「性格」というのものはあるのか?

ボクは血液型などの性格診断はあまり信じていない。
性格診断みたいなものをあまり信じないのは、それを信じても自身に有利にならないということもあるが、一番大きいのは岸田秀に影響を受けたからだろう。

岸田秀は中学生から高校にかけてもっとも熱心に読んだ心理学者だ。中学の時に誰が買ったのかはわからないが家にあった「ものぐさ精神分析」を手にした。筒井ファンだったボクは、筒井の影響でユングやフロイトも齧りかけていた頃だったのだけれど、「ものぐさ」にはハンマーで頭を殴られるぐらいの衝撃を受けた。

彼に出会わなければ、フロイトもレインもニーチェも読んでなかっただろう。(と、暗にこういうものが好きだと主張しているのだけど)
哲学や心理学の扉を開いてくれたのは、彼の著書に出会ったことが大きい。彼の書くものはかなり極端なので、全面的にすべて受け入れているわけでもないけれども、ロジックの明快さと、わかりやすさ、何よりもその視点、立ち位置が面白い。

さて、岸田さんの代表作「続・ものぐさ精神分析」のなかに「性格について」というとても面白い分析がある。「性格」についての彼の考え方も、彼がずっと唱え続けている「唯幻想論」が土台になっている。結論から言えば、岸田さんは「性格」なんていうものが、ある人に固有の特性や特質として何かしらの実体として備わっているようなものではないと語る。

岸田さんは「性格とは当人の内側にあるものではない」と言い、こんな譬え話を持ってくる。

AとBとの二人の人間がいる場合、Aが気がひけてとてもできないようなことをBは平気でやれるということはある。そういう場合を見て、Aは、自分は気が弱いがBは気が強いと判断するのであろうが、逆の場合、すなわち、Bが気がひけてとてもできないようなことをAは平気でやれるという場合もあるのである。この場合、Aは自分が平気でやれることなので、別に「気の強い」ふるまいとは思わず、当たり前の普通のことをしているという気持ちしかなく、その同じことを、Bもやりたかったのだが、気がひけてがまんしたという事実は、Bの心のなかのことだから、Aには見えず、したがって、この後者のような場合がいくらあっても、Aの「自分は気が弱いが、Bは気が強い」という判断は変わらない。逆に、Bには後者のような場合は見えるが、前者のような場合は見えないから、Bもまた「自分は気が弱いが、Aは気が強い」と思っていることであろう。AとBとがたがいに相手を自分と同じように「気が弱い」と思っている場合があるとすれば、それは、Aが気がひけてできないことと、Bが気がひけてできないことが共通している場合にかぎられる。

(中略)

AとBとの人間関係が、AとBとの関係のなかでのAの性格とBの性格とを規定する。したがって、BにとってのAの性格と、CにとってのAの性格とは異なっている。もし、両者が似通っているとすれば、それは、AとBとの人間関係と、AとCとの人間関係が、たとえばA、B、Cの三者が同じ集団に属しているなどの理由から、似通っているからにほかならない。誰にとっても同じであるような、そして、もし異なった見方をする者がいればその者を理解が浅いとか、誤解をしているとか決めつけることができるような、普遍妥当なAの性格なるものは存在しない。したがって、「客観的に」性格を検査しようとするあらゆる性格テストは無意味である。


血液型による性格診断などで「気が弱い」と書かれていたとする。
これは実は誰にでも当てはまってしまう。なぜなら「気が弱い」という性質を「他の人に気を遣って自分の言いたいことが充分言えない、やりたことが充分やれない」というものだと考えるとき、逆に「他の人びとに全然気を遣わずに、自分の言いたいことはすべて言い、やりたいことはすべてやるという人がいるわけない」からだ(そんな人がいたら社会的に抹殺されているだろうと、岸田は言う)。つまり「あなたは気が弱い」と言われれば、たいていの人は心の裡では「そうだ」と思ってしまう。

「あなたは気が弱い」といわれたときに、「絶対に違う」と言い切れる人は、おそらく周りから「気が強い」ということを言われてきて、そういった外的評価をセルフイメージとして消化している人だろう。

ここでとりあげた話はさすがに少し極端すぎるところはあると思う。

例えば、ボクは猫を飼っているが、その猫の振る舞いや態度は明らかに今までボクが接してきた他の猫とは違っていて、それはその猫の「性格」というやつではないかと思う。岸田さんに言わせれば、それは性格ではなく本能に直結した「特性」なんてことを言うかもしれないし、飼い主側が猫にそういう性格を投影しているのだと言うかもしれない。でも、やはり性格のすべてが相手との関係で決定されるというのは、少し無理があるとは思う。人間の赤ちゃんでも自我が芽生え始める頃には明らかに一人一人違いがある。それは性格というものに起因している。すべて外部環境や他者によって規定されているとはどうしても思えない。

とは思いつつも、ボクは概ね岸田さんの考え方を受け入れる。

性格とか気質みたいなものが人間の特性としてまったくないとは思えないけど、しかし、それだけがすべてではない。むしろ岸田さんが言うように、実は大部分が他人との関係や、その関係を通じて共有された認識やら、そういったものによっていかにも類型的な性格があるように見えてしまうのではないか。

性格を何かしらのタイプでわけたり、分類したりすることが悪いことではない。岸田さんのように考えなければならないというものではなく、岸田さんは単に視座を提供しているにすぎない。しかしその視座を得られるとき、人や事物にたいしての接し方、考え方のは、ただ類型的な性格に基づいて人を判断するよりもずっと大きなものを得られる可能性がある。そこが重要だろう。「彼は気が弱い」とか「自分は気が強い」「怒りっぽい」と考える前に、その視点をずらしてみる。自身ではまったく気づいていないが、他者にとって自分の行動がとてつもなく大胆な行動に映っているものもあるかもしれない。逆に、ボクが気づいてないだけで「気が強い」と決め付けていたある人は、内心では自身のことを「気弱」だと考えているかもしれない。こんな風に考える視点を得られるだけで充分だと思う。

岸田さんのテクストは、安易に「客観的な性格」みたいなものを基準としてしまうような思考のあり方そのものを疑ってみよ、という警笛みたいなものとして受け入れるのが良いのではないか。たとえ岸田さんのテクストが本当だとしても、ボクらは人それぞれの多様性を多様性のままに受け入れることには耐えられない。「性格」というものがあたかも存在するものかのように扱い、類型化したくなるのは、そうしないと不具合があるからだろう。あの人の性格は温厚だ、とかあいつは怒りっぽいとか、そういう性格判断を行っておくこと、コミュニティの共同幻想としておくことが、「人づきあい」の潤滑油みたいに作用しているのだろう。

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