「小説ラジオ」があまりにも素晴らしかった

小説ラジオ 「小説ラジオ」は、高橋源一郎さんが毎晩0時から小説を執筆・ツイートする。その模様をUSTで中継するという、ほぼ日が主催した企画だ。5夜にわたって繰り広げられたこの企画。ほんとに素晴らしい企画だったと思う。この催し全体が一種のアートだったといえば簡単というか、アートという手垢のついた言葉で括ってしまうのが惜しいようなそんな企画だったと思う。

本物の作家が、ずっと「言葉」と格闘してきた正真正銘のプロの言葉の使い手が、言葉を生み出す瞬間をUSTで中継する。かつてUSTでこれほどまでに静かで動きのない中継があったろうか。画面が捉えてるのは、高橋源一郎がパソコンに向い、時には深く思い悩み、時には手元にある参考の文献に目を向け、メモを漁ったりしながら、キーボードを叩く様をたんたんと流しているだけだ。動きらしい動きはない。視聴者に何かサービスとして愉しんでもらうような仕掛けも一切ない。聞こえる音はキーボードを打つカタカタという音ぐらい。しかし、その画面から溢れでてくる緊張感は凄まじいものがあった。何もなく、ただ言葉を紡ぎ出す、ただその姿を捉えたからこその緊張感だったのだろうと思う。

毎夜綴られる「小説」それ自体は、Twitterのツイートなので後から読み返すこともできる(参考:Togetter – タグ「小説ラジオ」のTwitterまとめ)。しかし、その言葉が生まれるその瞬間、その様に立ち会うということは後追いすることが不可能な体験だ。たとえUSTの中継が録画されてて、後から見返すことができたとしても、それに価値がないとは思わないけれど、やはりその時、その瞬間に立ち会えることの幸せとは比較にはならないだろう。言葉を産み落とす小説家の姿と、それを見守る人たちのツイート。これらが一体となって、本当に本当に密度の濃い時間が生まれていた。金曜日の最終日、この日は東京から淳さんも来てて、数人で飲みにいった。いつもなら明日が休みということもあるし、2時、3時コースになるところだが、これだけはどうしてもリアルタイムで見届けたいという強い思いから、途中で抜けさせてもらった。

ボクはこれを毎夜見たことを決して忘れないだろうと思う。

「小説ラジオ」というタイトルも秀逸だ。ボクは、先ほど、毎夜「小説」が綴られると書いたけれども、実際、書かれたものだけを拾いあげて読めば、これは「小説」なの?という疑問も持つかもしれない。第四夜目までは、引用も多く、引用の中から、自分がずっと考えてきたことの筋道やヒントみたいなもの、垣間見た真理みたいなものが語られる。どちらかというとエッセイや批評に近い表現形態だろう。しかし、ボクは、これはやはり「小説」なのだと思ってる。それは源ちゃん(と、親しみと敬愛を込めてこう呼ばさせてもらうが)が常々言ってるような、「小説」という表現形式は、文学の形式の中でも、もっとも後になって登場してきたものであり、それが故に、何よりも自由だ、という意味において、この取り組みそのもの、この企画全体が「小説」だと思うからだ。

そして「ラジオ」。この企画の中で、源ちゃん自身が「ぼくが「小説ラジオ」ということばを使うのは、「ラジオ」というものが好きだからだ。」と語っている。

テレビはただ眺めていればいい。ラジオは、耳を澄ませて、全神経を耳に集めて、聞かなければならなかった。3歳か4歳の頃、ぼくはそんな風にして、布団の中で、夜、離れたところから聞こえてくるラジオの音に耳をかたむけていた。すると、聞こえてくるのは、ラジオの音だけはなかった。
たくさんの、たくさんの音が聞こえたきた。たとえば、雨の音に何種類もあることを知っているだろうか。強い雨、弱い雨、そのリズムが変わる雨、ポツポツと断片となって降ってくる雨。トタンの屋根を、雨は複雑に叩き、ぼくは、その音を聞いているだけで飽きることがなかった。

ボクたちは、まるで深夜に布団の中で、「ラジオの音に耳を澄ませ、全神経を耳に集めて、聞」くかのように、源ちゃんが生み出す文章を読んだ。ツイートにのせて文章が届けられるのを愉しみに待ちながら。新しい文章が届けられれば、それを食い入るように読んだ。次の文章が届けられるまでの間は、なんどもなんども今までの一連の文章を読み返し、自分の経験や考えに照らしだしてみた。それは、初めて文学に触れた時、面白くて面白くて、ついつい夜更かしして読んでしまった学生の頃や、読んだことのない、自分の知らない作家をもっともっと読みたいと切望したあの頃に少し似てると思った。こんな風に言葉を待ったのはいつ以来だろうか。こんに次の言葉、次の文章が愉しみになったのはいつ以来だろうか。

4061975625ボクは高橋源一郎さんの大ファンだ。彼の「さようなら、ギャングたち」を初めて読んだときは本当に衝撃だった。当時は現代文学やポストモダン思想みたいなものもよくわかってなかったので、彼の作品が文学史においてどう位置づけられるのかといったことはわからなかった。でも、かつて読んだことのない世界がそこにはあった。文学というものの自由さや、あるいは自由であることの不自由さ。そして言葉が言葉そのもので十分愉しめる強度を持っているということを痛感した。あのワクワクした感じはなんだろう。長く、いろいろな小説を読んできたけれど、ああいう感覚を味わえることは多分、そんなに多くはないはずだ。ボクの文学や言葉というものへの考え方を変える大きなキッカケとなったのは、高橋源一郎さんの存在がすごく大きいのだ。

このブログでも何度も言及しているけれど、彼ほど書くことや言葉というものについて深く悩み苦しみ、そして格闘してる作家はいないんじゃないかと思う。もちろん、作家である以上、誰もが「言葉」については世間一般の人たちよりはずっとずっと深い思いがあるはずだろうけれども、彼ほどの切実さを持って、人生すべてをかけて言葉に取り組み、とり憑かれた人はいない。そして、今回の「小説ラジオ」も、結局のところ、すべて「言葉」というものに対しての姿勢やスタンスや、考え方についての言及だった。やっぱりそこなんだ、ということがわかって、ボクはそれがやはりとても嬉しかった。言葉について言葉で語ろうとすることは、常に自己言及の矛盾にぶち当たる。そんなことは源ちゃんは百も承知だろう。が、それでも語らずにはいられない、考えずにはいられない。そんな彼の姿にボクは、本物の作家の姿を見た。

最新作「さよなら、ニッポン 」は、もう本屋には並んでいるようだけど、ボクはAmazonで予約中だ。早く読みたい。

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