判は時間がかかりすぎる、もっと早く決着つけないと駄目だろうと思ってたし、麻原の裁判での言動や振る舞いも、どうせ精神病の振りをして責任能力がないと判断されようとしている詐称に違いないと、勝手に決めつけを行っていた。
しかし、本書を読むと、こういう考え方が、どうもマスコミの報道によってそう誘導されてるものではないかという疑問が出てくる。知らないが故に、そういう情報だけをかいつまんでいくが故に、ミスリードされているのではないか。
2004年2月、一審で死刑判決を受けた麻原被告の控訴審議弁護を引き受けた二審弁護団(松井と松下)は、被告とどうしてもコミュニケーションがとれないとして控訴趣意書の提出を断念する。同時に弁護団は、精神鑑定を実施するために公判停止申立書を裁判所に提出するが、これを却下されたため、この年の十月から漸次、独自に精神科医に依頼して鑑定を実施した。ただし正式な鑑定ではないため法的効力はない。
そして、六人の精神科医が麻原を鑑定しているが、全員が麻原には「訴訟能力」が失われているという結論づけている。しかし、高裁から精神鑑定を依頼された西山医師は、麻原の訴訟能力には問題がないと結論付け、その鑑定を裁判所が追認している。
これは単に弁護側が自身に有利になるような鑑定を行う精神科医を連れてきただけの話だろうか、裁判所が指名した西山医師こそが、緻密で正確な鑑定を行った人物なのだろうか。
本書内ではこの西山鑑定の一部分の切り出しと、その鑑定の出鱈目さの批判がなされているが、確かにその部分だけを読んでいると、まず「訴訟能力あり」という結論が先にあって、それを作るためにでっち上げられた鑑定のようにも思えなくない。まぁ鑑定のすべてを読んでないので、ある種、ここでは著者側の意図的な切り出しなどがあって、より一層、その鑑定が嘘くさく見えるような演出になっているとも言えなくはないけれど、しかしそれにしても因果関係の作り方、文章の構成などは、確かにあまりにも適当というか、そもそも意味をなしてないようなものが多い。
そして何より、本書で描かれる裁判での麻原、面会時の麻原の様子を読めば、それは明らかに精神的に問題があるだろうと誰もが確信するだろう。演技にしても、人間がそんな演技を続けられるわけがないと思ってしまう。内容については、本書を読めばわかるが、かなり壮絶というか、むちゃくちゃである。
にもかかわらず、裁判所も検察も弁護団さえも沈黙し、精神鑑定動議もなされない。裁判を傍聴しているマスコミでさえも、麻原の様子については仔細には語らない。その伝え方も明らかに悪意あるように、どうしようない野蛮人であり反省のない非人間的な存在として誘導していこうという意図が伺える。
もちろん、麻原がやったことが酷いことには違いないし、彼の非道さ、極悪さは、彼がどんな状態、どんな態度であろうが、軽減されるようなものではないだろう。しかし、麻原には、裁判での重要な事柄の利害を認識、判断し、それをふまえて弁護人と意思疎通できる能力が完全に損なわれてる。このような精神状態のまま、無理に結論ありきで裁判を進めることが果たして社会的に良いことなのかどうか。こんな大事件であるからこそ、戦後最悪と言われる凶悪犯罪であるからこそ、麻原にはきちんとした精神状態で裁判を受けさせ、本人の口から事件について組織について語らせるべきだ、というのが著者の主張だ。
現在の精神医学なら、麻原の症状は治療できる可能性も高いとされている。であれば、まず、正常な状態にまで持っていくべきなのではないか、と。
裁判所としては、下手に精神異常を認め、訴訟能力なしという判定が下ってしまった場合、公判が停止に追い込まれ、訴訟能力回復までの時間がまったく見えないまま宙ぶらりになってしまう、ということを恐れているのかもしれない。そして、この気分というか気持ちは、おそらくだが、被害者も含め国民の多くの感情に重なっているところがあるのだろう。だから報道でも、こういうところは一切取り上げられないし、むしろこういうムードを助長するような描き方、報道しかなされない。麻原は精神異常のふりをしているだけだと結論づけたいし、麻原の裁判は長くかかりすぎてる、早く決着つけるべきだと思いたい。(本当はこの規模の犯罪にしてはあまりにも早い裁判過程だということが、本書では示されている)
しかし、果たして、それが「正しい」のだろうか。 もちろん、ボク自身、オウムや麻原に何らの同情もシンパシーも感じるところは一切ないが、裁判や報道の在り方としては、著者が呈する疑問については、しっかり考えておくべきことなのではないかと思った。それはオウム事件だけに限らず、他でも、同じようなロジックや手法で、ボクらはいつの間にか、自身がそう感じてる、自身がそう考えている、という思ってしまうかのように誘導されているかもしれないからだ。それは実は、ものすごく恐いことだし、危ないことなのではないか。